学んで得るもの、失うもの。

20年以上、のらりくらりと流れるように生きてきた自分にとって

「自分の頭で考えて行動すること」に過剰なほど苦手意識がある。

そのマインドが少しでもよくなればいい、ということと、

本質的な物事の考え方に興味を持ち、現在空前の哲学ブームが舞い込んでいます。

哲学に触れることで、悩みや思考の分離ができていく中で、

政治哲学者の”マイケル・サンデル”さんの言葉にハッとくるものがありました。


警告しておこう。これらの本(哲学者の名著)を自己認識におけるエクササイズ、自分をより深く理解するための訓練として読むことには、ある種のリスクがあるということだ。

なぜこういうリスクが発生するかというと、哲学という学問は私たちを、私たちが既に知っていることに直面させて、私たちに教え、かつ動揺させる学問だからだ。

哲学講義の難しさは君たちが「既に知っていること」を教えるという点にある。それは、慣れ親しんで疑いを感じたこともないほどよく知っていると思っていたことを、見知らぬことに変えてしまうこともある。

哲学は、私たちを慣れ親しんだものから引き離す。新しい情報をもたらすことによってではなく、新しいものの見方を喚起させることによって引き離すのだ。

しかし、ここにもリスクがある。

慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わってしまえば、それは二度と同じものにはなり得ない。

自己認識とは、純真さを失うようなものだ。

マイケル・サンデル/白熱教室01「殺人に正義はあるか」

ここ最近感じでいた、「自分で選び取る自分への責任」について、心が納得していくにつれ、

ささやかな心の揺れに動じなくなってきたことと同時に、今まで当たり前のように身近にいる人たちと頷き合って共有できていたことが、

まったく自分の意識のところに届かなくなってきていました。


冷めた視点をもった”やな奴”になってきた感覚。

しかし視点が変わったという事は、見据えるゴールや共有し合う対人関係が変わっていくということなんだろうと思う。

知見を広めても周りに合わせてばかりで、学び得たことを使わなければ意味がないし、使うといっても何もかもを知っているかのようにふるまい、そばにいる人たちを蔑むようなことはあってはならない。

哲学をもってして、考え方がいくら変わろうと、誰にでも当てはまる答えのようなものを「~である」なんて決めつけることも出来ないだろうし、

何世紀も時代を超えて、偉人たちが言葉を残し、それを拾い上げながら答えのない設問を自分の人生を材料に議論していく。

そうしたところに、哲学のおもしろさがある気がする。

既存の考え方を手放すことは、別れのようで悲しいけれども、思考もまた、出会いと別れの中で成熟していくんだなー。とか。

・・・なんだか夜なので脳みそが疲れているかも。笑

今日はここまで、読んでくださりありがとうございました。
また明日!




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