後顧の憂い

 それは、真夏の日のこと。

 やけに蝉が五月蝿く鳴いていた。じわりと汗ばむ暑さで、さらに熱気を感じさせる。生暖かい風が肌をなでて気持ちが悪い。目の前に、影がひとつのびていた。

「暑い……」

 じりじりと肌を焼き付けるような温度に、不平が漏れる。言葉にすると余計に暑さを感じるが、言わずにはいられないほどの熱気であった。
 目を横に動かせば、元気な子供の声や、たくさんの人が海で楽しんでいる姿を遠目ながらもぼんやりと見えた。

 猛暑が続く中、家に居ても落ち着かなかったので、海まで出向いてきた。場所はどこでも良かったのだが、丁度家の近くに海辺があるということもあり、外でも涼しい思いが出来るだろうと、安直な考えできたのだった。
 しかし、夏休み真っ最中の海水浴場は、人も熱気も溢れて、さらにむせ返るような暑さを体感する。しまった、と思ったが再び家に戻る気にもなれず、人混みから離れた、侵入許可区画のギリギリの大きな岩の上で海を眺めていた。
 さきほど見下ろした、この岩からの光景をぼんやりと思い出す。波がゴツゴツとした鋭い岩にぶつかり、水飛沫をあげていた。岩から海面までの距離は自分の身長より長く、もしここから落ちてしまえばそのままかたいいわにあたまをぶつけてうみにまみれてひとつに――

「あああああああ」

 駄目だ。暑さで思考がまともに動かない。唯一持ってきていた、ペットボトルの水をゴクゴクと飲む。冷えた液体で口の中が充分に潤っていく。気分転換で来たのに、熱中症になっては意味がない。
 空になった容器を力なく持ち、再び遠くの海を見つめた。波打つ音がゆったりとした時間を演出する。

「ねえ」

 振り返るとそこに、自分とは別の存在が立っていた。違和感は皆無であったが、驚きはした。でも不思議と、最初から居たような感覚を抱く。仕草や見た目は見覚えがないのだが、まるで今まで一緒に生きてきたかのような、そんな。
 だから、昔からの旧友と会話するように、着飾らない声色で応える。

「なに?」
 本当は物凄く嬉しかったのだが。嬉しさと戸惑いと抑制。そんな複雑な感情が声に表れていたのか、少し目を見開かれるがそれも刹那。空っぽの眼で私を見る。
 私はやはり、君を知っている。名前や性格なんて言葉で説明できるものは知らないが、存在をずっと知っている。

「いや、何でもないさ。まさか反応するとは思わなかったから」
 それだけ言って、視線を海へとずらした。
 話しかけてきたわけではなかったようだ。

 会話を続けるつもりで居たため、意表を突かれる。とはいえ、今更何を話すというのか。折角の機会とはいえ、どうしたら良いのか戸惑う。はて、と口に手を当てた。

 波の音をかき消すほどの御祭騒ぎが、向こうの方で湧き立つ。何が楽しいのだ。思わず目を細める。

 いつだって私たちは特別を欲してしまう。何かしらの記念日を見つけて、誰かと一緒に楽しみを共にする。善く生きる為に、あるいは満足の得られる自分の人生を歩む為に。
 でもほとんど、一つ一つの瞬間が特別なことに盲目になる。

「お祭り事は嫌い?」
「へ?」
「おまつり」
 そう言って離れた人集りを指す。
 声をかけようとはしていたが、自分がかけられるとは思っておらず、驚いて聞き返してしまった。顔に思考が全て書かれているのだろうか。思わず手で顔をベタベタと触る。
 というか、あれはお祭りじゃないのだけど。
「嫌いじゃないよ、楽しいし。でも……」そこまで言って口を噤む。
 一度、チラリと向こう側を見て視線を戻す。また無意識に、目を細めていたかもしれない。
「その場の空気で盛り上がって、本質を疎かにしてしまうのは違う」

 お祭りは、だれかの願いや思いの上で成り立っている。賑やかな雰囲気のみを興ずるならば、忘れ去られた人々の意思は、どこへ行くのだろう。他者の記憶にあるからこそ、存在を維持できる。だとすると、蔑ろにして消してしまうこの行為は。

