謝罪の効用

少し前のことになりますが、アイドルグループのメンバーが男性集団から暴行を受け、なぜか被害者であるはずの女性が「謝罪」をしたという奇妙な事件が起こりました。

なぜ被害者が謝罪しなければならないのかと、巷間には運営会社の対応を非難する声で溢れていましたし、私もニュースを見たときには開いた口が塞がりませんでしたが、一方で「被害者が謝罪する」という現象それ自体は決して珍しいものでもないようにも思いました。

インフルエンザに罹患して仕事を休むことになったら、復帰したときには職場の人間には「ご迷惑をおかけしました」と謝罪するのが一般的でしょう。インフルエンザに罹ったのは必ずしも私のせいではありません。それでも、一言お詫びの言葉を伝えておくことで、対人関係が円滑になるというることを知っているので、別に悪いことをした覚えはなくても謝るわけです。

謝罪とは何か。

素朴に考えれば、「悪いことをしたら謝る」というのが「謝罪」です。しかし、今言ったように人間は特に悪いことをしてなくても謝るものだし、場合によっては明らかに被害者であるはずの人間が謝罪を強要させられることさえあります。

そもそも「悪いことをした」とは何を意味するのでしょう。人を殺すことは普通に考えて悪いことです。しかし、(法的な裁きは別として)人を殺した人間が「謝罪をしなくてもよい理由」をあげようと思えばいくらでもあげられます。被害者が殺されるに値することをしたのだと言うこともできるし、自分を殺人行為にまで追い詰めた環境が悪いのだとも言えるし、自分を生んだ母親が悪いとも、その母親を生んだ祖母が悪いとも、人間を作った神様が悪いとも、主張したければ主張できます。

自分の行動が悪い結果をもたらしたとしても、それについて自分に責任は無いのだと論じるのは簡単なことです。出会い系バー通いや天下り先の斡旋問題で辞任した某元文部科学事務次官は、文科省の腐敗について「根本的な原因は行政を私物化する今の安倍一強政治にある」と主張していました。垣内の授業が下手なのも安倍政権とか在日とかロスチャイルド家とか天皇財閥のせいだということにすれば、生徒に謝罪する必要もなくなるのでしょう。

極論を言っているように見えるかもしれませんが、仕事のミスを上司に咎められたときに、咎められた側の部下が必ずしも責任を自覚するとは限らないということは誰にでもわかると思います。このことからもわかるように、好ましくない結果について責任を有する人間が謝罪するべきである、というわけではないのです。

逆です。

謝罪することによって「私にはこの結果について責任がある」という物語を構築するのです。責任とはフィクションです。ホロコーストの指導的役割を担ったナチスの高官が、自らの責任を頑に否定する一方で、迫害された側であるはずのユダヤ人哲学者が、自らの受けた迫害について自分は有責であると宣言する。

私たちの社会は、無数の人間たちの様々な行為と、その予測不可能な結果の相互関連によって形成されています。そして、人間の行為の結果は常に不可逆で、良い結果も悪い結果も取り消すことはできません。それにも関わらず、私たちの行為はしばしば「起こるべきでなかったこと」を生じさせます。「起こるべきでなかったこと」を取り消すことはできません。私たちにできるのは、それを許すことだけです。しかし、許すためには許されたり裁かれたりする人間がいなければなりません。人間は、人間以外の何かを許すことができない。そこで私たちは、「起こるべきでなかったこと」が生じたときに、その責任を有する誰かを探すのです。責任者がいなければ責めることも裁くことも許すこともできず、「起こるべきでなかったことが起こってしまった」という非常事態を収束させる術が無いからです。

このように考えてみると、「謝罪」という言語行為の意味が見えてきます。謝罪した人間に罪があるか否か、というのはあまり問題ではなく、その人が謝罪することで場が収まるか、という点が問題なのです。最初に挙げたアイドルの謝罪は、被害者自身に落ち度が無かったから問題なのではなく、この件について謝罪すべき人間が他にいるであろうと多くの人が考えたから問題になっているということになります。言い換えれば、被害者が謝罪すべきであると考える人間が多数であれば、運営会社は非難されなかったということです。

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