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Drawing Forest 6 (再創造/三十五)

 九月五日。すっかり日も落ちた時刻。縹駅から十分程歩いた路地。
 純喫茶、と呼ぶにふさわしい風貌の室内で、萩尾と紫尽は二人、向かい合って座っていた。
「何飲む?」
 くつろいだ姿勢の萩尾が尋ねる。
 夕刻の屋上。話を終えた一行は流れのまま解散となった。いつもは固まる面々も、今日は用有りらしい。皆まっすぐ家路の様子だった。
 そこで、萩尾は紫尽を捕まえたのだ。
「俺はコーヒー」
 萩尾が続ける。
「そしたら、同じので」
 紫尽が答えた。
「あら、和田くんコーヒーいける人?」
「はい、まあ。結構好きです」
「へえ、なんか意外」
 萩尾が店の中央に向かって注文した。そう広い空間でもない。
「すみません、タクシー代まで出してもらって……」
「いいっていって。一人で乗るのとおんなじだし。それよか、本当に時間平気だった?」
「それは全然、平気です。今日は家に帰る予定だったし……」
「え。和田くんもしかして家出っ子?」
「家出っ子?! いや、さっきの水鳥……行仁水鳥の家へ、よく遊びに行ってるってだけで……」
「ほお。そんな仲いいんだあ」 
 店内に他の客は居ない。萩尾によれば、もう少々後の時間から閉店までが混み合い時らしい。
 萩尾は両頬を手で支えて満足げな笑みを浮かべている。
 そこへ、コーヒーが運ばれてきた。
「いただきます」
 紫尽は何も加えずに口をつける。
 萩尾はあるだけのミルクを注いでいた。
「ねえ和田くん」
 カランカラン、と鈴の音。
「なんでしょう」
 紫尽は僅か首を傾げる。
「有樹が最後に君の部屋を訪ねた日、何を話したか覚えてる?」
 二人の横を、スーツ姿の女が一人横切った。
「やっぱり、むつびく……むつびさんなんですね。萩尾さんは」
「睦陽くんでもいいよ。『家』からの仲じゃない」
「久しぶりだね。すごく」
 紫尽の眼に慈悲の色が渦巻いた。
「覚えてるんだ。嬉しいなあ。俺にしたって、君は数少ない友達だった」
 萩尾は懐かしむように視線を泳がせる。
「もちろん。あの部屋へ遊びに来てくれた――というか、忍び込んできてくれたのは、錐仙くんの他にはゆうきくんとむつびくんの二人だけだったから。これはそのまま、俺が『家』に居た四年間で話した同年代の友達は君たち三人だけってことになる」
「君、そんな長くあの部屋に居たのかあ……」
 萩尾は想像した。えらく退屈そうだ。しかし、当時の彼をどう観察しても、苦痛の二文字には思い至らなかった。
 退屈をまるごと飲み込んでしまった海とやらに、誰だって興味が湧くだろう。
「不思議と、長くは感じなかったけどね。あの歳の四年間なんて、相当中身ぎっしりのはずなのに……ああごめんね、ゆうきくんと話したことだったよね。ううんと」
「忘れてたって仕方ないよ。もう大分昔のことだもの」
 萩尾は不思議な穏やかさに包まれていた。
 コーヒーの香りがする。
 この凪ぎが、海なのだろうか。
「ううん。覚えてるよ。ただ、順番があやふやになってるだけなんだ。最後に話した時というと……ああそっか。ゆうきくん。一度だけ一人で来たことがあった。あの日は初雪が降って……」
「そう。その日の事だ」
 ふと気付いた。初雪の日とは、そのまま有樹が死んだ日のことだ。
 何もかもから隔離された海の部屋。
 紫尽は、有樹の死さえ知らないのではないか。
「雪はね、俺も見えたんだ。ゆうきくんも見えるって言ってて、二人してえらい喜んだなあ。あの日はゆうきくん、俺のために深海魚の本を持ってきてくれたんだ。海の底にもさかなはいるんだよって教えてくれてさ。でね。海の底が見えないのは、僕ら一緒だから、いつか一緒に、見られたらいいねって……」
「そっ……、かあ」
 それは、半ば予想していた事実であった。
 萩尾は大きく息を吸って、甘いコーヒーを一口飲んだ。俯いて、誤魔化すようにスプーンを触った。紫尽がこちらを見ているのがわかる。きっと彼は穏やかに微笑んでいるだろう。そう、あの日と。
 何も変わらず。 
「うん、あいつらしいや。有樹はさあ、優しいよねえ。いつだって馬鹿みたいにお人よしだ」
「むつびくんだって優しかったじゃない」
「んなことないよ……」
「ねえ、今度水族館へ行こうよ。深海魚見にさ」
「ええ、子供じゃないんだから」
「大人だって行ってもいいんだよ。ていうか俺たち、大人じゃないし」
「俺はもう大人だ。少なくとも」
「そう言わずにさあ。行こうよ」
 いつの間にか、人の増えた店内はささやかに賑わい始めていた。
 話しながら、萩尾は己の掌を見つめた。あの日よりずっと大きな手。けれど、持てるものはさして変わらない。それでも良いと思った。この手に持てるものだけで生きて行こう。そしていつの日か消える。
 萩尾は、紫尽の誘いにしぶしぶ頷いた。水族館は隣町にある。向かいの男はえらく嬉しそうだ。
 最後に、紫尽が呟いた。
「ゆうきくんも、一緒に行けたら良かったのにね」

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