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独りで美しく暮らすという贅沢

昔から部屋の片付けが得意でない私は、毎年「大掃除したあとの部屋を保つ」と決心しては、1月も終わる頃には早々にくじけてしまっている。

そのメカニズムもすでにわかっていて、たった1日「今日は疲れたからいいや」という甘えが、翌日の片付けをより億劫にさせ、負債が積み上がっていくのだ。

これは叱る人のいない独り住まいの気楽さでもあり、代わりに片付けてくれる人のいない切なさでもある。

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最近新しい家に引っ越して、「美しく暮らす」ということをより意識するようになった。

部屋自体も広くなったし、ベッドや本棚も古き良きクラシックなものが揃っていて、収納もたっぷりある。

ズボラな性格の私でも、なんとなく「綺麗にしていたい」と思う雰囲気が、部屋自体に漂っているのだ。

向田邦子は、エッセイの中で暮らしについてこう語っている。

自由は、いいものです。
ひとりで暮らすのは、すばらしいものです。
でも、とても恐ろしい、目に見えない落とし穴がポッカリと口をあけています。
それは、行儀の悪さと自堕落です
自由と自堕落を、一緒にして、間違っているかたもいるのではないかと思われるくらい、これは裏表であり、紙一重のところもあるのです
男どき女どき/向田邦子)

昔話でお櫃からそのままごはんを食べているところを見られた女性が、その行儀の悪さから結婚話が破談になったという例もあるように、誰にも見られていないと油断していても、どこかで表に現れてしまうのだ。

誰にも見られることのない自分だけの空間で、どういう態度で過ごすか。

そこにその人の真価が表れるのかもしれない。

私の美意識は大学時代に読み漁ってきた純文学と、中原淳一、美輪明宏の影響を多分に受けているけれども、美しく生きることは自分のためだということもそこで学んだ。

今の世の中イライラして当たり前。
街はノイズにあふれ、無味乾燥で不気味なビルが立ち並び、政治・経済を含めた社会全体が、人をいら立たせる構造になっているのですから。
ですから自分の部屋をお城にしてしまうことです。
家に帰れば、平和がある
そう思えれば、外での不快感も中和できます。
現代で身を守る防御策はそれしかありません。
(愛の話 幸福の話/美輪明宏)
人に見せるためのものではなく、自分の生活に愛情を注ぐこと、
誰のためでもなく、自分のために、自分の生活を大切にしたいものです
(あこがれの美意識/中原淳一)

こうした言葉に出会った当時はまだ若すぎて、わかっていてもできないことばかりだったけれど、少しずつ年を重ねることでより納得し、行動に移せるようになってきたような気がする。

外で戦うためには、自分自身の強さと同じくらい、傷ついてもその傷を癒せる場所が必要なのだ。

疲れたら、いい布団に包まれてぐっすり眠る。
辛いことがあったら、親しい人たちと会って楽しい気持ちを取り戻す。

そして人とのコミュニケーションに疲れたら、自分だけの空間でゆっくり自分の好きな本を読んだり映画を見たりして、回復する時間が必要だ。

人は、傷ついてもすぐに回復できると思えばこそ、勇気をもって一歩を踏み出すことができるのだから。

前述の向田邦子のエッセイには、こんな一節もでてくる。

私はひと冬を手袋なしですごしたことがあります。
気に入らないものをはめるくらいなら、はめないほうが気持ちがいい、と考えていたようです。
私は何をしたいのか。
私は何に向いているのか。
ただ漠然と、今のままではいやだ、何かしっくりしない、と身に過ぎる見果てぬ夢と、爪先立ちしてもなお手のとどかない現実に腹を立てていたのです。
(男どき女どき/向田邦子)

インテリアや自分の身に付けるものを選ぶということは、自分の美意識を磨くことであり、何を快適に思い、どうありたいかを考えるということでもある。

若い頃は外に見せる自分だけ取り繕うことに精一杯だったけれど、大人になるにつれて自分だけしかしらない自室で過ごす自分にも手をかけようという気が起きるのは、非常に贅沢な心境の変化ではないかと思う。

自分の城を作り、美しい余白を保つこと。

これは今年の私のひとつのテーマでもある。

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