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Drawing Sea 5-1 (再創造/六)

「ねえ水鳥」
 八月三十一日、五時一分。五両編成の四号車。
「なんだ」
 紫尽と水鳥は、膝に荷物を抱えて二人、座席の端で無色の霧に包まれた街を眺めていた。
「とうとう!  この日がやってきたよ!」
「そうだな」
「まあ水鳥はいつも通りだよね。でもさ、ちょーっとはしゃいでるでしょ。鞄大きくない?」
「中身は同じだ。向こうの食べ物を買って帰ろうと……」
「水鳥お土産買うの?! すんごい浮かれてるじゃん!」
 紫尽は怒られた。怒られながらも続けた。
「にしてもさ、ほんとにがらがらだね、朝一番の電車って」
 山に囲まれて楕円に広がる縹の街、そのちょうど真ん中に縹駅はあった。五時きっかりに駅を出た列車はのんびりと北へ向かっている。紫尽は、電車に乗るのは初めてだと言ってあちこち見回していた。
「そうそう水鳥! 見てこれ」
「……それは」
 紫尽が黒い手提げから取り出したのは、手のひらサイズの使い捨てカメラだった。
 水鳥が続ける。
「携帯があるのに?」
「紙に残しときたいんだ」
「面倒じゃないか」
「それがいいんだって、水鳥もわかってるでしょ」
「まあ」
 二人の座る場所からは東の山々が見えた。その曲線が今、金の光で縁取られていく。レンズで黒い紙を炙るように、緩慢に、けれど確実に、光は強くなる。夜明けだ。この街にも朝が来る。
「試しに一枚」
 紫尽はそう言ってカメラを持ち上げた。彼が丁寧に持ったプラスチックのカメラは、車内の無機質さと冷たい空気の中でも柔らかく存在していた。じっとフレームを覗き、タイミングを計る紫尽の横顔に、水鳥は彼の心中の凪を見た。
 カチン、という、弱々しいシャッターの音。
「うわあー! どうかな? 撮れたかな? これドキドキするね!」
「この揺れでうまく写るものなんだろうか」
「きっと写ってるよ! ほら、水鳥も撮ってみ」
「えっ俺はいい」
 言いながら紫尽にカメラを握らされてしまった。
 どうしたものか、と水鳥は手元を見つめた。今この風景を写したところで何になると言うのか。しかしきっと、誰もがそうなのだ。そう思いながらも、掴めない何かを掴んだ気になりたくて。
「こうか」
 再び、カチン、という音が響いた。
「何撮ったの?」
「窓の外」
「……。水鳥、なんていうかさ、せめて山とか、日の出ですとか、街ですとか」
「なんだっていい。たぶん、おまえと同じだよ」
「……ああ、まあ、窓の外。そっか、窓の外だよね!」
 紫尽は、変な納得の仕方をしてぎこちなく窓のほうを見た。空の縹色は半分近くまで薄紅に追いやられている。
「『窓の外には海が見えた』」
 水鳥は呟いた。
「『窓の外には海が見えた』」
 紫尽が繰り返した。そして続ける。
「これからさ、そんな景色を見に行くんだよ」
 紫尽は窓の外を見ていた。金の光が彼の前髪まで届いて、夕刻のカーテンに似た透明な影を作っていた。三色の光が集まって、白色を生み出していた。
「そう大層なものじゃないだろうな」
「ええ、そんなことないよ。きっとずっとすごいよ」
 彼はいつも通り笑って、座席が軋む程大きな伸びをした。ちょうどその時。列車は駅に辿り着いて、無数のドアを一斉に開け放ったのだった。
「「無人駅だ」」
 二人同時に呟いて顔を見合わせた。三秒たっぷり黙って、紫尽は笑った。水鳥も笑いかけたが、どうしていつもこうなのか、堪えてしまって、ああ、という声と共に息を吐いたのだった。
 五時八分。北縹駅は、盆地を抜けるトンネルの直前にあった。

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