ぼくはうみがみたくなりました 1~2章



 サッシの窓ごしに、澄んだ青空が見える。
 ガラスは多少汚れているものの、スカイブルーの青さは圧倒的だ。
 初夏を思わせる白い雲のかたまりが、ぽつんぽつんと浮かんでいる。止まっているように見える。ゆっくりと形を変えながら動いているその姿は、じっと目をこらして眺め続けていなければ気づかない。
 昨日までの雨がまるでうそのようだ。先週からの連休も、ゴールデンウィークという言葉が似合わないほどに、悲しいぐらいずっと雨だった。今日はその直後の土曜日。もう少しすれば、今度は梅雨に入ってしまう。
 だからこそ、このまぶしいほどの天気は、よけいに五月晴れを感じさせてくれる。
 こんな週末は屋外に出て広い芝生でのんびりしたい、と思ったりするのが普通の感覚なのだろう。

 だけど、今の彼にとって、それはどうでもよいことだった。 この一瞬の彼にとって、晴天だということなど関係ない。だって次は雨についての問題なのだ。
《ハイドロプレーニング現象は、乾いた道路でスピードを出したときに、ブレーキが効かなくなる現象である》
 それが第四日目の五六問目の設問なのだ。
 彼は迷うことなく、問題の横の四角い空欄を『×』マークでうめた。ハイドロプレーニング現象は「濡れた道路でスピードを出したときにブレーキなどが効かなくなる現象」というのが正しい答えなのだから。
 すぐに巻末にある解答のページの五六問目を確認する。

 バツで正解です。
 次は五七問目です。

 設問を読み、もう一度読み返し、正誤を判断して『〇』か『×』かを記入し、解答ページを見て正解かどうかをチェックし、次の設問に進む。それを一問ずつくり返す。黙々とくり返す。
 この『二週間でOK! 普通免許学科試験問題集』は、水曜日の仕事の帰りに必ず立ち寄る書店で見つけた。
 本来は一〇〇問全部を解いてから答え合わせをするタイプの問題集なのだが、彼のやり方は違っていた。
 一問一問に決着をつけ、納得してから次の問題に進んでいかないと頭の中にギザギザがたまって爆発しそうになり、叫びだしたくなってしまうのだ。
 問題集を始めた最初のころ、正解できる設問がまったくなかった。だから、正解を覚えるためにも、一問ずつの答えを確認しなければならなかった。そのときに、彼の解答パターンは決まった。
 もっとも、今となってみれば、間違えることはまったくないといっていい。なにしろこれまでに五〇冊以上の問題集をこなしてきている。近所の書店にはもう種類がなく、都内の大きな店まで問題集探しに遠征しなければならないほどなのだ。この本を見つけることができたのは奇跡に近い。きっと新刊本なのだろう。
 驚くのは、こなした問題集の分量だけではない。
 彼のすごいところは、解答欄にあった正解の文章を一言一句間違えることなく記憶している点なのだ。
 問題集によって、設問の文章の細かい部分が多少違っていたりは当然する。が、それはもう大丈夫。最初はとまどったが、今は内容的に同じ文章ならば、最初に覚えた文章と新しい文章を頭の中でちゃんと置き換えることができる。彼の記憶力に対抗できる人間は、彼の仲間以外には、まずいないかも知れない。
 一問に費やす時間は、答え合わせをする時間を含めて三〇秒と決めている。
 五〇分の試験時間に一〇〇問を解くのだから、このペースが一番いい。試験会場では一問一問の答え合わせはできないけれど、頭の中でちゃんとやればいい。
 本当はこの三倍のペースでも解答を進めることができる。だけど、そうすると一日の楽しみが一六分四〇秒で終わってしまうので、とっても悲しい。二日分、三日分とまとめてやれればいいのだけれど、それは止められている。一日一〇〇問までというのが、母親との約束なのだ。
 すごく残念だ。二週間分の問題なんて、三日もあればラクラク終わってしまう分量なのだから。だけど仕方がない。お母さんと約束したのだから。約束をやぶると、また問題集を買ってはいけないと言われてしまう。

 約束しなければよかったです。
 もっと問題集をやりたいです。
 もっとがんばりたいです。
 早くクルマの免許証をとりたいです。
 試験で一〇〇点をとる自信があります。
 なんでお母さんは自動車教習所に通わせてくれないのかな?


