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矛盾を愛せる人であること

一般的には、言説に矛盾がないこと、常に一貫した主義主張をもつことが善とされています。

「こないだと言っていることが違うじゃないか!」
「あなたの言うことは矛盾している」

日々、いたるところでこうした指摘を目にします。

しかし、私は人が人である限り一切矛盾のない人というのは存在しないのではないかと思います。

人には、合理的な判断を邪魔する「感情」というものがあるからです。

そもそも、「人間の建設」で岡潔が言っているように、「矛盾しているかどうか」という判断自体が感情的なものです。

矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足をあたえるためには、知性がどんなにふたつの過程には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力なんです。(中略)人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。」
(人間の建設/小林秀雄・岡潔)

どんなに理論的に考えているつもりでも、私たちは結局「感情的に」納得するところからは離れられないのです。

だからこそ、誰かの意見が矛盾していたり首尾一貫していないと思うのは自分の感情のせいであり、そこには少なからず相手への好意の有無が関係しています。

どんなに自分は合理的に考えていても、実際には私たちが人間である限り感情から逃れることはできません。

であるならば、自分は冷静で合理的だなどと自惚れることなく、自分は感情的な生き物だと自覚する方がよっぽど正確にものごとを見ることができるのではないかと思うのです。

歴史に残る偉大な数学者であった岡潔は、理論的なイメージに反して情緒の重要性を説いた人でした。

情緒を形に表すと言う働きが大自然にはあるらしい。文化はその現れである。数学もその一つにつながっているのです。その同じやり方で文章を書いておるのです。そうすると情緒が自然に形に現れる。つまり形に現れるもとのものを情緒と呼んでいるわけです。(中略)そういう情緒が全くなかったら、こういうところでお話しようという熱意も起こらないでしょう。それを情熱と呼んでおります。」

私たちが大切にすべきなのは「矛盾がないこと」ではなく、矛盾すらすべて飲み込んで自分の中の情緒を育て、形に現していくことです。

大自然の中ですらもあちこちに矛盾、つまり私たちが感情的に理解し得ない現象が多々あるのだから、小さな枠の中であれこれ考えていることに矛盾が発生するのは当たり前のことです。

目の前の小さな矛盾に気を取られるよりも、自分や相手の思想の出発点であるまだ形になる前のもの、すなわち中心にある情緒を見つめる意識こそがものごとの本質を見誤らないために重要なことなのではないでしょうか。

矛盾とは自分の感情の問題であり、その核にあるものさえブレなければ瑣末な問題であると理解すること。

小林秀雄・岡潔という文理双方の知の巨人がこれほどに「情緒」にこだわる理由は、情熱こそがすべての出発地点だと真に理解していたからなのかもしれません。

「直感と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ、見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。」

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