「ふーん」
 あまり興味がないような相槌が返ってくる。それからジッと目を見られた。生気のない目だ。何だか思考を見透かされているような感覚に陥った。

「……殺すの?」
 自分を指さしながら、私に問いかける。首をかしげ、どう答えるかを窺っているようだ。少しドキリとはしたが、物騒なんて野暮な言葉は思いつかなかった。人は概念的にも殺すことが可能なのだ。
「殺さないよ」
 アタシのはね、の声は消えたが、ずるいねと言われた。
「そんなの責任転嫁じゃないの」
「そう?みんな好きでしょ、誰かのせいにするの」
「みんなって誰のこと?」
 それは、と言って口を噤む。はて、誰だろう。こういう場合のみんなとは、大体数えられるほどの人数なのである。あくまで自分の意見を一般化したいにすぎないのだ。
 でも今回は、誰かのせいとかではなく、仕方の無いこととしか言えない気がするが。
 やはり思考が全部口から漏れていたのか、読み取ったのか、言葉が落とされる。

「しょうがないことは分かってるよ。でも、ほんとはね、本当は消えたく」
 そこまで言って止まった。
 人間らしい狭間が見られるのかと、少し期待を抱く。一点だけを見つめて考え込んでいるように見えた。続きの言葉を急くようにじっと見ていると、こちらを振り向き、ニヤリと笑って、そう言えば満足だった?なんて言う。なんだか現実を突き付けられた様で、直ぐ目を背けた。言いようの無い気まずさを感じたのだった。
 君にも後悔なんて感情があったなら。そんな妄想を確かにしたことがある。でも答えなんて分かりきっていて、その考えが間違えていたとしても確かめようはない。仕方のないことであり宿命とも言える運命。存在するからには、形を永遠に保ちつづけるなど、出来るものなのだろうか。

 ふるふると首を振り、思考をリセットする。またとないこの機会に、言っておくべきことがあった。いや、言いたい事があった。
 少し乾いた喉を潤すよう、唾を飲み込む。全て汗で流れ出す前に。

 あちこちで聞こえる蝉は、何をないているのだろう。
 首元の汗が、ゆっくりと滴る。
「こうやって君と話すのは楽しいな」
 頭の片隅で、声が震えてないか不安になる。誤魔化すように笑みをこぼした。
「へえ?そうでもないけど」
「つれないなあ」
「なんだってきみ達は、今更すぎるんだよ」
 そっぽを向いたのは、気まずさからではなく、これ以上この話を続ける気がないようなものであった。
 むしろ私が目を逸らしたくなったが、ここで逃げたくないと思い、視線を外さない。きっと今、なんとも言えない表情をしていることだろう。見られてなくてよかった。カッコつけても、カッコよくはならないのだが。

 一度転がり出した石を止まらせない。
 私の思いを言ってしまいたいのだ。

「そうでもないよ、少なくてもアタシは前から君の事、考えてた」
「またそうやって」
 言葉を遮るようにして本音を伝える。
「本当さ。いずれ居なくなるんだろうなって。そしたら、アタシたちも昔の人だって言われちゃうんだろうなって」
「ね、それって、前の人たちに失礼じゃない?」
「そ、そんなつもりはないよ!」
 カラカラと笑う君は妙に大人っぽく見えた。私とは10個も年が離れてるもんなあ。10歳と20歳だと、小学生と大学生なんて違いだもんね。あれ、アタシ今何歳だっ――
「同じなのさ誰も彼も」
 突然の声に頭が動かない。思案にくれているところへ声を被せられ、言葉がうまく理解出来なかった。え、と思考を整理しようとすると再び声が降ってくる。
「何回も繰り返すことに対して、絵空事のように感じる」
 生きている今が当たり前すぎて、その後のことを考えるのが苦手なんだ、仕方ないけど、と私の目を見て続けた。さっきまで笑っていたとは思えないほど、感情が読めない表情をしている。
 一体、何の話をしているのだろう。思考が追いつかず、理解に苦しみ、目をパチパチとさせる。しばらく視線を交わした後、哀しむような表情をされた。