「あさの、じゅんいちクン」
 母親の瑞江がドアをあけ、顔を見せた。
「はい~っ」
 フルネームで呼ばれ、彼……浅野淳一は条件反射のように応えた。語尾のイントネーションが揺れながら微妙に上がる。それが彼の独特の返事の仕方だ。
「何をしているのかな?」
 淳一は母親に背中を向けたままでいた。問題集をやっていることがわかると、また何か文句を言われるに決まっているからだ。だけど、問題集をやっていたことは、しっかりばれてしまっていた。
「ほらまたぁ、せっかくの休みの日にまでやらなくてもいいの」

 せっかくの休みです。
 午前中からやっています。


 休みの日の昼間にやっていけない理由がよくわからない。
 月曜から金曜まではつくしんぼ作業所にちゃんと仕事に行っている。だから問題集は夜にしかできない。朝は午前七時に起きると決まっているから、顔を洗ったり着替えをしたり朝ごはんを食べたりトイレに行ったりしなければならないのでやれない。
 昼休みに自由時間があるけれど、仲間の友達がすぐ邪魔をしてくるから集中できない。一度問題集を破られてパニックになったことがある。もうパニックにはなりたくない。だからもう作業所ではやらないことに決めた。
「どこかに遊びに行ってもいいのよ。もう一人で電車にも乗れるでしょ?」

 お母さんはうるさいです。

「切符も買えるようになったでしょ? ついこのあいだまでは駄目といっても電車を見に行ってたくせに」

 電車は見に行ってません。
 中学一年生のときの九月一八日の午後四時六分の急行が最後です。
 ついこのあいだではありません。


 たしかに、淳一は子どもの頃から電車が大好きだった。母親の目を盗んで家を抜け出て行っては、徒歩で一〇分ぐらいのところにある踏切の前に立ち、目の前を通過する電車を眺めていたものだ。
 部屋においてある置き時計を持ちだし、警笛が鳴りはじめてから遮断機が降りて電車が通過するまでのタイムチェックをするのがお気に入りだった。ボーッと立ちつくして置き時計とにらめっこされていては体裁が悪いと、父親が腕時計を買い与えたのは、小学二年のときのことだ。
 だけど、電車への興味はすっかり過去のものとなっていた。興味の対象は少しずつ変わっていくものらしい。
 今はほら、プラレールの電車よりトミカのほうがよっぽどましだ。
 それを物語るかのように、本棚の一番上の棚にはいろいろな種類のミニカーがずらりと並んでいる。まるで、定規で計ったかのように、駐車場の白い線の中に並んでいるかのように。いや、駐車場に停まっている車のほうが、よっぽど個性的に並んでいる。
 まあ、このミニカーもまた過去のものとなってしまっていた。今はとにかく自動車免許証がほしい淳一だった。
 免許がとれたら、一番のお気に入りにしているミニカーと同じグリーンメタリックのステップワゴンをお父さんに買ってもらいたいと思っている。
「お母さん、淳一の部屋を掃除したいんだけどなあ。どこかへ遊びに行ってくれるとうれしいんだけどなあ」

 問題集が終わったら出かけます。

 廊下から別の声が聞こえた。
「ほらね、またそうやって兄貴をいじめてるんだから」
 弟の健二だ。淳一とは二つちがいの一七歳。生意気ざかりの高校生だ。
「なに言ってるの。母さんは別に……」
 文句を言っているのではない、と言いたげな瑞江の言葉をさえぎって、健二は自分の主張を続けた。
「問題集ぐらいやらせてやれって。一日一〇〇問って約束してあるんだろ。兄貴がそのテの約束、破ったことある? ないじゃん。ちゃんと約束は守るよな、なっ、兄貴?」
 返事をするかわりに、淳一は六一問目の解答欄に『〇』を記入した。
 弟は弟で、兄の返事など期待していない。
「きっちり五〇分じゃん。それが終われば他にやることなくなって、外に行こうかなって思うかも知れないだろ。それを待てないようじゃ兄貴の母親は失格だな」
 夫にならともかく、息子なんかにまで言われたくないわよ、という表情を浮かべて、瑞江は言った。
「健二、たまには兄さんにつきあってどこか行ってくれない?」
「なんで俺が?」
「だからたまにはって……」
「兄貴は兄貴、俺は俺って言われて育てられたんだぜ、俺。違う?」
 たしかに、口癖のようにそう言ってきた瑞江だ。
「弟は弟でね、週末はこれがまたいろいろ忙しいの」

