自分の言葉を手に入れるために

書かせたものの添削をしていると、生徒の顔がよく見えます。

自分の体験に根ざした主張と、どこかで聞いた事のあるような一般論とでは言葉の重みが違うのです(「言葉の重み」などという客観的に測定する事の出来ない基準で生徒を比較するのは形式主義者たる垣内の信条には反するのですが)。

一般的に、小論文とは作文と異なり、自分の経験を語るものではないとされていますし、原則的にはその通りです。とはいえ、小論文が「自分の意見」を求められているのである以上、採点者としても誰もが語りうるような一般論よりも、その人自身の言葉を聞きたい(読みたい)のではないかとも思うのです。別に自分の経験そのものを書く必要はないでしょうが、主張する意見が書き手の経験に根ざしたものでなければ、第一読んでいて面白くない。

先日、とある研修会の席で「クラス運営に最も大事なことはなにか」というお題に対して「思いやりの心をもつこと」と答えた先生がいらっしゃったのですが、こういう誰にでも(教育関係者でなくたって)言えるような台詞を聞いて研修の他の参加者にどういうメリットがあるのか僕にはわかりませんでしたし(その研修会自体どの程度の意義があったのかという問題もありますがそれはそれとして)、そもそもその先生自身そんなことを本気で思っていたのか疑わしい。「思いやりの心があればいじめもなくなるはずです!」というご意見は、彼女のどういう体験から出て来た答えなのかまるで想像もできないし、その意見からはそれを語る人の顔が全く見えてこないのです。

「思いやりの心があればいじめはなくなる」という主張の妥当性そのものにも大いに疑義がありますが、それ以前の問題として、そういう当たり障りのない一般論は聞いていて少しも面白くない。

小論文の問題集の解答例を読むのはとても苦痛です。正しいか間違っているかは別として、そこに書かれているのはどこかで聞いたような話ばかりだからです。

どこかで聞いたような話をそれらしい体裁の文章に仕上げる事が出来るというのは、間違いなく大学に入ってからも、更に言えばおそらくは社会に出てからも有用になる技術に違いありません。そして、変に癖のある主張をする受験生よりも、当たり障りのない無難な意見を提出する受験生を好意的に評価する大学が無いとは言い切れないし、就職活動における小論文試験であればそのような傾向はさらに強まる可能性もあるように思われます。

だとしても、僕個人としては自分の生徒にはそういうレベルに安住して欲しくないという思いもあるのです。

生徒には自分の言葉で何かを主張できる人間であって欲しいと思いますし、少なくとも大学はそういう人間の居場所であるべきだと思います(大学、というより学校と違って、「社会」なるものはどちらかと言えば自分の言葉を持たない人たちのための世界だと思っていますが、自分の頭でものを考えられない人間が増えすぎた社会にはあまり明るい未来は期待できない)。

それでは、自分の言葉とは何なのか。

言葉というものは、そもそも「自分のもの」ではありません。それは常に社会的に規定されたルールの中で運用されるものであって、そういう意味では人間は誰一人として「自分だけの言葉」を持ち得ない。

言葉を自分独自のオリジナルなものにするのは、言葉そのものの使い方ではなく、言葉を使う人間のオリジナリティーです。その人の体験がその人の言葉を特別なものにするのであって、言葉自体が最初から特別であるわけではない。

『それでも人生にYESと言う』というヴィクトール・フランクルの名著がありますが、この(いかにも昨今の自己啓発本作者が好みそうな)タイトルが単なる綺麗事でないのは、フランクル自身の強制収容所での激烈な体験があるからです。

スティーブ・ジョブズの言葉は多くの人の心を動かしますが、ジョブズの言葉を引用して人を感動させようとする人間の言葉に心を動かされる人はあまりいません(まあ、僕はジョブズがどんなことを言っているのか全然知らないのですが)。

言葉というものは、その人自身の体験と結びついたものでなければ、独自性を担保する事ができないのです。

自身の体験に深く結びついた主張は、必ず他の意見との対立や摩擦を生みます。「思いやりのあるクラスを作りたい」という誰にでも言える言葉は、誰にでも言える故に何も言ってないに等しく、何も言っていないに等しい言葉であれば対立も摩擦も起こりえない。ところが、語り手の体験に根ざした、その人自身のオリジナルな言葉には確固たる実体が備わっています。実体のある言葉だからこそ、必ず誰かと衝突するのです(これは現代文読解の文脈では「一般論は必ず筆者によって批判される」というルールとして説明されるものです。「一般論」とは誰にでも語る事のできる言葉であり、いやしくも評論文を書いて何かを主張する人間がそれを肯定するなどということはあり得ない)。

自分の言葉を語る事は、誰かを批判したり批判されたりする事と不可分に結びついています。というよりも、社会一般に通用している考え方を疑うところから自分の言葉を獲得する過程がスタートするのです(ちなみに、いわゆる「炎上芸」というのは一般論のベクトルを単純に逆にしただけの言葉であって、本人のオリジナルな言葉でないという点では一般論と何も変わらないと思っています)。

一般論を疑い、自分自身の体験から言葉を紡いでいく。自分自身の体験に根ざした独自の考えを言葉で十全に伝えるのはとても難しいことですが、それでも伝えようともがくなかで、自分の言葉の獲得は実現するのであろうと思います。

そういう面倒な作業が嫌だという生徒はいるでしょう。そもそもその為の能力に恵まれていないというケースにつても否定はできません。それはそれで仕方ないことだとも思いますし、そういう生徒も大学には合格させるというのが受験屋としての僕の仕事でもあります。ですが一方で、僕が目を見張るような新しさを感じさせる言葉を語ってくれる生徒が現れたりすると、自分が何の為にこの仕事をしているのか思い出すことができるのです。


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