誰かの靴を履いてみる

今年読んだ本の中でベストを選ぶとしたら、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」だなと思う。最初に読んだのは今年のかなり始めの頃、まだコロナ禍になる前だから、今はなんだかかなり前の事に感じるけれど。

全部本当に面白かったのだけど、その中で私がとても惹かれ、今もよく考えている箇所がある。


それは、「エンパシー」という言葉について。

文中によると、日本語では「共感」「感情移入」と訳されているそう。
でも、読み進めていると、それとはなんだかニュアンスが違う。どちらかというとそれは、「シンパシー」の方で、その二つは全然ちがうものだということがわかってくる。

「シンパシー」は、誰かをかわいそうだと思う感情や、誰かの問題を理解して気にかけていることを示す事。いわゆる同情の事で、「エンパシー」は、他人の感情や経験などを理解する「能力」。

シンパシーは同情に値する、自分の理解の範疇にある物事について抱く感情だけど、エンパシーは自分とは全く違う、自分の経験や感覚では考えも及ばない、共感も同情も出来ない立場の人の気持ちを想像する力のこと。全然違う。また、能力と言っているだけに、学ぶ事によって得られるものなのだと。

この本では、移民が多く、政治的・歴史的背景が異なる民族同士が共に暮らす上で必要な学びとして、主人公が暮らす国の中学生の必須教科として紹介されていた。(この物語はノンフィクション)

私はこの「エンパシー」こそが、長らく必要だと考えていた事だったのだと腑に落ち、しばらくずっとこの事を考えていた。正確な和訳がされない上に、こんな大切なことをなぜ日本では教えないのだろう?と不思議でたまらなかったけど、単一民族が多い島国という歴史的背景が関係しているのだよなあとも思った。でも、もうそんな時代じゃないし、いまこそ学ぶべき学問だと私は強く感じた。

私は10年以上SNSを頻繁に利用している。もう自分の一部だといっても過言ではないくらいだし、ソーシャル親戚のような関係の人もいる。成熟した界隈にいくつか身を置いて来たけど、もう落ち着いているし、リテラシーが高く、周りも熟練の匠のような人たちばかりになった。
そんな中、昨年末から新しい界隈を覗き見るつもりなだけが、気付いたら軸足を置いてしまっている場所がある。そこは様々な界隈から集まった人々で出来ているのと、歴史がないためとても未成熟で、尚且つ若年層が多い傾向にある様子。(幅が広く、家庭を持った大人も結構存在するが、特にこの層が一番、ネット上で長らく生息してきた様な人は少数派のように私は感じる)

そこでは、ひとつの問題が起きるたびに、同じ様なやりとりを目にすることになる。こうやって界隈や民度というのは育まれるのだなあ、などと小動物が育つ過程を見守るような気持ちと距離感でいる事が多いのだけど。
どうにも「シンパシー」のみで物事を進めていこうとする(自分の理解の範疇外の価値観・経験を排除しようとする)人々がとても多い傾向にあることについて気になっていた。

真面目で、正義感が強く、従順な人の方がこの傾向が強いのも感じられた。ただの個人的な不平不満と問題定義を混同し(個人的な不平不満も、周囲に同調を強要せず、責任を負う覚悟さえあれば立派な意見だと私は思うが)、「推しの迷惑になる!」という名目で、箝口令を敷くような流れも相当数見られた。有意義な議論になる可能性を孕んだ問題でも、必ずこの流れが起き、皆右へ倣えの要領で、個人の意見のない、団体としての意思を求められるようになって久しい。もはや個人の自由なつぶやきなど許されない(ただしポジティブなものを除く)といった謎の緊張感に包まれることもしばしばだ。

もちろん楽しい時はとても盛り上がるし、愛情深くて素敵な界隈だと思う。ただ、民度も大切だけど、なんだか界隈が息苦しい感じに落ち着いてきちゃったな〜、と個人的には思っている。
そんな時にこそ、この「エンパシー」という能力が必要なのだろうなと、よく考える。

私はワイドショーやニュースなどで「叩かれている側」の気持ちや立場、ここまでの過程を想像してしまう癖が昔からあるのだけど。もちろん本当のことは本人にしかわからないし、理解できない事の方が多い。とんでもない犯罪で嫌悪感がすごくて切り分けが上手く出来ない時もある。でも、自分が1からこの人の人生と同じルートを辿ったとしたら、100%こうならない自信があるかといったら、全然そんなことないんだな、と思えて仕方がない。ましてや、責める権利など自分にはないよな、とも思う。理解・同情出来なくても、人として尊重はしたいなと思うからだ。もしかしたらこれが、少しエンパシーに近い考え方なのかもしれない。

出来立てのファンダムでも、そうでなくても。人の数だけ異なった考え方があって当然だと私は思う。同じものを見ても、それぞれ感じ方が違って当然であり、無理矢理意見を統一する必要はないように感じる。根源は同じ対象を好きだということから出ている意見なのであれば、理解できなくても、ただ違いを認め合えるファンダムになってくれたらと願う。だって、同じ解釈や同じ意見ばかりのTLって、すごくつまらないから。不満があるときには責任持ってきちんと言葉にしたい人、供給が途絶えて寂しいことをつぶやく事で癒される人、ぐっとこらえて楽しい事を話す事で穏やかになれる人、そっとしばらく♡を付けるだけにする人。色々いていいじゃない。自分とやり方が違うというだけで否定し合うファンダム、新規怖がって離れていくと思うし。古参だって息苦しくて段々居なくなる。ファン同士で自粛警察を警備させるような行きすぎた同調圧力は、ファンの母数を減らす事に繋がり、推しの為にはならないように感じる。

でも、ここまで多数の人が同じ傾向にあるのは、教育の問題が大きいように感じる。特に若年層が顕著なので、よけいにそう思える。私が見ている界隈だけでなく、ネット上の多くの問題は「エンパシー」能力によって希望を見出せる事もあるのではないかと思う。なので、日本もエンパシーについての学びが義務教育で受けられる様になるといいなと思った。

私も、違うものは怖い。自分や大切なものを脅かされる気がする。実際そういう場合だってたくさんあるのだから、注意が必要だとも思う。無意味な誹謗中傷は本当に本当に嫌な気持ちになる。
だけど、ネット上の自分と違う意見に対して、「あなたはこう思うんですね、自分とは違うけど。」という気持ちで線を引けたら、多くの人が楽になるような気がしている。むっとしたり、流されそうになることも沢山ある。だけどそういう時、しっかり自分の意見を持てるように、エンパシーについて学んでいきたいなと思っている。

シンパシーは感情だから、個人のそれはどうにもならないけど、エンパシーは学びで補うことが出来る。そこに希望を持っている。

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