 健二がいそがしくてよかったです。
 健二といっしょに出かけるのはきらいです。
 健二はぼくの弟なのに、いつもえらそうにします。

「で、終わり?」
「何が?」
「母さんの言いたいこと」
「そりゃ言いたいことはいろいろありますけどね。父さんや母さんがあんたに淳一のことで苦労させたくないって思いがあったってことだけは……」
「はいはい」
「本当にわかってるんだか」
「そういう言いかたが、結局のとこ苦労を押しつけることになるってことにも気づいた方がいいと思うよ」
「…………」
 この類の話になると、健二の方が瑞江より一枚上手だ。
「どうしても兄貴を追い出したい?」
「追い出すなんて他人聞きの悪い……」
「だったら俺にまかせてみてよ」
「どうするのよ」
「いいから。母さんは邪魔邪魔」
 というわけで、キッチンの方へ行ってしまった母親のかわりに、今度は弟が部屋に入ってきた。

 ここはぼくの部屋です。
 お母さんと健二は勝手に入らないでほしいです。

「今、何問目をやってるの?」

 今は六四問目です。
 次は六五問目です。

 頭の中では思うけど、あんまり答えたくない淳一だ。
「途中で悪いんだけどさ、こっちの問題、解いてみてよ」
 健二は持ってきていた問題集を机の上に広げた。

 原付用の問題集は五〇問しかありません。
 とってもかんたんです。

「ほら、ここ。三二問目のやつ」
 淳一は黙読してみた。
《同一方向に進行しながら進路を右に変更するときは、約三秒後にウィンカーを出して合図を出す》
「これさあ、どう考えてもマルだよなあ?」
「バツぅ~っ」
 語尾を上げるイントネーションで、淳一は答えた。
「ええっ、そうかなあ。どう読んでもマルだろ、これ?」
「…………」
「そりゃ、たしかに解答にはバツって書いてあるけどさ」
「…………」
 淳一は問題集の一番最後にある解答ページを見た。「〇×」の答えだけで、正解の文章が記述されていないタイプの問題集だった。
「なんでなんだよ?」
「…………」
「まあ、質問してちゃんと答えられる兄貴なら苦労はねえんだけどな」
 自分で言って自分で納得している弟だ。
「マルだと思うんだけどなあ」

 答えはかんたんです。

「同一方向にぃ~、進行しながら進路を右に変更するときはぁ~、約三秒前にウィンカーを出してぇ~、合図を出すぅ~っ」
 返事をするときと同様、特徴的なイントネーションで淳一は記憶している正解の文章を口にした。文節ごとに言葉を区切って「~」という感じで語尾がのび、そして最後の語尾だけが微妙に上がる。
 そんな淳一の言葉を、健二は軽く聞き流して、
「だろ? 三秒だろ? 全然間違ってないじゃん」とふてくされている。
「バツぅ~っ」
「うーっ、わかんねえ。ミスプリじゃねえのかよ。くそッ、もういいやっ!」
 わざとらしく頭をかきむしりながら、健二は部屋を出て行った。

 約三秒前と約三秒後はちがいます。
 教えてあげたのにわからないのはなぜなのかな?
 健二もお母さんもいなくなりました。
 ぼくの問題集をやります。

 淳一がホッとしたのも束の間、廊下の方から母と弟の声が聞こえてきた。
「なによその問題集は! もう、追い出すなんてウソばっかり。淳一の記憶を利用するのはやめなさい!」
「気にしない気にしない」
「あんたねえ、免許なんかとったって、絶対オートバイなんて買わないからね」
「バイトして買うって言ってるだろ」
「ケータイの通話料はどうするのよ」
「それはそれ」
「だめだめっ! 父さんとも約束したでしょ」
「なんの? そっか、俺にも兄貴みたいに親の都合の約束を押しつけたいんだ」
「高校生でオートバイだなんて、命がいくつあっても足りないの」

 ぼくはオートバイはほしくありません。
 ケータイ電話もほしくありません。
 自動車はあんぜんです。
 エアバッグもついています。

 と、二人の会話をかき消すように、今度は掃除機の音が響きだした。最悪だった。淳一はあわてて、両方の手のひらで両耳をふさいだ。でも、それでも掃除機の音は頭の中に入ってきてしまう。

