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INFJの私が感じる「内向直観」について公式書籍を元に徹底解説②


こんにちは。みなさん元気に5月病やってますか。

さて、前回こちらの記事で、MBTI公式書籍に書かれている「内向直観」についてまとめてきました。「内向直観」って結局なんなの?という疑問が自分なりにまとめられたと思います。

今回は上の記事をもとに、私が感じる
「これって内向直観で説明できることかも」と思うことや、
「内向直観主機能だとこうなるよね」と思う話を書いていきたいと思います。

思いのほか長くなってしまったので、
「内向直観って結局は思い込みなのか?」
「内向直観タイプは生きづらいのか?」
などという私の内向直観に関する考えについてはまた改めて記事を書こうと思います。

MBTI公式書籍を扱うということで、注意事項やこのnoteでの公式の位置付けなど、事前に読んでおいて欲しいことは全て上の記事に書いてありますので、長々としていますがぜひご一読をお願いします

書いてある通り、こちらの記事はあくまで私個人がまとめ、考えたことをプラスしたものであり、絶対的に専門的な正しさが保証されたものではないことをご承知のうえお読みいただければ幸いです。

前回は堅苦しめな定義の話をしてきましたが、今回はそこから拡張して私の感じていることを語るため、どちらかというと読みやすくなっているかと思います。
そのため、「とにかくMBTI公式の理論について知りたい」という方にとっては今回はあくまで「MBTI公式の理論を元にした私の考え」(前回もそういう面がありましたが)色が強まっていますので、あまりお勧めしません。
(公式書籍を読まれることをお勧めします。)

逆に前回の記事を読んで、よりMBTI公式の理論を元にした私の感じていることや考えにご興味を持っていただけた方にはおすすめです。
(ただし具体例は大変クセの強いものとなっておりますので私の感覚に対してくれぐれもタイプの代表的な見方をしないでください。お願いします。)

再びになりますが、参考にする書籍はこちらです。


一言でまとめてしまう癖


前回書籍から引用した箇所で内向直観タイプは「長い会話を1行にまとめる」という行動を取ることがあるという記述がありました。

内向直観機能は、今後のことやものごとの可能性に興味を向ける。この機能は「どうなのか」よりも「どうなるのか」を見据える内なる目のようなものである。したがって、この機能を指向する人は、問題の中心に目を向けているような印象を与えることから、学んだりすることが好きで努力家としてみられることが多い。このような傾向はたとえば長い会話を1行にまとめるという形で表されることがある。人間関係においては、周囲から、落ち着いていて、集中力があるように見られることが多い。

MBTI®︎へのいざない

これに関してはずいぶんと思い当たることがあるので、ここで取り上げたいと思います。
これは「長い会話を1行にまとめる」の一例でしかないですが、私の中には、一見意外と思われたり関係ないような言葉同士を繋げ合わせてできた「私の中だけの名言」がいくつかあります。
例えば、以下のようなものです。

