私の国語教育

 国語教育とは、生徒が自律した個人として生きていくための土台を築き、一方で他者と共同し、コミュニティーを形成するために必要な対話能力を養うものである。自律した個人を個人として尊重し、その権利を保証するものが国家である以上、国語教育がナショナリズムの涵養をも含むものである現状はある程度容認せざるを得ない。

 人が自律的な個人として、すなわち「私」としての実体を世界の中に現すためには、世界に生じる出来事を、「私」に固有の視点から記述する技術を身につける必要がある。出来事は、記述する者によって意味と価値を有する事実となり、ある出来事に意味や価値を見いだし、記述する者こそ、自律した個人としての「私」である。出来事を記述し、その出来事にどのような意味や価値があるのかを言語化する過程で、個人は他者と異なる視点を持った「私」として生成されるのである。
 自律した個人としての「私」の独自性は、「私」がどのような立ち位置から、どのような問題意識を持って世界を見ているかという視点の独自性によって担保される。しかしながら、世界の中に固有の視点を持つ「私」がただ独りで存在していたとしても、その「私」の存在にはいかなる意味も価値も認められない。「私」に価値と意味を与えるのは、「私」以外の他者からの評価であり、他者の視点のなかで、より厳密に言うなら、「私」自身を含めた複数の自律的個人の視界の網目の中で、「私」は唯一無二の価値と意味を持った「私」としての存在を認められるのである。言い換えるなら、「私」が「私」として独自性を持った存在であろうとするならば、必然的に他者との関わりの中で、「私」の視点、「私」の問題意識によって見いだされた世界のありようを言語化して伝え、同時に相手の目から見える世界を承認し、共同世界として立ち上がらせていくことが必要なのである。

 このような国語教育の理念を、具体的な活動に置き換えて考えるならば、「読む」活動は他者の視点と問題意識を自分の中に取り入れる活動として位置づけることができるだろう。生徒は、世界を観察する独自の視点や、世界に対する問題意識を自然に身につけるわけではない。他者の世界に対する見方を取り入れることで(具体的には、評論文や小説の書き手がどのような視点から、どのように世界を理解していたのかを学ぶことによって)、世界を解釈する視点を獲得し、それが生徒個人の体験と結びつくことで固有の問題意識を伴ったパースペクティブを発達させるのである。
 世界を解釈する視点を、家庭や親しい友人関係の中で学ぶことは難しい。多くの子どもにとって、家族や友人は異なる視点や問題意識を持って自分とは違った世界を眺める他者ではなく、むしろ同じ出来事を同じ立ち位置から、同じように理解している人たちだからである(少なくとも、一般的に家族や友達という関係は、互いに強い共感によって結びつけられた関係であることが期待されているのであって、異なる視点や価値観をもった他者として接するものではない)。
 ここに、学校の授業としての国語の役割がある。学校は、子どもを他者と出会わせ、他者の視点や問題意識を取り入れる役割を担う。また、他教科が世界についての一般的な知識を可能な限り客観的に伝えることを目的とするのに対して、国語は知識そのものではなく、知識を受け取るやり方、単なる情報を特定の視点・価値観・問題意識というフィルターを通して、「私」を形成する要素としての知識にまで昇華する方法を身につけさせることを目的としているのだと言える。
 そして、「書く」活動は、「読む」活動の中で接した他者の視点ではなく、自分に固有の視点と問題意識から世界の出来事を記述するものであると言える。記述することによって生徒自身の問題意識は深化していく。生徒自身が、自分がどのような立ち位置から世界を眺め、解釈しているのかを自覚できるようになる。そして、自分のパースペクティブから観察された世界を、今度は自分以外の他者と共有するための表現を洗練していくのである。
 大学に進学する生徒は大学というコミュニティーに所属することを目指すのだし、就職する生徒は企業なり役所といった職場のコミュニティーに所属することを目指す。人が、自分と同じコミュニティーに属する人間と、そうでない人間を区別する指標が言葉である。大学には大学の言葉(ここでいう「大学の言葉」には、大学関係者の間で共有されるテクニカルタームの集積が含まれる。つまり、ある程度のアカデミックな教養が共有されてなければ「大学の言葉」を使うことはできない。次に述べる「企業の言葉」「官庁の言葉」にも同様の事情があると言える)があり、企業には企業の言葉、官庁には官庁の言葉がある。既成のコミュニティーに新たに加えてもらうためには、まず言葉でもって、自分がそのコミュニティーのメンバーに相応しい人間であることを示さなければならない。国語教育における「書く」活動において目指されるべきは、相手に自分の感じたこと、考えたことを伝えられるようにすること、そして、相手に自分を同質の存在として認めてもらえるような表現を使いこなせるようにすることであろうと思う。
 「聞く」活動と「話す」活動については、「読む」「書く」のより実践的な形態であると考えて差し支えない。自律した個人としての「私」を形成すること、コミュニティーの中に参加を認められるような言葉を使いこなせること。この二つの活動が国語教育という車の両輪であって、自分の意志や考えを持てない人間が、コミュニティーの論理に合わせることばかり考えていては、個を埋没させ、主体的に物事を考え判断する責任を引き受ける能力を失ってしまうだろう。一方、他者に自分を適切に伝え、他者を理解する努力を怠りながら、自分の目線から見た正しさばかりを主張する人間は、社会の中に居場所を得ることが極端に難しくなるだろう。国語教育は、個を確立させると同時に、個を(自覚的に)抑制し、他者と(必要な限り)恊働するための技術を身につけさせるものでなければならない。

