評論文の指導について(2)

前回からの続きです。

前回の記事で私は「評論は常識を疑うところから始まる」と書いたが、この表現は必ずしも正確ではない。常識を疑うことは、評論の始まりであると同時に究極の目的でもあるからだ。「常識を疑え!」と教えるだけで生徒が常識を疑ってくれるようになるなら苦労はない。
常識を疑うことが難しいのは、自分の思考がどの程度常識に支配されているかを自覚できないからである。自分の意見がいつ、どこで、何者の影響を受けて形成されたものなのか明瞭に認識しているのであれば、その人は常識の支配から自由であると言える。いつ、どこで、誰の影響によって作られたのかわからないパースペクティブを常識と呼ぶのであり、自分が無自覚に受け取ってきたパースペクティブの由来を解明することは、それ自体が常識を疑い、自分に固有の視点と問題意識を構築するプロセスである。

筆者は、若者の言葉遣いの乱れとされるものは彼らの自己主張のあらわれであり、若者言葉を抑圧することは社会の多様性を否定することであると述べている。私はこの筆者の考えに反対だ。確かに、若者言葉は仲間内でのコミュニケーションには有効なのかもしれない。しかし、そのような言葉遣いは社会に出て年齢の離れた相手や、違う環境で育った相手との対話には向かない。社会に出て活躍するためには、正しい言葉遣いを学ぶ必要がある。

例えば生徒がこのような意見を書いてきたときに、彼(彼女)の思考を支配している常識を可視化・相対化することが教員の役割である。

ここに伏流しているのは「正しい言葉遣い」なるものを自明の前提とする常識である。「正しい言葉遣い」なるものは(それが存在するのだとして)、いつ、誰が、どのような目的で作ったものなのか、まずは考えさせる。
日本の歴史上、標準語なるものが必要となったのは明治時代からである。それは日本を国民国家たらしめる目的から生じた必要性である。

例えばこのようにして、私たちが「近代」という時代の、そしてその延長線上にある現代社会の中で形成されたパラダイムの強力な影響下にあるという自覚を持たせる。「近代」を批判する評論を理解するためには、自分たちの生活がどれほど「近代」の制約を受けているかを自覚しなければならない。そして、「近代」の負の側面について改善の可能性があること、あるいは改善が難しいとしても問題点を言語化して整理することで、少なくともそこに向き合うことが可能になるということを理解しなければならない。その気付きをどのように与えていくかという点に工夫が求められる。

子どもたちは実際のところ、あまり「困っていない」。

近代合理主義が人間の生活を平板化し、匿名的な社会制度が個人を疎外しようと、資本主義の発達によって人間が消費者という没個性な単位に還元されようと、伝統的な共同体のしがらみから自由になった人々がアイデンティティーの基盤を失って存在論的不安を抱えるようになろうと、中高生たちはそのことを特段問題視していない。彼らが生まれたときから現代社会はそのようなものだったのだし、そのような社会の中で生じる違和感を抑圧することが、あるいは彼らが平和に生きるための知恵だったのかも知れない(私はそれを必ずしも否定できない)。

評論を理解するために、まずはその文章の背景にある問題意識が共有されなければならない。それはとりもなおさず、生徒たち自身が現代社会の諸問題に現に直面しており、好むと好まざるとに関わらず、自分たちがすでに戦いに巻き込まれているのだという自覚を持たせることである。
生徒はそれぞれ、能力も違えば興味関心も異なっているし、教科書や入試で取り上げられるような評論のテーマに直接関連する問題意識を持っているとは限らない。ただ、生徒たちは何らかの意味で「不自由」を感じている。自分が不自由であると認識しているかどうかは別として、完全な自由を享受している人間はいない。生徒たちが評論に関心を持つ契機は、この不自由を自覚したところにあるのではないかと、私は考えている。
学校には様々な不自由があるだろう。学業に追われる不自由、校則による不自由、クラスや部活動の人間関係から生じる不自由、これらの不自由と無縁であったとしても、能力的な限界によって生じる不自由があり得るし、それさえ克服したとしても尚、より高い次元の不自由が現れる。あらゆる不自由から自由になれば、今度はその自由をどのように使うべきなのかに悩む。人間である以上、どこかのレベルにおいて不自由であるはずだし、その不自由を自覚させ、かつそれと向き合うことに意味があると理解させることが、評論文筆者の、そしてその評論を受験生に読ませようとする大学の教員たちの世界を解釈する視点と問題意識を共有することなのだろうと思う。

全ての生徒が、少なくとも潜在的に不自由を感じている。自分がいかに不自由であるかを自覚することは、自由になるための最初の一歩である。自由への一歩は、多くの場合歓びよりは苦痛を伴うものなのかも知れない。だからこそ、教員が子どもたちをリードする必要があるのだとも言える。

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