「納豆はスイーツである」
「人生は喜劇である」
「涙は言葉である」

このつなぎ合わせはもちろんでたらめではなく、私の中で強い意味を持ってつながっています。


「納豆はスイーツである」

すごい馬鹿なことを言っているようですが、私は「納豆はスイーツである」と思っています。というか、その言葉をひらめいた時から自分の中に大切に持っています。(ここからちゃんと深いことを言うので、どうか閉じないでください。)前提として、私は納豆が大好きです。食材そのもの(大豆)よりも食材同士が生み出す「ねば」の部分を楽しめる(しかも自分の混ぜ具合で如何様にもその量を調節できる)、こんなユニークな食べ物はなかなか他にありません。口に頬張ればそのふんわりとした食感とともに幸せが広がります。それは例えばシュークリームのようなスイーツを頬張った時に似ています。私はスイーツも大好きです。スイーツは食べ物の中で最も食感や味にこだわりを持って作られる食べ物だと思います。そうでなければどうしてわざわざ生地を膨らませた中にクリームを詰め込むのでしょう。スポンジとクリームやフルーツを幾重にも重ねてさらには上にゼリーなんか被せて金箔まで散らしたケーキを作るのでしょう。口に入れて仕舞えば一緒なのだから、それぞれの食材を野菜炒めみたいに雑多にかき混ぜただけでもいいのに。でもスイーツはこだわりであり、それは愛なのです。納豆も一見野菜炒めの方に見えて、私にはどうしたってスイーツです。「ねば」と柔らかい大豆の、神が生み出したかのような組み合わせがスイーツにしか思えないのです。とにかく「納豆はスイーツである」と表現することを許されることで、私はようやく納豆の素晴らしさを人に伝えられるのです。そろそろ頭が収拾のつかない方向へ行きそうなので、ここら辺にして次へ行きましょう。


どうして一言でまとめてしまうのか

このように、自分の中で一言でまとめてしまうことは心地の良いことであることが多いです。もちろん公に向かって決めつけるわけではありません。「納豆がスイーツである」ことを誰かに否定されたとしても、「わけわかんないよ」と言われたとしても、これは私の中の確信なので全く問題ありません。というか、大事なのは「納豆がスイーツである」ことそのものではないのです。

私はこの言葉に、2つの本質を詰め込んでいます。一つはスイーツの「食材や食べる人に対するを詰め込んだ食べ物である」という本質。もう一つは納豆の「ユニークで食感の組み合わせが素晴らしい食べ物である」という本質。どちらかというとスイーツの本質の方が大事です。そこに誰もが平凡な食べ物だとする「納豆」を掛け合わせることで独自の感覚を表現できる唯一無二の理論となり、大変な満足感を得るわけです…というところまで言うと、内向直観の話からちょっと外れてしまうかもしれませんが。

一言でまとめることで、それは一例となります。もう一つ私にとって大事なのは、「納豆はスイーツである」ということを広めるのではなく、その理論を元にしたり応用したりして、何か他のものごとの素晴らしさを今後も表現していけることなのです。「納豆はスイーツである」と言えることは、一つの可能性になるわけで、それは私にとってとても心地よく、視野がひらけていくような感覚を得られることです。


これが内向直観である理由

上記のことは、前回まとめた内向直観タイプの
「『中心』や『本物』など自分なりに本質を見出そうとする」
「見据えた可能性(ひらめき)を何よりも重んじ、独自の理論を展開し」
という部分に合致すると思います。

作った名言そのものだけでなく、その先にある納豆の可能性や表現の可能性をいつも見据えているのですよね。

またこのように外界のものに対して可能性を論じることは外向直観のように思える人もいるかもしれませんが、やはりこれは私にとって内向直観だと思います。
なぜなら、私はこの理論でもって即時に可能性を拡散していこうとはしないからです。「納豆はスイーツである」とは言いたくても、「納豆はおやつにもなるかもしれない」とか「ならばふりかけもスイーツだ」とか言いたくなるわけではありません。

「納豆はスイーツである」それは私の中では一旦決まったことであり、そこで収束しています。
自分の中の知識や経験が結びついて収束するため、自分の中にとっておくことができ、また次の可能性が考えられるのであって、その心の内部の動きは内向直観として説明できるのではないかと思います。

あとこれを言ってしまうと内向直観タイプ以外の方にとっては意味わかんなさが深まってしまいますが、私の頭にこの言葉が思い浮かんだのは、納豆を食べている時でもスイーツを食べている時でもなく、友達とくだらないこと(納豆の話題でもスイーツの話題でもない)を喋っていた時です。

このことを考えると、前回ちらっと引用した外向直観の「自分の周囲にある可能性に大きな関心をよせることから人との会話においてアイデアをすばやく出したり、新しい情報を即座に見つけたり」とは違うので、やはり外向直観ではないと思います。

