広開土王の時代

広開土王碑に加え中国史書にも多く記録される高句麗は百済新羅倭に比べ史実を追いやすい。三国史記や記紀を横に置き、碑や中国史書を優先して読み解くと以下の通り。

371年に百済(+新羅+倭の連合軍)3万が高句麗平壌城を攻め高句麗故国原王が流れ矢で死んだことは、三国史や魏書などから間違いない(前前記事)。

故国原王を継いだのが小獣林王(371-384年)・故国壌王(384-392年)だが、この時期、礼成江を境に百済と小競り合い程度、むしろ西方後秦や燕、北方契丹との確執に終始。約20年の雌伏ののち、登場し高句麗の国土を広げたのが広開土王。

広開土王は、386年立太子、392年王位を継承、まず北の契丹を攻め約1万の人民を取り戻し、百済侵攻を活発化。何より(百済新羅倭の)離間策に成功したのが大きく、

392年新羅王の甥実聖を人質とし取り込み、百済を孤立させ396年までに百済の58城700村を奪い漢江まで進出した。

倭が渡海して侵攻したのが広開土王即位ころ辛卯年391年と広開土王碑は言うが百済新羅を臣民にしていたとの記述や広開土王を侵略王でなく防衛救済王としたい等の高句麗立場からして、ここは上記371年辛未年の大敗の反映であり、

倭が改めて本格渡海したのは広開土王の新羅人質と対百済侵攻以降、つまり、大敗した百済阿莘王が397年太子腆支を倭に人質に入れ倭との同盟を復活(百、紀)。この頃に倭が再び大軍を半島に送った。そして高句麗が倭百済同盟復活に気づいたのが400年と広開土王碑はいう(碑)、

同じころ400年燕との緊張が高まり燕王慕容盛が2、3万で高句麗西方を侵すが広開土王は朝貢外交しなだめ(資治通鑑、高)、401年自身は倭に取り囲まれた新羅の救済に5万の兵を南下させ、倭軍は一時任那安羅にまで追いつめられた(碑、新)。

しかし402年新羅王は王子未斯欣を倭に入れた*(新、紀)というから新羅は倭に降り、さらに405年には倭(百済)軍が帯方郡に現れたという(碑)から、百済倭任那軍は巻き返し、新羅もほぼこの勢力下にあったとみていい。

404-408年広開土王はむしろ燕との戦いに専従し西方領土を回復(高、碑)、410-413年には東扶余も屈服させ(高、碑)、西は遼河、北では開原から寧安、東では琿春を確保、しかし南百済新羅との境は漢江・臨津江をかぎりとしていた、とよむ。

以上( )内の、碑:広開土王碑、高:朝鮮三国史記高句麗本紀、新:同新羅本紀、百:同百済本紀、記紀:主に日本書紀。

*奈勿王の王子未斯欣をいつ倭に人質としたかは、種々伝承(三国遺事では奈勿王の391年、紀なら神功の370年頃?)があるが、ここでは新羅本紀に従った。新羅本紀の立場は、実聖王は401年7月に人質だった高句麗から帰国、402年2月に奈勿王死亡(実聖王による暗殺を示唆、国人推挙で実聖が即位)、3月には未斯欣を倭に入れ講和、というが、実聖王の時代たびたび倭との戦闘が記されていること、412年高句麗にも前国王奈勿の王子卜好を質に入れていること、から、実聖王自身は親高句麗であった、人質にした奈勿前王王子たちは死んでも構わないと思っていた、と示唆。だが碑を見る限り、広開土王の援軍は間欠的であって、王都金城以外は倭の影響下(というより各部族独立)とみる。

なお中原高句麗碑(1978年発見、忠州市、内容は新羅に臣服を誓わせたというもの。広開土王時代のものとも子の長寿王時代ともいう)も高句麗勢力が最も優勢な時の南限の駐屯地遺物とみる。

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広開土王の時代、三韓と倭の緩やかな(370年頃から対高句麗)同盟は生きており倭系の軍は小規模で百済や新羅に駐屯していたが約20年に渡る油断があり、広開土王による新羅人質離間策と百済本格侵攻を見て、倭は半島経営に本腰を入れる。再度半島に大軍を送るのも、百済や新羅(の親倭系勢力)の要請によるもの、とよむ。碑は倭軍を半島から追い出したように記すが、最も勢いのあった一時的な出来事であり、広開土王時代の高句麗の南境は(下流)漢江・(上流)臨津江までとみる。

百済を漢城から追放し南に遷都させ新羅の首都慶州を圧迫し、倭軍を本格的に半島から追い出すのは、子の長寿王(在位413-491年)の時代、しかもその後期とみる(次記事)。

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