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私がお金を稼ぐ「理由」

冒頭で言わせて欲しい。今、まじで猫の手も借りたいくらいに忙しい。

3月から南部で始まった田舎フリーランス養成講座(略して いなフリと呼ばれている)の講師をしながらも、自分の仕事が過去最高月収を更新しそうで、しかも納期もギリギリで、スライドも作らなきゃで、本当はこんなことをここに書き連ねている時間はないのかも、と思う。

でも、私は「ライター」である前に「執筆屋」であり「クリエイター」である。そしてそんなものを全部取っ払った時に、私は「いち」自身であり続けるのかだから、今、私の口から出したいこの言葉をここに書きなぐってもいいじゃないか、と思って書き連ねている。

2月、私は大きく体調を崩したおかげで、今の仕事に危機感を覚えるようになった。しかも、猛烈に、壮大に「やばい、このままじゃ生きていけないかも」という絶望と一緒に、そんなことを覚えた。

今までは、なんとなく、のんびりふんわり、好きなことをして生きていければそれでいいと思っていた。いつか終わりが来ることはわかっていたけれど、その「いつか」はきっと、まだ先の、まだまだ先の、遠い未来のことだ、なんていう、よくわからない確信があって、だからこそこのnoteだって、べつに今日書かなくても、明日書かなくても、誰にも言わなくても、いつかは忘れられるのだから、それで良いのかもしれないって、昔の私ならきっと、そんなふうに思っていたに違いない。

それでも、2月、私は人生で初めて「あぁ人ってこんな風に死んでいくのかも」という恐怖を覚えた。それは絶望に近いもので、もはや絶望と呼んでもよかったものかもしれない。毎日、毎晩、辛くて寝る前に涙が出た。毎日、毎晩、この先どうしようと不安になったりもした。

それでも、命があって、元気になってここに生きてる。それだけでも、人生って捨てたもんじゃないんだな、とそんなことを、強く、思った。

これまでは、全然大丈夫だったことが急に大丈夫じゃなくなった。

ライターは、書けなくなったら、そこで試合が終わる。パソコンに向き合えなくなったら、そこで、今の収入が途絶える。

そういうことを、本当に初めて、経験した。

気持ち悪くても、吐きそうでも、お腹が痛くても、頭が痛くても

仕事をしないと、死ぬんだ

そう思った時、私の中に「じゃあ仕事って何?」という疑問符が浮かんだ。

これまで自由になって生きていたつもりだったのに、全然自由になれていないことを知って、またひとつ絶望しそうになった時、思ったのだ。

人はいつか死ぬ。今日元気なあなたも、昨日まで元気だったあなたも、明日は病気になるかもしれない。明日は事故にあうかもしれない。はたまた明日、あなたの一番大切な人を失うかもしれない。

そんな大切なことがわかっているのになぜ、私たちは今、こんなに不自由に生きているんだろう。そんな大切な命が今、自分たちに宿っているのに、私はこの人生を、本当に精一杯歩んでいるのか、と自問自答した。責めた。そして、悔やんだ。

時間が本当にもったいなくて、今すぐ叫んで飛び出してしまいたいのに、私はどこにも行けないんだなぁ、と思った時、ハッとした。

あぁそうか、私は、私の人生の「やりたいこと」のためにこの仕事についていて、

その「やりたいこと」を実現するために「稼ぐ」のだ、と。

過去最高月収を達成しそうな間際にいて、思うことは一つ。私はこのお金を何かに使いたいわけじゃない。ただ、生きていくための、一番幸せな方法に使いたいと思っている。

それは例えば、朝起きて、「おはよう」と大好きな人に言ってもらえる朝かもしれない。

テレビで見た美味しい話題のお店に並んで、一個数千円するステーキを、友達と美味しく食べる日々かもしれない。

ちょっと高いロールケーキを、少しだけ高級なお茶と一緒に飲み干しながら噛みしめる、幸せな午後のひとときならば、私はそれにお金を使いたい。

好きな人と好きな時に、自分の好きなことをするために、生きている。

そんな単純なことを忘れてしまいそうになる私へ。どうか覚えておいて欲しい。




あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。