決して「これこそが内向直観だ」「これ以外は内向直観ではない」と言いたいわけではなく、これが内向直観で説明できることかも、と思っているということです。

ちなみにこうした言葉(概念)を思いつくということは実はそんなに頻度が高いわけではありません。しかし思いついた時に、心の底から強いエネルギーが湧き上がるものなので、自分でもどういうことだろうと長年思ってきたのですが、自分が内向直観タイプであることを知って納得しました。

さて、そろそろ納豆とスイーツはお腹いっぱいだと思うので次の話題に移りましょう。


情報を永久に求めてしまう


これは内向直観そのものというよりも、自分が内向直観タイプだからこそこうなってしまうのかもしれないという話なのですが、
ものごとを進めていくために、何事もそれなりの調査が必要だと思うのですが、私の場合は半永久的に情報を集め続けてしまう癖があります。

これは私の中に「自分の中の知識や経験から、可能性を導き出したい」という内向直観的な思考回路を辿りたい欲求が強いからだと考えています。

それを辿るためにはまず、自分の中に知識や経験がないと始まりません。なので十分にそれがない(と感じる)場合は、外にどんどん求めに行ってしまうのです。

外に求めにいく、ということはこれもまた外向直観なのでは…?と思われるかもしれませんが、私がやりたいのは外へ求めに行って得た情報を単発的にその場で何かと結びつけるということではなく、一旦自分の中に溜め込むことなのです。

すぐに何か形になるわけでもなく、また自分の得てきた感覚で言うと内向直観による「ひらめき」は必ずしも起こそうと思って起こせるものではありません。なので、それが起こるまでは永久に情報を求め続ける、ということになってしまうのです。

情報を求めるがあまり人が目にも留めないような具体的な詳細まで見ようとすることがあるので、そんな時は感覚タイプにも見えるかもしれません。しかし私が行っているのは、具体的な事実をそのまま受け止めて結論に導くことではなく、やはり一旦自分の中に蓄積してひらめきの材料にすることなのです。そのため、内向直観というあまり直接的でない思考の流れに不慣れな人たちからは「何をやっているんだろう?」と疑問に思われることもあると思います。

もちろん自覚していることではあるので、人と足並みを揃えなくてはならない場面では情報収集に時間を取られすぎないよう気をつけるようにしていますし、あまり時間を使い過ぎてしまうと自分のエネルギーも本番の手前で枯渇してしまいかねないので、自分を大切にするためにも気をつけていきたいです。

あと書いていて思ったのですが「ひらめき」=「内向直観」ではなく内向直観という心の機能によってよく引き起こされるのがひらめき、ということになりそうですね。ひらめきが起こったからといって必ずしも内向直観を使用したとは限らないし、ひらめきが起こらない人が内向直観タイプではないとも限らない、とも言えるかもしれません。


現実に対応する難しさ


そもそも「直観」とは、心の機能の中で最も「現実なようで、現実から遠い」機能だと思います。「感覚」は現実を捉えることそのものですし、「思考」はある程度理論立つので現実に則する場合も多いです。「感情」はそもそも実感があります。しかし「直観」は「自分のことじゃないのに現実でもない」という微妙な線を行っていると思います。それが「内向」しているのですから、尚のこと8つの機能のうちでいちばん現実から遠い機能であると言えると思います。

内向直観という心の機能で得た情報は、「絶対にこうだ」と言えるものではなく、かと言って無視することのできない重要な推測であることもあります。なぜならそれはその人なりにでも「本当」や「中心」(本質)を捉えて導き出したものであるからです。

それが一個人の中で起こっているのですから、うまく現実に表現できない(表現することが許されない)場合、大変な葛藤を抱えることにも繋がると思います。

内向直観だけが原因だ、というわけではないのですが、これを考えた時思い浮かぶのは、私は常になんだかちょっと疲れている、ということです笑。
他の人がやっていないことをやっているので当然だなと思います。
(おそらくその機能を使うこと自体ではなく、それを現実世界に対応させるための変換作業や切り替え作業に疲れている)

