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ラジオと私と

 8月最後の土曜日、籠球のプレシーズンマッチを観戦(川崎ブレイブサンダース vs アルバルク東京)して、Bリーグの幕開けまであとすこしだなぁという気持ちと9月のファイターズ東京ドーム最終戦を観戦して、プロ野球の終盤がまもなくだなぁという気持ちが混じり合ってきた昨今ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 今回は過去のテキストのサルベージではなく、週末に色々と関わっているラジオのことについてのお話。聴く方だったのがやる方になっている、そんな現場のお話を書いていきます。

■遠い日の記憶

 明確にではないところだと、両親がジャイアンツファンだったということもあって、ラジオの実況中継がいつも流れていたような気が。父親がテレビの映像とラジオの音声をというスタイルで自宅観戦をするのが好きで、TBSラジオだとかニッポン放送だとかの音は聞いていた記憶がありまして。その頃から他球場のジングル音が変わっていないと思うんですけど、あれを聴くと小さい頃の記憶がすっと戻ります。

 後は日曜朝にラジオが付いていて、ニッポン放送のイルカさんの番組、「イルカのミュージックハーモニー」が流れていた記憶や平日夕方に大沢悠里さんの「大沢悠里のゆうゆうワイド」が流れていた記憶がぼんやりと。神奈川県の受信状態的にどちらかと言うとニッポン放送とTBSラジオがメイン。文化放送は大陸からの電波に妨害されるのか、受信状態があんまり良くなかったんですよね。

■明確なはじまり

 ちゃんと「この番組が聴きたい」って聴き始めたのは「三宅裕司のヤングパラダイス」と「とんねるずのオールナイトニッポン」でしょうか。

 両方とも兄の影響でというのはあるんですけど、ヤンパラのドカンクイズとか、おぼっちゃまのコーナーとかアイドルさんや若手俳優さんたちのパッケージ番組とか印象に残り。今ほど夜ふかしが一般的じゃなかった頃で、布団に入りながらイヤホンで聴きつつ、笑いを堪えるのが大変だったとか。

 「とんねるずのオールナイトニッポン」はちょうど「とんねるずのみなさんのおかげです」との表裏一体感というか、みなさんの話をANNでやってたりとかもあって、ラジオを聞いて学校でそのへんの話をみんなにするのが楽しかったんですよね。とんねるちゃんのふたりの話があるので、今をときめく秋元康さんは紅の豚ですし、作曲家でプレイヤーの後藤次利さんはマッスルスティックって記憶が強いんですよね。

 あとは各コーナーとかフィラーの音が記憶に残っていまして。「何でもベスト5」のコーナーで使っていた「The Heat Is On/Glenn Frey」(ビバリーヒルズ・コップのサントラに収録)とかニッポン放送のフィラー、「September/Earth, Wind & Fire」とかは大人になってから音源を集めたり、放送を担当するようになってから番組で流したりしていました。

■コミュニティエフエムとの出会い

 とんねるずのオールナイトニッポンが終わった辺りからラジオとはちょっと離れていたんですけど、部屋にあったコンポにブースターかけたアンテナ線をつなぎ、FM局を広く聞いていた1996年1月頃のことでした。

 ある土曜の昼、ぼんやりとラジオを選曲しているとプレイステーション発売後、今までになかったゲーム性が楽しく、とっぷりと浸かっていたコナミ社製「ときめきメモリアル」のBGM、朝日奈夕子の登場曲を使っている番組があり、これはなんだと。そのまま聞いていると、その番組のパーソナリティーさんの声をどこかで絶対聞いている事がわかり、ジングル明けの固定の部分にある名前で確信をという。

 その番組は鎌倉FM「おさるのさんぽみち」という番組。パーソナリティーはときめきメモリアルで館林見晴を演じた声優の菊池志穂さん。

 FMの番組は聞き流していることが多かったですし、いわゆる声優さんの番組ってのは殆ど聞いたことがなかった私。「おさるのさんぽみち」の一時間はトークパート、はがき紹介、曲と全体的な疾走感に衝撃を受けていまして。聞いててほんとに楽しかったですし、あっという間に一時間が過ぎていったんですよね。

 ちょうど1996年の1月頃といえば、ときめきメモリアルの人気が半端なくなってきていた頃でもあり、メッセージ数も半端ない量が来ていた様子。それをバシバシ読みながらコメント入れていく菊池志穂さんの捌きっぷりにぐっと来ていたんですけど、どうせだったら自分も投稿してみたいと思い立ったんですよね。

 番組を聞きつつ、3ヶ月ぐらいどうするか悩みながら投稿を開始。その頃はPCもFAXもなかったので通常通りのはがき投稿。幸いなことに最初の投稿で最後のセクションでしたけど、はがきが読まれまして、投稿する喜びも感じることになっていました。

