インスタントに消費されていく世界の中で

私が『知性ある消費』に興味を持ち始めたのは、いつの頃からだったのだろう。

百貨店に入ったときだろうか。それともロードサイドな文化に飽き飽きしていた高校時代だろうか。

いや、遡ればもっともっと前から、『消費』について考えていたような気がする。

まるでそれが、自分の使命かのように。

私が『消費』という言葉にこだわる理由

『消費する』という単語は、ネガティブな意味合いで使われることも多い。

ニュアンスとしては『消耗する』に近い、非文化的な文脈が消費というワードには込められている。

『費』やしたものが『消』えるのだから、あまりポジティブな意味でないのは当たり前といえば当たり前なのだけど。

でも、消費がなければ生産もないわけで、それ自体が悪いわけではない。

私があえて『投資』ではなく『消費』という言葉を使ったのは無意識の偶然だったけれど、投資という最終的な利益を求める行為ではなく、より刹那的に『今、ここ』を楽しむニュアンスを含む『消費』という言葉が、私はなんだかんだで好きなのだろうな、と思う。

"意思"と"意味"の違い

消えていく儚いものに、意味と文化を与えていく。

単に長く続くものを作るという話ではなくて、そこに確固たる意思を持つことが私の目指す『知性ある消費』なのかもしれない、とふと気づいた。

そのきっかけは、今週のWEEKLY OCHIAIで川谷さんが『僕は好きな音楽を作っているだけ』と繰り返し主張しているのを見たことだった。

彼が曲を書けば毎回ヒット、というのは当たり前に見えてまったく当たり前のことではない。少しずつ劣化してって、気づいた時には枯れてしまうアーティストはたくさんいるのだから。

さぞやヒットメーカーとしての独自の法則があるのだろうと思いきや、彼はどのインタビューにも『自分はインプット量が多いだけ』と答えている。そして『売ろうと思って書いた曲なんてない』とも。

そのとき、なぜ川谷さんがのびのびと新しい曲を作り続けられるのかがわかった気がした。

彼は『消費されることを怖れていない』のだ。

売るための商品として曲を書いているのではない。だから、長く愛されようという視点もない。

ただそこには、確固たる意思がある。

自分が好きだと思える曲を書く』ということだ。

もちろんいち作り手として1人でも多くの人に届いてほしいという気持ちはあるだろうけど、それが制作プロセスに影響を与えることはない。

逆説的だけど、この媚びなさこそが彼の曲が評価されているポイントなのだろうと思う。

私たちは、何かを作ろうとするとつい『人に気に入られるもの』を考える。

それは時代性だったり、人の本能に根ざしたものだったり、細かいテクニックをいえばキリがないけれど、そうやって『意味』にこだわったものは、消費されることが怖くなる。

なぜなら、自分が確信を持って『これが好きだ』と思えていないからだ。

自分で確信が持てないものは、他人からの評価によってしか確信を得られない。そして時間が経って誰も見向きもしなくなっていったとき、心の拠り所を失ってしまうのだ。

これは何かを作る仕事の人だけではなく、あらゆる人に言えることではないかと思う。

作る時も買う時も使う時も、意味を追い求めすぎると他人に依存することになる。

自分が好きかどうか。その全員の『意思』こそが、豊かな文化を育んでいく。

なぜ『インスタント』に恐怖を感じるのか

『知性ある消費』の対義語は何か、と聞かれたら、私は『インスタント消費』だと答える。

もちろんインスタントが完全に悪いわけではなく、結局はバランスの問題なのだけど、インスタントに何かを消費するということは、価値基準を他者に預けているということだと思うからだ。

インスタ映えにこだわることもバズを追うことも、それ自体が悪いわけではない。

そこに『自分の意思』がないことが問題なのだ。

例えばインスタグラマーの中でもトップ層の人たちは、もはや承認欲求から解き放たれていることが多いのではないかと私は思う。

細部へのこだわり、毎日の更新、映える被写体を逃さない目はすべて、『まず自分のため』にやっていることなのではないか、と。

一方で、いいねの数を稼ぐためにどこかに行くとか何かを用意するということは、評価軸を完全に他人に明け渡している。

そうやって無意識に『自分ではない誰か』の意思によって行動が規定されてしまう人が多いことに、私は違和感や危機感を抱いている。

手軽であること。それ自体は悪いことではない。

ただ、自分の意思を持たず、無意識に人のせいにしながら生きることは罪だ。

『自分の感受性くらい、自分で守れ。ばかものよ』

茨木のり子が書いた詩の一節は、年を重ねるごとに自分の身に迫ってくる。

意思が死んでいった先に

最近、三島由紀夫が死ぬ直前に書いた「果たし得ていない約束」の全文を読んだ。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」(三島由紀夫「果たし得ていない約束」)

おそらくこの文章が発表された当時、彼が書いたことの意味を本当の意味で理解できた人はほぼいなかったのではないかと思う。

そのくらい彼が書いたことは先進的で、『今』に照準を当てたかのような主張だ。

高度経済成長と共に一億総中流化し、そしてバブルがはじけ、平成の30年は『夢よもう一度』という儚い希望とともに失われていった。

その原因のひとつは、私たちが価値基準を西洋という他者に預け、『日本』を生きてこなかったからなのではないだろうか。

意思をもたず、他人に評価軸を預けるということは、『無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の』存在になっていくということだ。

そして 『それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれな』いという点では、私も三島と同意見だ。

当時よりさらに寿命が伸びて、100年近く生きる可能性が高い今、そんな空虚な世界で生きていくのはあまりに辛すぎる。

便利に、簡単になることが悪いのではない。
むしろどんなに手間をかけようと、スローに暮らそうと、それが単なる流行りや他者からの承認に根ざしたものであって、自分の意思によるものではない場合、私の基準に照らしていえば『知性ある消費』ではない。

自分の意思をもって作り、選び、使い、慈しむこと。

そうした確固たる自己なしに生きてくには、この世の生はあまりに長すぎる。

ますます全てのものがインスタント化していく中で、生きる意味を何に見出すか。

そのひとつの解が『知性ある消費』なのではないかと私は思っている。

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最所あさみ

余談的小売文化論

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