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私たちはみんな、誰であっても、神様の子供。

クリスチャンになってからというもの、事あるごとに「クリスチャンだから」というくくりに縛られる。たまに、そういう縛りに対してあーだこーだ意見を言いたくなったり、文句を言いそうになってしまう自分がいたりするのだけれど。

クリスチャンだからこうしなければならない・クリスチャンだからこうあらねばならないという観点で、頭の中がいっぱいになってしまった時、ふと、こんな言葉をかけてくれる人に出会った。

「クリスチャンだから、というものに縛られなくていいの。私たちはただイエス・キリストにあって、その福音を握りしめていればいい。」

その人は、私が引っ越した先で偶然出会ったクリスチャンのお友達で、出会った当初はこんなにも偶然に、クリスチャンの人に出会うことがあるのかとお互いすごく驚いたのを覚えている。まだまだひよっこな新米クリスチャンの私にとっては、信仰生活の中で神様が出会わせてくれたと思える、素敵な友人の一人だ。

そんな彼女が私に言った「ただ、イエスキリストの福音だけを握りしめる」という言葉。その言葉の意味を、最初、私はよく理解することができなかった。

数日経って、やはり私がクリスチャンという肩書きの上に唸っている時、彼女は私に「神の子供に与えられた神さまの約束のみことば」が載っている聖書箇所を教えてくれた。

ローマ5:8
ヨハネ14:6
ローマ8:2
ヨハネⅠ 3:8
神の子供の祝福のみことば
ヨハネ1:12
コリントⅠ 3:16
ヨハネ14:26-27
ヨハネ14:13-14
ヨハネ16:24
マルコ3:13-15
ルカ10:19
マタイ12:28-29
ヘブル1:14
ヨハネ黙示録8:3-5
ピリピ3:20
ヨハネ5:24
マタイ28:16-20
使徒1:8

この箇所に書いてある聖句を、一言一句逃さず読んで。もっと深く覚えたいときは、それをノートに書き写して。ただ「イエスキリストが私たちに何をしてくれたか」を感じればいい。知ればいいよ、と教えてくれた。

それが「ただ、イエスキリストの福音だけを握りしめる」ことだと。

それから程なく、私はそのことをすっかり忘れてしまうくらいに抜け落ちた日々の中で過ごしていたのだけれど。

今日、改めて、その聖書箇所を読んでみた。ノートに書き写してみた。言葉に出して、声に出してみた。

イエスキリストが私たちに何をしてくれたのか。

イエスキリストが私たちに教えてくれたことは何だったのか。

イエスキリストは何のためにこの世に来たのか。

…書いてあったよ、そこに、全部。

私たちはつい、「クリスチャン」という自分の肩書きに囚われそうになる。宗派がどうとか、宗教がどうとか、そんな話をしたくなる。

でも、本当に大切なのはそこではない。クリスチャンという肩書きの上にあるのは、イエスキリストの福音を信じている人ということだ。

イエスキリストの福音を信じているということは、神様が私たちにしてくださったことを、何一つ忘れずに覚えているということだ。

それができていれば、神様の福音をしっかり自分の手のひらの中に握りしめることができていれば。この世にある問題なんて全部ちっぽけなことで、この世にあることの中に本当の恐れってやつは、何もないということに気づくはず。

本当に恐れるべきはイエスキリストの逆鱗であり、そして私たちが為すべきことはこの福音を握って、ただ握って、それを世に伝えていくこと。それを「宗教」とか「クリスチャン」という肩書きで呼ぶ人がいるだけのこと。

そう思うと、スゥッと心が楽になった。

ちょっとだけ、強くなれた気がした。

神様の福音を握って、ただただその恵みに感謝して生きる。そんな人に、私はなりたい。

私たちはみんな等しく、神様の子供。だから、神の子供に与えられた神さまの約束のみことばは、私たちに約束された言葉なんだよって思える。

今日も生かされてる。ありがとう、神様。





あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。