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「文化の継承」の出発点

「動的保存」という言葉を初めて聞いたのは、とある重要文化財を訪ねたときだった。保存とは単に元のかたちを維持することではなく、古きよきものを残しながらも現代に生きる人たちが活用することも含むのだと丁寧に解説していただいた。ガラスケースに入れて傷ひとつ付けないことだけが「保存」ではない。人がそこで生きているからこそ建物も生きる、そんな保存のしかたもあるのだと。

美術館や博物館に並ぶ芸術品はどれも美しく、ため息がでる。と同時に、古い旅館やホテルの使い込まれた家具や柱、老舗で何十年、何百年と作り続けられてきたもの、昔と同じ手順で作られるものづくりの現場もまた美しく、心惹かれるものがある。海外に赴けば、観光地として有名な場所と同じくらい、土地の暮らしに根ざしたマーケットやスーパーを訪れることが楽しみのひとつである。

歴史的に価値のあるものはそのまま残しておきたくなるけれど、かたちあるものだけでなくそこに紐づいてきた習慣や物語ごと受け継いでいくには、「使いながら残す」アプローチもまた必要なのではないかと思う。

掛け軸も屏風も仏像も茶器も、国宝として保存され展示されている美術品はすべてそのモノ自体が価値を持っている。しかしその美術品たちがかつて日常を彩り、生活の一部として使われてきた場面を想像し「懐かしむ」ことが、連綿と受け継がれてきた文化の営みを感じることなのではないかと私は思う。

文化は「暮らし」から離れては成立しない。

モノと人は不可分であり、モノを見るときには必ずその向こう側にいる人間を想像しなければならない。作り手であれ、使い手であれ、モノを取り巻く人の記憶がそこには詰まっている。

同じように、異国の文化に接する際も私はその国や地域のコンテキストから離れて「モノ」だけを鑑賞するのではなく、街で現実に生きている文化を見る。有名でもなんでもない街中のカフェやショップの雰囲気や道行く人たちの姿、現在の住宅デザイン。芸術品からスーパーで売っている果物にいたるまで全てが文化であり、現在の暮らしが次の文化を作っていく。

何を守り、何を変え、どんな考えのもとでどんな暮らしを創り上げてきたのか。

過去と今を切り離して琥珀の中に閉じ込めてしまうのではなく、モノが器となって受け継いできた記憶を今に生かすことが、本当の意味での文化の継承なのではないかと私は思う。

もちろんそのままのかたちで残しておくべきものは多く、実際に触れて使用できるモノを増やすべきというわけでは決してない。歴史的背景や文脈を知らずとも美しいものは美しく、先入観なく接した方がいい場合もある。

ただ、ひとつひとつのモノを点で捉え、情報として消費するだけでなく、目の前のモノたちが纏うその時代の記憶を「思い出す」こと、その精神性が今どこでどう繋がっているかに思いを馳せ、生かすことが文化の継承に求められる態度ではないかと思うのだ。

小林秀雄はかつて本居宣長を例にあげながら、「本当の歴史家は『思い出す』ことをする」と説いた。

経験したことはないのに、なぜか懐かしさを呼び起こすもの。自分を育んできた文化と自分自身が重なり合う瞬間を体感すること。

自分の中にその息吹を発見する営みこそが「文化の継承」の出発点であると信じ、消費と暮らしが文化として成立してゆく営みを考察することが、私の試みのひとつである。

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