■あの男との出会い

 番組に気づいたところから3ヶ月ぐらい様子を見て、4月から投稿。隔週ぐらいで読まれる程度にはなっていたんですけど、後にFAX、Eメール含め週100通前後の投稿があり、そこからチョイスされていたとか言うのを知り、ネタの面白さは自分ではわかりませんでしたけど、はがきは珍しい存在だったんだろうなぁと、自分が放送に関わって以降は直に感じていました。

 楽しかった「おさるのさんぽみち」ですが、人気絶頂の6月で一旦終了。夏は8月に「さるカニ合戦」と言う深夜放送をやりますというアナウンスが。別番組の深夜ラジオのパーソナリティとともに担当していくという形らしく、どんな人かとコラボ前に深夜放送を聞いてみると……。

 うん、深夜ラジオらしく、シモに攻めた兄さんだねと。

 それが、後に20年来の付き合いになる、番組でいろいろないじりに対し、「おい、やめてくれ」だとか「何を言ってるんですか」とか、ボケに対してスカしまくることになる、どすこいてじまとの出会いでした。

 「さるカニ合戦」ではお互いに自身の番組のスタンスを変えずにぶつかりあいというか、キャラ的にてじまのボケに対して鋭くツッコむ菊池志穂さんという図式が完成されているなぁと。後で聞くところだと、放送以外もそんな感じだったと言うのを聞いて、放送は嘘つけないなぁと感じた私でした。

 夏の夜の深夜放送はお互いのリスナーさんとしてもとても楽しい状態になっていましたし、もう時効状態だからいいと思いますが、夏の特番放送終了後、由比ヶ浜にパーソナリティー・スタッフ・リスナーが全員集合して線香花火大会を行ったとか、ほんと思い切り記憶に残る夏でした。

■1996年の鎌倉後

 「おさるのさんぽみち」は10月から復活したものの、それ以前にあったというか、神奈川のコミュニティ局どこも何かしらあったりという噂は聞きますが、内部の改編・スタッフの動向などもあり、12月で終了。ご苦労は色々とあったと思いますが、最後までらしさを貫いている姿、声優さんとして羽ばたかれようとしていた姿は、これはもう応援したいよねって、そんな気持ちにさせてもらっていました。

 1996年のラジオへのはがき投稿に楽しさを覚えた後、菊池志穂さんの他局の番組(AM神戸とかTFMとか)に投稿して、鎌倉FM時代までとは言いませんけど、なんとかかんとか読まれていて、鎌倉の頃に知り合ったお友達やゲーム関連で色々とおすすめいただいた師匠筋(本職シナリオライターさん)に褒めていただいたのを覚えています。

 コミュニティエフエム関連で言えば、おさるのさんぽみち末期にゲストにいらしたミュージシャンがFM湘南ナパサで番組を持っていて、そちらを聴きつつ投稿したり(当時、その番組のDを担当してた横浜ビー・コルセアーズさん関係の番組やってるのに先日気づいてビビりました。向こうさんは覚えていないでしょうけどね(笑))、どすこいてじまがFM-SOCK(現・エフエムホット)で番組をやっていたので、そちらに投稿したりと、ラジオがとても近い存在になっていました。

■そして

 1999年9月、相模原にどすこいてじまから人出が足りないので手伝ってほしいと。前月に菊池志穂さんが久々にコミュニティエフエム局で番組を担当していたのですが、その局の防災特番のレポーターさんに付くドライバーを頼めないかというお話で、番組を楽しんでましたし、それならばとお手伝いに入ったのが最初でした。

 そこから20年……。

 プロデューサー以外のほぼほぼ全部を経験。後進に喋りを任すために一旦卒業したものの、再びマイクの前に戻ったりしつつ20年ですか。

 普段の生活をしていただけでは体験できなかったことも色々体験できました。プロ野球チームの広報担当、エンターテイメント担当の方におこしいただいて番組を行う(その節はD石黒さん、M高瀬さん、M目時さんありがとうございました)とか、球団マスコットの選曲で番組を行う(マーさん、そしてパオさん、ほんとにありがとうございました)とか、本当にできない体験ですしね。

 と、そんなオモヒデもちょっと振り返りつつですけど、土曜日のウィークリーホットラインでちょっとしたお知らせがありますので、お時間合う方、ぜひエフエムホット、土曜のお昼の12時からのウィークリーホットラインにお付き合いいただければ幸いです。

サポートをご検討いただければ幸いです。いただいたサポートはカメラのメンテナンス代などに充てさせていただきますとか書いてますが、実際には設定しよう的に書いてありましたの設定しました程度です。