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知識より経験・効率より無駄 #呑みながら書きました

今夜のお供は電気ブラン。ブランデーベースのリキュールで、安い酒として有名なやつ。箱入りで売ってるけど700円弱という激安酒であるよ。

年末の呑み書きがやってきたので2023年を振り返りながら2024年に思いを馳せてみようと思う。今この瞬間にそう思ってこれを書き始めるわけだが、どういうことになるかは僕にもわからない。なぜなら、ノープランだから。何も考えないまましゃべり始め、そのまま思いついたことをしゃべくり倒すコンテンツをやっていて、それが今860回ちょっと続いている。おそらく平均すると1回30分以上になるであろうこのアホみたいなコンテンツが、多分自分の糧になっている。それと同じノリでここでは文字を打ちまくってみる。

さて2023年。何をしていたのか。去年初めて体験した、小学生とか中学生に向けて話す、という仕事が、今年もいくつか来た。いくつかの中学校で話をしたし、年明けにもいくつか予定が入っている。

中学生に、仕事の話をする。彼らの進路の参考になるように。職業講和というやつ。僕は少々特殊な仕事をしているので「その話を聞かせてほしい」という相談が入りやすい。これまでは就活している学生に向けての会社説明みたいなものが多かったのだけど、昨年から急に小学校とか中学校で話してくれという話が来るようになった。

学校からのオーダーはだいたいこんな風だ。仕事の話、会社の話、あなたの(つまり僕の)これまでの経歴、将来のために中学生の間にやっておいた方が良いこと、等。これまでいくつかの学校の先生と話したけれど、どの先生もみんな熱心。受け持っている生徒さんたちのことを本当に心から考えていて、彼らの将来のために自分たちではできないことを、外部の大人から伝えてほしいと、大変な熱量で依頼される。

どれいっちょ、やりますか。といった具合に腕まくりして挑むわけですね、こちらも。

将来のために今何をしておけばいいのか。

まず「将来のために」とかいうことを考えるのをやめろ、と話す。今、あらゆる事柄がものすごい勢いで変化(あえて進歩ではなく変化としておく)しているこの世界で、「将来」というものを正しく予想できる人などいるのだろうか。予想できない将来のために、今何をしておけばいいのか、そんなことを助言できるような大人がいるのだろうか。

なにかを断言する大人がいたとして、それを信じるべきではない、というのが僕に言えることだ。

中学生に向けて、僕は自分の歩んできた道について話す。僕が中学生だった頃の話。そのころどういう大人になりたくて、何を頑張ってきたのか。そして今どうなっているのか。

まるで脈絡のない展開になり、意味不明な人生を歩み、わけのわからないところにいる。僕が中学の頃、没頭してきたことと今やっていることにはまったく何の関係もない。が、そのころの経験が今、全く想像もしていなかった形で役に立っている。

将来のために、と思ってやったわけではないからこそ、役に立っている。

今、僕が中学生だった頃とは比べ物にならないぐらい、情報が溢れている。中学生たちはものすごい量の情報に揺られている。僕らが中学生だったころの、もしかしたら一億倍ぐらいの情報量かもしれない。困ったらなんだってググれば模範解答っぽいものが得られる。やってみる前から結果が予想できてしまう。自分よりも経験のありそうな大人たちがいろいろな情報を発信していて、それを聞きかじることで分かった気になってしまう。

この現象を僕は、耳年増現象と呼んでいる。今の子どもたちは耳年間なのだ。ゲームを遊ぶ前にプレイ動画を見てしまう。映画や小説を体験する前にレビューを読んでしまう。解釈をする前に批評言語を知ってしまう。

今の子どもたちは、知識量が僕らの頃とは比較にならない。シンプルに多分数十倍から百倍ぐらいの知識を持っている。が、経験値が恐ろしく少ない。やる前から結果を知ってしまったために、自分でやってみていない子が本当に多い。あらすじを知っていたら実際に見たり読んだりする必要はないとさえ思っている子もいる。

親までもが、転ぶ前に「そんなことをするところんじゃうよ」と言ってやらせないんである。

アホの極致だ。そんなんで何が面白いのか。中学生なんてアホでいい。大人たちよ、中学生の頃を振り返ってみたまえ。恥ずかしくて人には言えないようなことをしていたのではないか? 僕? 僕は中学生と言わず、二十代の前半ぐらいまでしていた。見ようによっては今だってずいぶん恥ずかしい大人かもしれない。

