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不純が気になるお年頃 #呑みながら書きました

 始まりました、って書こうと思って日程読み直したらもう終わってました。後夜祭枠。最近なにかと乗り遅れがち。

 というわけで呑みながら書いてますが、最近スタエフでも呑みながらしゃべってたり、呑んでなくても酔っぱらってたりしてますが、日ごろ頭の中に渦巻くタワゴトを書く機会として使わせていただこうと思っております。

不純が気になる

 タイトルはもう、気になると書いてしまったら「お年頃」って出てきたのでつけただけで、そのお年頃はいったいどのぐらいのお年頃なのかということはまったく考えておらず、わたしの中にも答えはない。ごめんよ。

 不純が気になる。不純な動機。不純物。不純異性交遊。

 不純というのは純粋あるいは純真でない、という意味の否定語だろう。不純物というのはわかる。純粋な状態に混入した異物。つまり不純物のある状態は不純であると言えるだろう。

 わからないのは不純な動機、という場合の不純だ。

 動機が不純と言えば真っ先に思い出すのがRock'n Rouge。

 1番のBメロの歌詞がこうだ。

海へ行こうぜって
指を鳴らすけれど
動機が不純だわ

 動機が不純だわ。純粋じゃないわ。そもそもこの誘い方がダサいんだわ。

 ダサいのは80年代の曲でもあるし大目に見るとして、不純な動機とはいったいなにかということが問題だ。

「海へ行こうぜって指を鳴ら」したのはどういうやつかというと、「グッと渋い SPORTS CARで 待たせたねってカッコつける」ような男で、「髪にグリース光らせて決めてるけど絵にならない」ような男である。

 このスポーツカーはいったい何だろうということも気になるわけだ。髪にグリースも時代を感じる。ポマードじゃなくてグリースである。今どきグリースなんて機械に塗るやつのことしか指さないから、髪にグリースの時点でだいぶ気がくるっているようにさえ思えるが要するに、髪がテカテカになるほど整髪料を塗りたくっているということだ。おそらくはオールバックであろうと想像できる。ギラギラである。ギンギラギンだ。ギンギラギンでもさりげなかった時代の話である。

 何がさりげないのか。何が不純とされているのか。

 性欲である。

 あわよくばセックス。それをして不純だと言っているのである。おそらくこれを読んでいる方の多くは、このように回りくどい説明などしなくても「不純な動機」に含まれる不純物が性欲であるということはご存知であろう。

 しかしちょっと待っていただきたい。性欲とは三大欲求の一つであり、人間が持つ本能である。動物的本能だ。考えれば考えるほど、それはもっとも純粋な欲求なのではないかという気がしてくる。

 やりたいから異性を誘うというシンプルな構造こそ、最も純粋であるという気がする。逆に性欲、肉欲の絡まない愛情のことをプラトニック・ラブとか称して「純粋だ」とする傾向があるけれど、生物としてみればその方がいびつだ。もちろん、人間は進化することによって種の保存が種全体としてはそれほど重要なトピックではなくなってきていて、高度に進化した精神が本能に直結しない多様な欲求を生み出してきた。動物としていびつな欲求こそが、人間として特有のものになり、それこそが人間を人間たらしめているとさえ言えるかもしれない。

 どうも「不純な」とされるのは、根源的な誰にもあるような欲求に直結するものが多い印象だ。たとえば慈善事業みたいなことを言いながら実は金儲けが目的だったりするケースも、「不純」と呼ばれる。でも経済社会において「金がほしい」というのは最も根源的な欲求であり、それが無ければ経済社会は成立しない。

 つまり、純粋な欲求を「不純」とすることで、本能的欲求を制御下に置いていることを示したいのではないか。

 わたしは「不純な」という言葉に接するたび、そこで不純物とされているものは何かということを考える。そして多くのケースで、それは不純物ではなくむしろ純度の高い根源的なところに直結したものであり、それを不純だとして目をつむりたいだけのように思えるのだ。

 異性を見てあの人が好きだと思うのは、その人の持つ遺伝子が気に入り、自分とその人との間に子孫を残したいということである。より優れた個体が気に入られるのは、そういう個体を残す方が生存率が高いからだ。しかし一辺倒ではわずかな原因で全滅しかねないから、多様な個体が子孫を残せるようにできている。少々変わった個体を愛好する個体がいて、変わった遺伝子も残るようになっている。

 動物的本能が不純だというのであれば、そもそも子孫を残す目的ではない愛のほうが純粋だという話になる。ところが性欲に基づいた行動を「不純」とする人に限って同性愛を純粋だとは言わないし、小児愛や死体愛などについてはなおさらだ。こうした愛情は動物的本能からは離れたものであり、高度に精神化した種族にしか現れないものだろう。そういう意味できわめて人間的だし、先進的である。その分、純粋な生命活動からは遠い。こう考えてみると、純粋から遠いものを不純とするのはいささか言葉の適用にも問題があるように思える。なぜなら同性愛は異性愛に不純物が混ざった結果生まれるものではないと思われるからだ。

不純の正体はなにか

 いい感じに酔っていて話の着地点を見失いつつあるけれど強引にねじ伏せるとする。

「ちょっとセックスしよう」を「海へ行こうぜ」って指を鳴らす行為に変換することの不純性は、動機そのものではなく、それを隠していることにある。動機は前述のようにむしろ純粋だ。その純粋な欲求をあたかも存在しないかのように装う。動機が不純なのではなく誘い方が不純なのだ。

 しかしどんなに渋いスポーツカーに乗っていても、やはり「ちょっとセックスしよう」と指を鳴らした場合、それはもう純粋すぎて無粋だ。不純ではないが無粋なのである。無粋を避けるために違った表現をする。結局最終的にはねんごろになってねんねんごろりといったことが目的だし多くの場合そうなるわけだが、純粋な動機を隠して無粋を避ければこそ、遠回しな誘い方になるのである。それは無粋ではないもの、むしろ「粋」ということにすらなるのではないか。

 スポーツカーで指を鳴らしつつ海へ誘うのが「粋」かどうかは判断が難しいものの、「動機が不純」に含まれる欺瞞は暴くことができた気がする。

 人間は高度に精神化しすぎたが、生物(せいぶつ)であり、生物(いきもの)であり、生物(なまもの)である。生物である以上生臭いし泥臭い。それにふたをしすぎると、自分が生物であったことをすら忘れそうになる。人はまだ、それを忘れて良いほどには進化していない。わたしはそう思っている。

「呑みながら書きました」はタワゴトを書くためのタグではないのだけれど、酒が入ってなければ書かないようなことを書ける機会ではある。こういう自分でも本当に信じているのかどうかもよくわからないようなことを書いておくと、後で振り返ったときになかなか面白かったりする。ありがとう呑み書き。大好きです。

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