羨ましいが減ってきたこと

私は劣等感まみれの自己否定の中で生きてきたから、常に誰かが羨ましくて、自分自身の能力や才能なんて存在しないと思って生きてきた。まぁ、正直能力や才能が自分にあるとは今でも思えないけれど。
それでも少しだけ変わってきたのは、好きなことを好きな時に出来る環境に身を置いて、自分が楽しいと思えることを楽しんでいるうちに、嫉妬にまみれたり誰かをうらやんだりすることが格段に減った。
どうしてなのかはわからない。
でも、人の幸せを心から祝福できることも増えたし、誰かの才能を応援できるようにもなってきた。以前は祝福や応援とか、うわべでしかできていなかったように思う。

おめでとうっていいながら、ずるいとか、わたしだってとか、なんかそういう、常に自分と比べてしまうようなそんな感覚が奥底にうごめいていて。なんとなく、ただただその人のことを想うっていうことが出来なかった。

幸せの絶頂にいるであろうその人と、つらい状況にいる自分とを常に比較してしまうような、ある意味惨めな人間だったかもしれない。
私にだって幸せな瞬間だったりはあっただろうに、わざわざ自分よりもずっと幸せに見える人と、自分を比べて、「私は不幸だ」と思うのだから、不幸大好き人間みたいなそんな惨めさだ。

でも、どうしてそんなことをしてしまうのか、どうやったらそれをやめられるのかわからなかったし、正直それはいまでもわからない。

でも、人の評価なんか気にせずに自分がやってみたいことをやっていたら、いつの間にか少しずつ嫌な自分が減っていた。
理想と現実のギャップに苦しむ自分とでもいうのだろうか。
ここでいう理想は、言葉通り「理想の自分」だけど、現実の方は少し違っていて、自分の劣等感と自己否定のフィルターを通した「現実の自分」だ。だから私が苦しんでいたギャップは、正確に言うと「良い理想と悪い妄想」のギャップかもしれない。「現実」をちゃんと捉えられていない。それに尽きる。

多分、好きなことをやっているときの自分は、自分で自分を評価することなく、ただやりたいことをやっている自分だから一番「現実」に近い自分なのかもしれない。そしてその現実は自分の感情や諸々のフィルターを通さないただの事実でもある。今でいえば、PCを使う自分、文章を書いている自分、それが事実で、PCでnoteの記事を書けている自分がきっと現実の自分といったところだろうか・・・。

あ。

多分、好きなことをしているときは、ただひたすら今の感覚に集中できているときだともいえるから、きっと、気付かないうちにマインドフルな状態になっているんだな・・・
だから、段々と色んな自分のJudgeから逃れられるようになる。
いいことだ。

羨ましいが減ってきたのは、好きなことをしてマインドフルな状態でいることが増えたからみたい・・・。

自分を労わって自分のJudgeから逃れる時間が増えれば、そのうちACやPTSDなんかも魔法みたいに良い方向へ向かっていってくれるかもしれない。

積極的に自分を労わろう、好きなことをしよう、そういうことを一緒に楽しんでくれる人と過ごす時間を増やそう。
そういう意識は忘れないでいよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?