中二病を患ってイタイ思春期を過ごした経験のある人は少なくないだろう。そういう人たちに聞いてみれば、おそらくその人生の汚点みたいな話が、なかった方が良かったとは言わないだろう。その経験をしたことが今生きているはず。アホらしいことを全力でやった経験は全く無駄などではない。

でもそれを「イタイ中学生だった」と振り返る言葉がネットに氾濫していれば、今の中学生たちは、「なるほどこれは恥ずかしいのか」と思ってやらなくなるのである。

もったいない。

とにかく疑え。大人の言っていることなど疑え。地球は丸い? わかんないだろ、見たことないんだから。知識として得たそんなものをさも自分で知ったかのように振り回すよりも、なぜ自分の目で見ることができなかった時代に地球が丸いということに気づいたのか、ということに目を向けたほうが良い。宇宙は拡大し続けている? そんな途方もないことをどうやって知ったんだ。

なんでそんなことがわかるんだ、という懐疑的な姿勢は好奇心につながり、ただの知識ではないそこから連鎖する向学心をもたらす。簡単に得られる知識を信じるな。やってみろ。僕は中学生にそんな話をする。役に立つことをしようと思うのをまずやめろ。何が役に立つかなんてわかるはずがない。でも今の君が何をしたにしろ、一生懸命やったそれは必ず役に立つ。どんなにしょうもないことであっても、それを全力でやったという経験そのものに意味が生まれる。なぜならその経験を得た君がその後の時間を生きるからだ。

役に立つなんてそういう意味合いのものであって、とどのつまり、全力でやりさえすればなんでも役に立つ。クソどうでもいいようなことであっても、それを一生懸命やってみた人にしか見えない景色というのは間違いなくある。模範解答に近いものを出し続ける生き方をしていると絶対に見えないものを見ることができ、それは圧倒的な価値となって返ってくる。

何も理解しないまま公式だけ覚えて代入で点数を稼ぐような勉強が将来何の役にも立たないのに対し、わかるまで粘りまくって結局赤点だったような経験は強力な意味を持つ。

中学生に限らず、会社の新人にも言っている話なのだけれど、一番忌むべきものは思考停止だと思う。思考停止状態を指して「脳死」という言葉を使うのもよく見かける。(ゲーム等で何も考えずに一つの行動を押し付けるのを「脳死でこの技をこする」とかいう言い方をする)

思考停止はある種の死であり、最も忌むべきものだと思う。効率を追って模範解答的ハックで問題に取り組んでいる状態は限りなく思考停止に近い。それを繰り返す生き方はいろんなものが本当に死んでしまって、ある時虚無に襲われると思う。

中学生に伝えたいことは、とにかく思考停止に陥らないように生きること。まず模範解答に近づこうとするのをやめること。最短距離をハックしようとしないこと。回り道でもなんでもいいから納得できる道を行くこと。結果盛大に回り道をし、あらゆる周りの人に「時間の無駄」と言われたとしても、それはまったく無駄などではないということ。

Xにも書いたが、「そんなことをして何の意味があるの?」と言われるようなことをこそ、やる意味がある。なぜならほとんどの人は、そんなことはやってみようとしないからである。ほとんどの人がやらないことをやるのには、ものすごく大きな価値がある。なにしろほとんどやったことある人がいないのだから。

なんの意味があるのかわからないならば、ひとまずわかるまでやれ。やってみた結果「意味はなかった」という結論に至るのであればそれには大きな価値がある。やらずに「意味などない」と知ったかぶっているアホよりもよほど良い。

さて、結局2023年の振り返りの話ではなく、2024年への想いも何もなかったわけだが、まぁこんなもんである。

2023年とにかくいろんなものを買った。で、DIYを始めた。2024年はどうすんのか。わからん。DIYは続けたいと思う。アホダラトークPodcastも続けるしYoutubeも続ける。Youtubeはちょっと方針を変えようと思っているけれどあれこれ試行錯誤しながら続けるつもりである。英語も引き続き頑張っていくし、スマブラも頑張る。長男が中学に上がるのでまたいろいろ面白いことになるだろう。

長男が中学生になると中学生に向けてのメッセージも変わってくるかもしれない。うちにも中学生がいてね、という話になるからね。

毎年同じ感じではあるけれど、今年もたのしかった。来年もたのしそうだ。以上!

マリナさんまいどありがとう。もうノミカキがアイデンティティみたいになってる僕です。

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