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【急行ゴンドワナ 2】山形県 白布温泉・西屋旅館

伊達家の次は上杉家だ。徳川家と敵対した上杉家は関ヶ原後取り潰しこそ免れたものの、会津120万石から米沢30万石に減封された。しかし徳川家との関係修復に努めた筆頭家老・直江兼続が米沢郊外の白布温泉で量産した火縄銃が大阪冬の陣で徳川軍に貢献し、2代将軍・徳川秀忠から感状を得たという。

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その白布温泉には江戸時代より続く3軒の茅葺旅館(東屋・中屋・西屋)が平成初期まで残っていたが、2000年に東屋と中屋は惜しくも焼失、かつての姿で令和を迎えられたのは西屋のみとなった。開湯は鎌倉末期の1312年、茅葺の母屋は築200年、本館は築100年という西屋旅館は、歴史建築ファンには外せない温泉だ。

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入母屋造りの妻部分にタツノオトシゴのような装飾がある。なぜ山中に水生生物かと思ったが、この宿はとにかく水に満ち満ちているのだ。部屋にはトイレもエアコンも無く、冬は寒がり夏は暑がりという私のような変温動物には宿泊は敷居が高いが、名物の滝湯は日帰り利用可で交通面でも東京から日帰り可なので、足湯新幹線とれいゆ(準急ユーラシア77号参照)乗車の際に手頃な目的地として選んだ次第だ。

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脱衣室のすぐ外で水音が轟いているので覗いてみたら、裏山の湧水がざばざば流れ、湯樋が6本も湯屋にぶっ刺さっていた。平時でもこの水量が宿のすぐ脇を迸る立地はワイルドで客は楽しいが、温暖化による異常豪雨が来たら土石流は大丈夫かと、つい余計な心配をしてしまった。

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画像奥の裏山から引かれた男湯・女湯それぞれ3本ずつの湯管を通じて、かなりの高さから湯屋に温泉水が降り注いでいる。半露天とまでは言えぬまでも冬は雪が舞い込んできそうでいい感じだ。

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源泉3か所からの温泉水を一旦集めた上で3軒の宿に分配するが、高温なので沢水と混ぜて温度を日に何度か調整すると言う。西屋の配分は毎分約400~500リットル、つまり毎秒約7~8リットルだ。

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近時レインシャワーが普及しつつあるが、これはそんな生易しい湯圧ではない。浴室は狭いが湯の流れに沿ってうまく考えられており、湯滝は浴室内最上流に位置する。

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床に落ちた湯はそのまま画面の左隣にある浴槽に流れるので、湯滝でシャワー代わりに洗体するのは大顰蹙だ。右は沢水と混ぜない源泉湯で、とても熱い。

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左奥の衝立は湯滝利用者が圧迫感を感じないよう上半分は簀状、下半分は金隠しになっている。湯の供給量が多く左手前の湯船は常に溢れ続けるので、湯船の下流になる右奥の洗体処の汚れ湯は湯船に戻らない。黒御影石製の湯船は江戸中期1700年頃の物と言う。

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脱衣室から見た浴室。浴槽から溢れ続ける湯は浴室全面を覆い、どこまでが床でどこからが浴槽か判然とせず、浴室全体が川のようだ。

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大量の湯がさざ波を立てて明かり戸の下の隙間から外に滔々と流れ出ていく様子を湯に浸かりながら眺めていると、体内の穢れまで洗い流し去ってくれるような清浄感を覚える。良き かな。脳天に大量の湯が落ち、浴室中に湯が溢れ、千と千尋の神隠し の浄化中のおクサレ様になった気分だった。

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左上:簀の下を湯が横切る渡り廊下の右側は奥が女湯、手前が男湯だ。右上:「独泉」状態だったのを幸いに構造を理解する為に明かり戸をからりと開けたら、湯面の上に立っているような不思議な光景が現れた。下:床面すれすれの高さで浴室側を見たら、ミニ・ナイアガラ状態だった。

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湯屋から流れ出た温泉湯は、もはや湯か水かわからない状態で中庭の湿地に消えていく。土壌水分量はぐずぐずに高そうで震災時の液状化は大丈夫か、また余計な心配をしてしまった。

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左:本館の湯上処も立体的でいい感じだ。右:蹲(つくばい)から常に滴る水が苔を育み、こちらもいい感じだ。

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道中、上杉神社近くの旧上杉邸が「上杉伯爵邸」というお屋敷レストランになっている。古くは室町幕府で関東管領家を務め、戦国期は英雄・上杉謙信を輩出、その養子・景勝も豊臣政権で五大老に列した名家だ。関ヶ原では西軍に付いた為に敗戦後1/4の領土の米沢に押し込められたが、無事明治を迎え伯爵家となった。

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武家屋敷というより大寺院のような結構の屋敷内部も見学でき、純粋和風建築の美の最終形はこうであったかと思わせる。食事も美味だが、歴史建築愛好家にとって最高のおかずは、日本建築のシンプルな美と旧大名家の格式を伝える雅をうまく融合させた、宮大工の仕事だ。

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