「書くことがない」というのは「書きたいと思えるほどのこと」がないということなのかな

どうでもいい事を書こうと思っています。特にテーマもなくツラツラと連ねていこうとしています。なぜ、わざわざそんな事をするかというと、最近文章を書いていないからです。準備運動のようなものです。何か意味のある事を書こうにも、書くことが思い浮かばないので、とりあえず頭の中をそのまま文章にしています。

しかし、そのまま文章にしているといっても、やはり若干の負担が脳にかかっている気はします。頭の中に浮かんでいる単語を、人に伝わる文章になるよう整えることは、ただ頭の中だけで考えているよりは難度が高いようです。当たり前のことですかね。

「生活の乱れ」という、ありがちな罠にハマっていると脳が混濁してきます。ここまで書いた文量は少ないものですが、それでもそれなりに脳への負担を感じています。書くことが常態である時には、適当な文章でならすぐに1,000や2,000の文字を書けます。日々、コンスタントに文章を書いている人の頭の中は、それはそれはとぎすませれているのでしょう。恐れ入ります。

私は、文章を日常的に一定量書き続けることを続けたことがありません。試しに毎日書いてみて、自分の脳がどのようになるのかを試してみたいと思っています。今までにない状態になることは間違いないでしょう。今までにしてないことをするのだから当たり前です。聡明な頭脳を持ってしまうかもしれません。あらゆる事象に対して瞬時に分析と論理の展開を行えるようになるかもしれません。

ただ、テーマというものを発見しなければいけないわけですが、これはどこから持ってくるべきでしょうか。今のところ書くべきテーマというものは私にはありません。こうなれば日記を書くしかありません。その日起こったことを客観的な描写に乗せて他人が読める形に変換するのです。日記自体には価値はないかもしれませんが、トレーニングとしては有効な気もします。

自分の過ごした時間に、日記という体裁を持たせるには、視点の変化が必要なはずです。本来なら、感情しかないものを出来事として捉え直すからです。腹が減った・満腹になったという個人的な諸々を、飯を用意した・飯を食ったという事実ベースで記述しなければいけません。もちろん、なぜ飯を食ったのかという動機を説明する際には腹が減ったという思いも書くことになりますが・・・。

こう考えてみると、ただ日記を書くというのもそれなりに大変なことに思えてきます。

さて、怠惰な自分から脱却するために日記を書くことにした私ですが、嘘は書かないようにしなければいけません。書くことがないからといってでっち上げてはいけないのです。書くことがないということはないのです。ただあるがままを描写すればいいのです。書くことがないというのは、書きたいと思えるほどのことがないということなのだろうと、ここまで書いてみて発見しました。

サポート頂いても、あなたのことを『サポーター』とは呼びません。安心してください。あなたはあなたです。