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適応障害になって、僕は”生きがい”を取り外していく

「死」がとなりに帰ってきた。

線路の音に、気持ちがうわずる。
嘔吐するのは週3回。
5階のベランダから、少し先の未来を浮かべる。
ここ半月は、睡眠薬なしでは寝付けない。

「適応障害だね。とりあえず休んで、それから考えようか」

定常案件の進捗、突発で入ってきているキャンペーン、チームや関係者の状況。

どう考えても自分が抜けたら回らないのに、もらったばかりの4文字のラベルは、防波堤みたいに思考の波を堰き止める。

ああ、言われてしまった、と思った。

サイズちがい

異変を感じ始めたのは、転職して3ヶ月が経った頃。

組織改編の影響で、入社前に言い渡されていたものとは違う業務範囲の部署へと異動になった。

比較的長いスパンで物事を深く考えることを求められていたのが、毎週PDCAを回し、大量のアウトプットが求められるようになった。

当初とは話が違うこと、自分の特性と合っていない業務に正直困惑したが、組織が迎えている局面も、自分のミッションも理解していたから何も言えなかった。

それになにより、人にはとても恵まれていて、抱いていた違和感は誰かのために仕事をする喜びで掻き消せた。

前職では感じられなかったチームのために仕事をする感覚、それぞれの役割を全うする責任感、異なる立場の人間へ抱く信頼など、複数職種がチームを組んでクライアントワークをする広告代理店ならではのプロセスは、心から充足を見るものだった。

”この合わない靴で、走らなければならない”

朝方まで作業をしていく日々の中で、少しずつ、違和感と充足感で板挟みになっていった。転職して8ヶ月が経った頃、靴が馴染む前に、足は動かなくなっていた。

機能性だけでは満たせない

適応障害は、特定の状況・環境の変化に適応できず、ストレスから心身に異常をきたす精神疾患である。
症状としては様々だが、自分の場合は抑うつ・睡眠障害・度重なる嘔吐だった。

医師の診断が下ってからはあれよあれよという間に業務の引き継ぎや各所への調整が行われ、会社に伝えたその日のうちに休職が決まった。

「一般的に休職者の8割は退職するからね」

人事の方は笑顔でそう言っていた。
それは無理をしなくていいんだよという優しさであったんだろうし、自分が人事だったら同様の対応を取るんだろうけど、僕にとっては事実上の戦力外通告のようだった。

まるで最初から自分なんていなかったようにスムーズで、迷惑をかけていることに耐え難い罪悪感を感じる自分と、抜けることなんて絶対にできないと驕っていた自分が混ざり合って、それがなんだかひどく惨めに思えたのだった。

何かで自分を満たさないとダメになってしまう気がして、帰り道にラーメンを掻き込んだ。18時まで無料のライスを3杯食べて、家に帰ってぜんぶ吐いた。

お腹から何も出てこなくなってから、ちょっと泣いた。

頑張りたいことも、誰に助けを求めればいいかも、どう生きていけばいいかも、自分からは何も出てこない。

セーブポイント

「人は3日でうつになるからね」

1年も経たずに人ってうつになるんですね、と自虐する自分に、医師として、友人として、ゆーさんはそう言ったのだった。

治療は、隔週に一度病院に通いながら進めた。
基本は薬物療法だが、休んでいる間に感じたことや考えたことを見つめながら、徐々に修正し、行動に移していく認知行動療法も同時に行なっていた。

ゆーさんの言葉に、人ってそんなにポップにうつになるんだとびっくりしてから、つられてちょっと笑った。
条件を満たせば、誰でも簡単にうつにはなるらしい。ゆーさんは続けた。

「とくにすなふはHPがバリバリに低いからね。体力勝負の仕事は悪手だよね。どちらかといえば戦士より魔法使いでしょ。自分に合った戦い方があるはずだよ」

ドラクエの例えはよくわからなかったが、ポケモンで言うとエスパータイプが格闘技を覚えようとしているのと一緒らしい。

適応障害は、文字通りその場に”適応”しなかっただけなのだ。
自分が頑張れなかったことだけでこうなったわけじゃない、たまたま”適応”する場所ではなかっただけなのだ。

「そのためには自分の特性への解像度を上げていかないとね。自分が今幸せだと思う瞬間を、どうしたら大きくしていけるのかを考えてみようか」

初めの1ヶ月は、ほとんど寝たきりだった。
夕方に起きて、眠くなるまでぼーっとした。
何もしていないのに、誰かとつながりたくてSNSを開いた。
何もしていなくても、自分は誰かとつながって生きていきたいのだなと思った。

自分の幸せがどうすれば大きくなるのかを考える少し元気のある日は、今、自分が会いたいと思う人に会いに行った。

3ヶ月も経つと、身体にずっと入っていた力は、抜けきっていた。

”病は気から”というが、病は、ある程度は気でごまかせてしまう。
病に名前がつくと、気から力が抜けて、現実を見ることができるのだった。

”生きがい”ラットレースの走り方

僕らは、誰だって、”生きがい”を人参にしたラットレースを走っている。

人によって進む速度も、何を人参とするかも違うけど、どこかで生への喜びを感じるために生きている。
喜びがどこにもなかったら、とても生きてはいけない。

だとするなら、自分が働く中でこれまで”生きがい”だと感じていたものは、一体なんだったのか。それは確かに自分が感じたものであるはずなのに、自分はそれに”適応”することができなかった。

きっと、定期的に、自分が何を”生きがい”としているのかを棚卸しした方がいいのだ。

社会では、誰かに求められたり、何かのために頑張れる機会がたくさんめぐってくる。
それは人として生きていく上で、すごく魅力的なものに見えるし、だからこそ、その”生きがい”が自分に適しているかどうかを考える前に、それに飲まれてしまう。

本当に今感じている”生きがい”は自分の幸せを大きくしているのか、その”生きがい”の形は自分にとって最適なものになっているのか、たまに棚卸しすると、きっと生きづらさは減らすことができる。

今は何も出てこない自分も、またこれから少しずつ何かを感じて、それを大きくしながら生きていくのだ。

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ゆーさんと出会ったオンラインコミュニティ・コルクラボで、僕は今、居場所についての本を作っています。

いつもちょっと無理してしまう人が、ふと力を抜けるような、自分のために生きることを思い出すような、そんな場所とどうつながっていくのか、ヒントになれば幸いです。


すなふ

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