「でも、全てを見据えても意味が無いなら、特別な一部を大事にすることの方が、マシなのかもね」
 関係ないけど、と感情を込めずに付け加えられる。そこに羨望はなく、事実を淡々と述べているに過ぎないという様子だった。

 どうやら無意識に、声に出さず復唱していたらしい。閉じていたはずの口元に手を添え、唖然とする。
 君は、私の動揺を余所目に見ていた。
 空になった容器が転がるような軽い音が、近くで聞こえた気がする。

「……君は囚われ続けると思っているのだろうけど、今年の夏は、もうすぐ終わるんだ」
 反応のない私に、変わらない表情で言う。何の感情も込められてないトーンで。

 一つ一つの言葉が重く身体にのしかかる。大きな力で岩の中へとめり込まれるようだ。また一つ、汗が首筋を流れていく。

 またねって過ぎ行く時間に手を振れたなら。
 お祭り後の余韻が大嫌いだった。騒がしさに覆われて、時間が過ぎれば拭って去っていく。私の理想であり、誰かの当たり前。叶わなかった思い出は、何も自分だけの特別ではない。哀愁がそっと影を落とす。じわじわと何か嫌な予感が込み上げてくる。気づいてしまった。私も、その他大勢の一部だったのだ。

「ねえ」
 目を見ることができない。思わず耳を塞ぎたくなる。嫌だと叫びたくなる口を噛み締める。
 しかし逃げることに意味は無い。
 そうでなくても、言葉は発せられず、ただ見下ろされていただけだ。

 何か喋らなくては。この現状を打破するために、自分が動くしかなかった。この場には、変えようとする者なんて、誰ひとりとしていないのだから。

 静寂が広がる。世界はこんなに静かだっただろうか。あの声は、波の音は、何処へ消えてしまったのだろう。
 金縛りにあったように、指の一本も動かせない。動かない。
 目の前にぼんやりと人影のようなものが見えた。何時間ぶりにも感じた瞬きをすると同時に、静寂は破られる。

「現実と妄想の狭間じゃあ、事実は混濁してしまうね」

 喉の潤いは、とうになくなっていた。


 ゆらりと目の前の身体が揺らぐ。意識は戻ったが、目の前がチカチカとして、思わずよろめく。
 私の様子を瞬きもせず、見つめていた。

 もはや、この会話に意味は無かった。

 無けなしの唾を無理やり飲み込んで、体を支える。水分が喉を通りにくかったのは、この暑さのせいだけではないだろう。

 君のことを知っていた。根拠というより直感であるが、確信していた。
 だからずっと、声が震えないよう必死だった。声が裏返ることのないようにした。
 フラフラと足元がおぼつかない。顔を覆う手の隙間から汗が零れた。冷や汗にも似た、肌にまとわりつく気持ち悪いものだった。

 君はずっと淡々とした様子だった。私との会話は転換点ではなく、ただの通過点に過ぎないと一貫した様子だった。勝手に特別視していたのは私だけだ。

 ならばもういっそ、どうしても遣る瀬無いアタシを、笑い飛ばしてほしかった。それ以外で、吹っ切れる要因には成り得そうにないから。ぐにゃりと世界が滲む。

 ようやく前を見ると、顔が無い状態で君は身体が消えかかっていた。顔が無いというより、鉛筆で顔をぐちゃぐちゃに塗りつぶされたような。視界が霞んでいく。
 喉の奥から空気がもれる。
「待って、いかないで、あたしも」
 声は掠れていた。
 君は消されていく。元のカタチに戻るのだ。
 でも、消えて欲しくない。

「ああ、もう時間だ」
 声色はやっぱり興味が無さげだった。
 だけどあたしは、なりふり構っていられない程の焦燥感で叫ぶ。  

「あたしも連れてって!!」

 目の前に向かって手を伸ばしたが、空振るだけだった。
 岩の下で波打つ音が大きく聞こえた。
 きみは私たちに消されていくのだ。



 突き刺すような日射しが、容赦なく私を地面に形取る。波打つ海の音が聞こえ出す。騒ぎ声や、蝉の鳴き声がより一層大きく鼓膜に響いていた。
変わらずに影が一つ、伸びている。 
 その場には、初めから私しか居なかった。


過ぎ去る夏にさよならを

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