論理的正しさと政治

もし私たちの理性が、「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しいと同意されるような究極的な真理に到達したなら、その普遍的法則をあてはめれば、人間世界のあらゆる問題に対する適切な解を求めることができるとすれば、そのとき人間社会にはある種のユートピアが建設されることになるでしょう。少なくとも近代の哲学はそのような究極的な真理が、いつの日か解き明かされるという前提のもとに「進歩」してきました。
ところが、20世紀になって進歩した人間の理性が作り出したものは、強制収容所と原子爆弾だった。この事実は、それまで近代合理主義を素朴に信じてきた人々に深刻な問いを突きつけます。人間の理性は、本当に我々を正しい答えに導いてくれるのか。ホロコーストを主導したナチスの高官が、平凡で(決して知能に劣るわけでもない)職務に忠実な公務員以上の存在ではなかったという事実は、知識人たちの困惑をさらに深めました。
人類の歴史が発展する過程で、「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しい普遍的な法則が少しずつ明らかになっていくはずだ。このような楽観的な進歩史観を受け入れている人間は、今ではそれほど多くはないでしょう。しかしながら、「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しい普遍的な論理というものに重きを置く人間は今でもそれなりに多い。自分の主張が相手に受け入れられなかったとき、その主張の伝え方に問題があったと考える人よりは、自分の主張に論理的な弱点があったか、相手が論理的に正しい答えを受け入れられない程に狭量なのだと考える人の方が多いように感じられます。

けれども、対立する意見の持ち主を説得するために必要なものはロジックではなくレトリックです。正しい意見は、それを正しいと認め、その理路に従って行動してくれる人間がいて初めて意味を持つのであって、正しさそれ自体に価値があるのではありません。少なくとも、私たちの日常生活において直面する具体的な問題を解決するときには、論理的正しさそれ自体が単独で価値を有するということはほとんどありません。
とはいえ、世の中には、レトリックによって相手を説得したり、ある行動に突き動かしたりすることを「ズル」だと考える人が多いようです。たしかに、絶対的に正しい論理が存在し、正しい論理に従って行動すれば正しい結果がもたらされると仮定するなら、論理ではなく修辞によって相手を翻意させるのは正当なやり方とは言えないのかもしれません。しかし、実際に私たちが直面するあらゆる問題は、単一の普遍的な論理を当て嵌めることによって解決されるというものではありません。誰もが納得し、受け入れられるような論理を当て嵌めることで、誰もが納得し受け入れられるような解決が可能であるような問題など、そもそも問題の名に値しないでしょう。問題というのは、どのような対処をしてもどこかに不満が残るようなものだから問題なのです。

具体的な問題を、抽象的な論理によって解決することの根本的な難点は、今言ったようにそもそもそれがおそらく不可能であるということですが、更に危険なのは、論理による解決が、状況の中に内在する矛盾の清算、すなわち異分子の切り離しという方法に傾きがちであるという点です。
論理とは無矛盾であるがゆえに論理としての価値を持ちます。論理によって問題を解決する試みは、そこに成立している状況とそれを支える人間関係における矛盾を解消すること、つまり、論理を受け入れない人間たちや論理に整合しない人間たちを抑圧、もしくは排除することによって、問題を解決、というよりは「無かったことにする」という問題の隠蔽を意味することが非常に多い。学校現場で考えれば、いじめの隠蔽などがこれにあたります。「本校にいじめはあってはならない」という論理に矛盾する事実は切り捨てられ、隠蔽され、理念的に考えられたあるべき学校の姿を維持しようとするのです。その最たるものが、「ユダヤ人問題の最終的解決」だったとも言えるでしょう。人間社会の現実は常に無数の矛盾を内包しています。その矛盾を無くそうと試みるのは、問題の解決ではなく逃避なのです。

現実の問題を論理によって解決することのもう一つの弊害は、普遍的な論理に立脚して問題を解決しようとする限り、その問題に関わる人間たちが、問題解決に関して責任を自覚しなくなるという点です。
論理とは「私」あるいは、「私たち」の外部にあるものです。「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しい論理なのですから、「私」あるいは「私たち」の主観と結びついていては、それはそもそも論理とは言えず、普遍性や客観性を有するものと認められません。論理は「私」や「私たち」のものではないという点にこそ価値の見いだされるものです。言い換えれば、「論理的に導き出された答え」については、それを「自分の意見」として引き受ける責任が誰にも発生しないということです。
自分の主張が論理的であり、普遍性と客観性を備えたものであると信じている人間は、たとえ自分の主張に基づく問題解決が失敗に終わっても、決してその責任を認めることはありません。「私の論理は正しい。上手くいかないのは誰かが足を引っ張っているからだ」という論法で、自分の正しさに固執する人間は、あらゆる「改革」を称揚する人々の中に数多く見いだすことができる。論理という、彼の外部から持ち込まれた普遍的正しさが否定されることはありえず、彼の計画の失敗は彼の計画を十全に理解し実行しなかった誰かの責任に帰されます。自分の意見なり計画を正しいと盲信出来る人間の図々しさは、彼の意見や計画が彼自身の思考ではなく、彼の外部にある普遍的真理という権威に由来しているという事実に起因するのです。

私たちは問題に直面したとき、私たち自身の思考と責任と判断によって、その問題に対処しなければなりません。その取り組みが成功するか失敗するかは別として、どのような結果についてもその責任を引き受ける主体が必要とされるからです。責任を引き受ける主体は、まず何よりも、自分自身に固有の思考と判断によって、問題への取り組み方を決定しなければならない。論理という「私」の外部から持ち込んだ権威にすがっている人間に、問題に対処する当事者としての責任を引き受ける能力は無いのです。

現実の問題を解決するときに必要なのは、「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しいと認められるような普遍的なロジックではありません。その都度その都度立ち現れる具体的な状況が、どのような人間関係の内に成立しているのかを見極め、問題が生じている人間関係を動かすことで状況それ自体を変化させる「政治」によって、問題の解決を目指すべきなのです。

自分自身の判断と責任において問題解決に参加する人々の間には、本当の意味での平等が実現します。個々の能力や地位に差があるとしても、それぞれが異なる立ち位置から問題に向かい合っているのであれば、そこに参加している人間の視点(パースペクティブ)は、全ての仲間にとって等しく価値のあるものになるからです。逆に、普遍的な論理に立脚して問題の全体を上から見下ろす視点には大した価値がありません。その視点は全体を見ているが故にどこも見ておらず、その視点の持ち主には問題解決に取り組む者としての当事者性を欠いているからです。同じ問題に対して異なる立場、異なる視点をもった人々の平等なメンバーシップが形成されること。それが、「政治」的な問題解決の最大の目的であり、人間が自由である為の条件でもあるのです。

「政治」とは畢竟、平等と自由を実現する為のものです。これに対して論理による問題解決は平等とも自由とも無縁のものです。論理は、その論理を理解し使いこなせる人間に独占されるものであり、単一の論理に普遍性が認められてしまえば、人間はもはや自分の判断と責任において問題解決に取り組む主体であることを放棄し、唯一絶対の論理による問題解決のための道具に成り下がる。それは、おそらく、教育基本法が言うところの「平和で民主的な国家及び社会」とはほど遠い光景であるに違いありません。

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