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人はなぜ "神"を求めるのか

『宗教は孤独を癒すものである』という言葉があります。

私はこれをずっと、同じものを信仰する仲間がいることによる孤独の救済なのだと考えてきました。

孤独というものは、私たちが人間として社会性と知性を持っている限り、永遠に向き合っていかねばならないテーマでもあります。

そのための手段のひとつが宗教であり、違う人間同士だからこそ、ルールではなくもっと不変の、民族や国というアイデンティティに根ざした共通のものを持つことで人は孤独を癒し、生き延びてきたのではないかと思っていました。

今さかんに言われている『コミュニティ』も同様で、考え方や好きなものが同じ人が集まって孤独を癒す、それが宗教というコミュニティなのだろう、というのが私の考えでした。

しかし、例えば遠藤周作の『沈黙』では、むしろ宗教によって迫害され、安心安全を奪われた宣教師がそれでも神に祈り続ける姿が描かれています。

本来は人間社会を円滑に回すために生まれたはずの宗教が逆に個人を社会から断絶させ、さらにそれでも手放すことのできない宗教とは何なのか。

『沈黙』はこれまでの私の宗教観を一変させる作品でした。

一方で、私は今後広義の意味での宗教が人の数だけできるだろう、とも思っています。

例えば芸能人やスポーツ選手も、人によっては神に値することがあるはずです。

さらに最近ではインフルエンサーのように、SNSを中心に自らのファンを獲得できる手段も増え、熱狂的な支持を集める人の数が格段に増えました。

1人が100万人に支持されるのではなく、1万人からの支持を集める人が100人いる、という流れが起きているのが今という時代です。

そしてそれは単に好き嫌いの領域を超え、自らの投影として応援しているうちにいつしか自分の期待を叶え、希望を体現してくれる相手という神のような立ち位置に変化していくのです。

日常の中でも、流れてくる熱愛報道への悲喜こもごもやちょっとした失言による炎上を見ていると、それはつまり神に裏切られた怒りなのかもしれない、と感じることがたびたびあります。

例えば、芸能人が結婚したり、熱愛が発覚したりすると怒って離れる人たちが一定数いるのは、その芸能人が自分の思い通りにならなかったことで裏切られたと感じるからではないでしょうか。

つまりその場合に彼らが愛しているのは実在する人間ではなく、自分の想像上の偶像でしかありません。

しかし実は、これが神という存在の真髄なのかもしれない、とも思うのです。

冒頭の『宗教は孤独を癒すものである』という言葉に戻ると、実は孤独を救済しているのは神自身であり、共に信仰する仲間はさほど影響を与えないのではないかと私は最近思っています。

神という存在にとって重要なのは『実態がない』ということであり、それゆえに自分の中にだけ存在することができ、決して期待を裏切ることはありません。

私はすでに他界した作家や歴史上の人物が好きなのですが、それもある意味自分の中で勝手に想像し、決して自分の期待を裏切らない偶像を持つということだと解釈できます。

生身の人間は決して自分の思い通りにはいかないからこそ、近づくほどに孤独を感じてしまうこともありますが、自分の中に信仰としての偶像を持つということは、決して裏切らない味方を持つということでもあるのです。

人は、孤独を癒すために自らの中に神を創り出す。

そして習慣や伝統としての宗教ではなく、自分の信念としての神を持つこと。

そうした拠り所を持つことが、変化の激しいこれからの時代を生き抜く上で、求められていくのかもしれません。

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