先ほども述べたように、ものすごい量の情報を時間をかけて集めたとして、必ずしも良い答えが導き出せるとは限らないし、導き出せたとしてもそれはあくまで「推測」であって「事実」ではない(でも自分の中ではものすごく重要)、というところはこの現実社会で生きるにあたってはなんとも歯痒いところです。

このnoteでは主にINFJ向けに何度も言っていることではありますが、その「なんだか疲れている」状態から抜け出すには、「現実社会」を作り出している枠組みからなるべく離れて、自分なりの道を切り開く方が、一見大変なように見えて楽かなと(一言でまとめているのでちょっと雑な言い方になっていますが)思っています。

もし「みんなを巻き込んでいかなくては」という使命感に縛られているとしたら、必ずしもそうでなくてもいいと今の私は思っています。自分だけその見えている”正しい”とか”幸せ”の方向へ、逃げたっていいんですよ。抜け駆けしていいんです。抜け駆けというより「先駆け」という方が合っているでしょうか。どうせ全員が自分の後を追うわけではないです。合う人は後から追ってくるし、そうでない人は私たちの見えている世界すら知らずに人生を終えていきます。でもそれで良かったりするんです。人は人の人生の責任を自分で取ることになっています。大丈夫です。ずるくないです。自分が正しいと思うことだから、人より先にやるだけです。


…とちょっと話が逸れましたが、この記事のまとめに入ります。


まとめ


まとめと言っても、今回はそれぞれの章で違うことを書いているのでなんとまとめれば良いか、といったところなのですが、とりあえずわかることは「内向直観、めちゃくちゃわかりにくい」ということだと思います。

わかりにくい、ということは、内向直観タイプに対する周囲からの誤解が多いということが考えらます。

あまりにも誤解が多いので、誤解されているイメージをそのまま自分に当て嵌めて自分が見えなくなっている人も多いのではないかと思います。

それともう一つ、内向直観機能に対する、内向直観タイプからの誤解も多いのではないかと思います。

主機能に持っていない他タイプからの誤解も当然多いと思うのですが主機能に持っている自分すらもあまり理解できていない可能性が高い、というのはこの記事を書く前の私を考えても思います。

その結果として「内向直観は思い込みなのか?」という疑問というか疑惑が湧いて悩みだすなどしていたのですが次回記事でここはまた徹底的に考え抜いていきたいと思います。

また、これほどにわかりにくい内向直観ですが、一方で、はじめの納豆とスイーツの話題のように、かなり独特な使われ方で日常にささやかな彩りを添えているのも事実だと思います。

重要な推測や予測を導き出すことの多い心の機能ではありますが、非科学的なことや比喩的なことも含めさまざまな可能性を見せてくれる、面白い機能であるとも感じています。


以上、私が感じる「内向直観で説明できることかも」や「内向直観主機能だとこうなるよね」についての話でした。

次回は
「内向直観って結局は思い込みなのか?」
「内向直観タイプは生きづらいのか?」
など内向直観に対する私なりの考えを、まとめていきます。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!




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【お知らせ】
INFJの集まりであるメンバーシップを運営しています。
詳細は以下の通りです。

基本は「16personalitiesでINFJと出た人」や私のnoteに共感くださった方を対象としていますが、今回の記事をきっかけにMBTI公式の内容も展開していくかもしれません。

特に「16personalities」ではなくMBTIの話となると、上記の通り慎重を要するので、クローズドな環境でお話しされたい方もいると思います。私もそうです。

もちろん公式セッションを受けられた方は限られていると思うので、そうでない方を排除しない程度に、新しい知見として取り入れていけたらと考えています。

ご興味がありましたら、お気軽にご参加ください。

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