「国語」とは何を教える教科なのか

読むというパフォーマンスは、たった一人の観客に向かってなされる。それは教師だ。
文章の解釈には正解がある。教師の解釈だ。
理解や解釈の「間違い」は許容されない。

アメリカの国語教師ナンシー・アトウェルが、伝統的な一斉授業を批判して述べた言葉です。先日出版された『イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室』の訳者による前書きで紹介されていたものの一部を引用しています。

アトウェルはアメリカの公立中学校で国語教師として働くなかで、一斉授業による指導に限界を感じ、「ライティング/リーディング・ワークショップ」と呼ばれる授業スタイルを確立し実践してきた人です。そういう人から上のような批判を受けると、学校や塾で「解釈の正解が存在し間違いが許容されない」国語の一斉授業を実践している人間としては些かたじろがざるを得ません。

塾はもちろん、僕が働く学校も一応は進学校とされる私立であり、そこでの授業は基本的には受験を意識したものが中心となりますし、いわゆる「受験国語」には周知の通り正解とされる解釈が存在し、それ以外の解釈は不正解とされます。

そのような国語の授業がもたらす弊害は、決して小さいものとは言えません。少なくとも「受験国語」の授業を通して、生徒が文章を読むことの楽しさを学ぶことは現実問題として極めて稀であり、むしろその逆の結果につながることの方が遥かに多いのです。元々文章を読むことの苦手な生徒が、「受験国語」の授業を受けて読書が大好きになったというケースは実際のところほとんど無いと言って差し支えありませんし(我々にとってはこの上なく幸福なケースではあり、そのような事例については強烈な印象とともに記憶されるのでそれが「ほとんど無い」ことなのだという認識を持つのは難しいのですが)、読書は好きだったし、国語の試験問題も何となくフィーリングで解けていたのになまじ「受験国語」のテクニックを学んでしまった為に却って点が取れなくなり、文章を読むこと自体にも抵抗を覚えるようになってしまうという悲劇さえ起こります。

このように考えると、進学校や塾で「受験国語」を教えるとはどういうことなのか考えずにはいられません。

とある大学の教育学部の小論文試験に、「逆上がりの出来ない児童に放課後居残り指導をして児童は最終的に逆上がりに成功した。そして満面の笑みで『先生、もう私は逆上がりしなくて良いんだよね?』と聞いてきた」というエピソードについての意見を述べる課題がありました。我々が「受験国語」の授業でやっているのは、一面ではまさにこういうことなのです。少なくとも、そのような事態が現実に起こり得るし、起こっている。アトウェルの批判も当然と言わなければなりません。

僕自身も、受験屋的なスキルばかりを追求している自分の現状を決して是とはしていませんし、いずれはアトウェルのような、生徒自身の興味関心を広げていくような実践がしてみたいと思っています。それが今、出来ていないのは、ひとつには今の僕が二つの職場で求められているのが受験屋としての役割であるという環境的な要因と、僕自身が受験勉強の文脈を離れた「国語」の授業というものをイメージできていないという能力の問題です(そもそも垣内は受験屋としてさえ半人前なのです。三分の一人前くらいかもしれない)。ただ、それはそれとしても、では今の僕にアトウェルのような、あるいは大村はまのような授業をやれる環境と能力があったとして、今の職場でそれをやるか。

おそらく、やらないと思います。少なくとも、授業のメインはアトウェルが批判する「一斉授業」形式の、正解の存在を前提とする授業になるであろうと思います。

僕自身にワークショップ的な授業が出来る、出来ないという点は別としても、少なくとも今僕が教えている生徒たちには「受験国語」が絶対に必要であると、僕は考えています。ワークショップ的な活動を取り入れること自体は良いとしても、国語の授業が「解釈の正解が存在し間違いが許容されない」ものであることを悪いとは考えていません。

確かに、唯一の正解とされる解釈を押し付けられることに、子供は抵抗を覚えるでしょう。読書好きな生徒であればなおのこと、自分の解釈が「不正解」とされることを納得できないかも知れません。国語の授業の目的を「生徒を読書家にすること」と定義するなら、「受験国語」には何のメリットもありません。実際、『イン・ザ・ミドル』を読む限り、どうもアトウェルは「生徒たちが一生涯文学と付き合う為の基盤を作ること」を目指して授業をしているように見受けられます。その目標が間違っているとも思わない。けれども、僕が国語の授業を通して教えようとしているのは文学の面白さではないのです。少なくともそれだけではない。

そもそも、「受験国語」における「正解」とは何でしょう。作者の気持ちでしょうか。筆者の主張でしょうか。

国語の試験問題とは、与えられたテクストを読んで、設問の指示に従ってテクストの内容を整理する処理能力を問うものです。

テクストを受験者に示すのは、その試験を作成した出題者です。テクストの内容をどのように処理すれば良いのかを指示するのも出題者です。そして出題者は、自分が所属する学校の教育方針に従って問題を作ります。

つまるところ、入試問題の中で示される「本文」なるものは、それを書いた人間の意図を離れて、出題者の意図に従って編集されたものであり、それを理解するというのは要するに、出題者(要するに学校)の立場に立ってそのテクストを解釈するということなのです。

ある小説の解釈は多様であり得ます。作者の意図とは別に、読者がそれをどう読むかはかなりの程度に自由です。ですが、入試は読書ではありません。問われているのは「あなたの解釈」ではなく、「出題者の解釈を理解すること」です。出題者の立場(受験する学校の教員)と、そのテクストが示された文脈(入試という状況)を踏まえて設問の指示を考えれば、「出題者の解釈」は自ずとひとつに絞られる。それが「受験国語」の「正解」なのです。

この「正解」にたどり着く力とは、「自分とは違う立場の他者の目線でテクストを解釈する力」です。それは論理的思考力であり、対話的なコミュニケーションの技術であり、個人的な文学鑑賞としての読書では決して身につけられないスキルです。

文学を鑑賞する力が人生を豊かにすることは間違いありません。それはそれとして、我々が子どもたちに伝えていかなければならないものです。けれども、「自分と違う他者の立場に立つ」という技術は、人間が社会の中で生きていく以上必ず要求されるものであり、しかも、それは日常生活の中で身につけるのが大変に困難なものでもあります。少なくとも家庭の中でそれを身につけるのはかなり難しい。家族というのは強い共感によって結ばれた共同体であり、「立場の違う他者」ではないからです。日常的な友達同士のコミュニケーションを通して身につくものでもない。友達なるものも、家族程ではないにせよ共感を基盤にした関係であり、「自分とは異質な他者である」という認識を持って接する相手では通常ないからです。家族や友人が自分と異質な他者であるという認識を常に持ち続けながら生活するのは、大抵の人間にとってはあまりにもストレスフルな状況と言えるでしょう。

つまり、異質な他者(例えば志望校の教員)の立場を想像し、彼の目線に立って物事を考えるという力は、日常を離れた特殊な学習環境が無ければ身につかないものなのです。僕は今の日本の学校教育の中で、そのスキルを身につける最も効果的な訓練が「受験国語」だと思っています。別に受験をしなくても良いのです。ただ、自分個人の「自由な読み」ではなく、テクストを提示した相手の意図を、今自分が置かれている状況と、相手の立場を踏まえて最も適切な解釈を考えること。それが、文学鑑賞としての国語とは違う、いわゆる「受験国語」を学ぶ意義であると、従って国語には「正解」があってしかるべきであり、間違いは許容されないのであると、伝説の国語教師に、僕は精一杯に反論するのです。


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