 国語教育は、生徒が個として自律し、共同体の中でその存在を認められるための下地を作るものである。ところで、人を「個」として尊重し、その権利を保証するのは国家である。天賦人権説とは理念の話であり、現実に全ての人間を個人として尊重し、基本的人権の享有を認めるのは「天」なる抽象概念ではなく現実に存在する国家である。このような認識から、私は“国”語教育がナショナリズムの涵養を目指すことを容認する。古典教育や、現代文における定番教材はナショナリズム涵養のために必要なものと考えている。ただし、ナショナリズムを子どもに教えることの危険性について、教師は十分に自覚的でなければならないことは言うまでもない。

 国語教育は道徳教育と切り離されるべきであるという見方は根強い。国語の授業は道徳の授業ではないのだから、価値中立的な「読みの技術」を教えることを目的とすべきだという考えなのであろう。私も、このような主張には一定の共感を覚える。しかしながら、「読みの技術」なるものが存在するのだとして、それは価値中立的な、客観性の保証された技術であるとは、今の私には考えられない。読む、あるいは話すという行為は、ある関係性の中で行われ、その関係性の中で言葉の意味、文(発話)の意味は決定されていく。ある関係性の中で発せられた言葉が賞讃であるのに、別な関係性の中で同じ言葉が発せられたら罵倒となる、などという例は枚挙に暇が無い。そして、言語的コミュニケーションにおいて、ありとあらゆる関係性に共通した普遍的なルールというものが設定できるとは、私には考えられないのである。

 私は国語教育と道徳教育は切り離すことはできないと考えている。道徳、といって語弊があるなら、ある価値観を共有する者たちの間で共有されることで、言葉は初めて意味を持つのであって、言葉それ自体のなかに意味が内在しているわけではない。言葉を理解することとは、とりもなおさずその言葉が発せられた背景にある価値観を理解することである。それを学校教育の中で行う以上、「道徳教育」と呼ばれ得る指導が不可欠であると言わざるを得ないのである。

 大学に受かりたい生徒は大学の、一般企業に就職したい生徒は一般企業の「道徳」を身につけ、その道徳規範の上に成立した言語を理解し、使いこなす。およそ国語教育とはこのような過程を辿るものだと言える。

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