 ぼくは掃除機はきらいです。
 子どものころからきらいです。
 掃除機の音は頭の中でギザギザします。
 パニックになりそうです。

 そして、掃除機が母親を連れて淳一の部屋に入ってきた。
「お母さん、午後から出かけるの。だから、午前中のうちに家の中の用事を済ませておきたいの。だからガマンするの」
 母の必殺技だった。淳一には「キーン」という金属音だけが大きく強調されてぐるぐる聞こえる。こうなるともう、母の言葉など耳には入ってこない。

 問題集ができません。

 開始から二八分を経過した瞬間を確認して、淳一は腕時計のストップウォッチを止めた。手のひらを耳から放したくないが、少しだけの我慢だ。吸引音と闘いながらも椅子から立ち上がり、壁のフックに引っかけてあるウェストバッグを取った。仕事に行くときはもちろん、出かけるときにはかならず腰につけなければ落ち着かない必需品なのだ。そのバッグの中に、問題集と消しゴムつきのシャープペンシルを突っ込んだ。
 よしやった、と思い、母が掃除機を止めて穏やかな声で言った。
「ほら見て。外はとってもいいお天気よ」
 窓の外の四角い空を、淳一は見上げてみた。

 うそです。
 いい天気ではなく、青い空の天気です。

「お母さん、帰りは六時頃になると思うけど、淳一も六時には帰ってくるのよ。約束できるよね?」
「はい~っ」
「いってらっしゃい」
「いってきますぅ~っ」
 いってらっしゃいと言われたら、いってきますと言う。そう言わないと怒られることを、幼い頃からの繰り返しの経験から学習した淳一だった。
 だめ押しするかのように、瑞江が掃除機のスイッチをもう一度オンにすると、淳一は逃げだすように部屋から出て行った。
 吸引音の中に、玄関ドアの開閉音が聞こえきて、瑞江は長男の外出を確認した。


「ふぅ……」
 ためいきをついてから、瑞江はまたすぐに騒々しい機械音を止めた。そして、あらためて部屋の中を見渡した。 ざっと掃除機をかける以外に、片づけなどする必要はなかった。淳一の整理整頓の確実さは天下一品なのだ。
 本棚の二段目と三段目にずらりとある自動車免許取得のための問題集も、その本の大きさの順番にきちっと分類され、書店の棚よりよっぽどきれいに並んでいる。
「こんなにあってもねえ……」
 できるなら、こんな大量の問題集など捨ててしまいたい。問題集のあいだに女の子の裸の載っている雑誌でもはさまっていてくれた方がうれしいのに。本棚をながめて、瑞江はしみじみそう思う。
「自閉症、かあ……」
 つくづくつぶやいてしまう。母親として、瑞江はいつも淳一のすべてのことをこの言葉に集約してしまう。
 自閉症、かあ……。
 それが癖になってしまっている。
 生まれてから約三年の間は、長男は普通の子どもだった。少し変わっているな、とは思ったけれど。いや、無理やり思おうとしていた気もする。
 言葉を話し始めたのは、次男の方が先だった。ついに逃げ道を失ってしまったような気がして、何日も泣き続けた。
 それから一六年が経った。
 長男のハンディを確信してからずっと、さんざんクヨクヨしてきた。だからもう、できるだけクヨクヨしない。淳一は淳一なりにここまで着実に成長してきてくれたのだ。一人で外出させることを心配しなくてすむようになっただけでも、たいした進歩なのだ。
 でも、それがわかっていても、ついついつぶやいてしまう。自閉症、かあ、と……。
 瑞江はサッシの窓をいきおいよく開けはなった。四階のマンションの室内に、五月の風は遠慮なしに入りこんでくる。
 実は、掃除したいわけでは全然なかった。部屋の中に閉じこもっていた空気を屋外の新鮮な空気と交流させたかっただけなのだ。でないと息苦しくなる。
 あの頃は息苦しかった。長男が幼かった頃の私は、窓という窓を締めきって泣いてばかりいた。
「さあて、あとは健二のやつも追い出して、っと」
 次男の部屋はかなり汚いはずだ。オートバイの雑誌が散乱しているに決まっている。
 まあ、それはそれとして、他に女の子の裸の雑誌など出てこなければいいな、と思い、母親というものは本当に勝手だなあ、と苦笑する瑞江だった。




 ここへくると、やっぱりホッとする……。
 はるか遠く、空と建物の境界線に視線を泳がせながら、明日美は今日もそう思った。
 何を眺めるというわけでもない。けれど、悲しいことや辛いことがあったとき、いつしかこのマンションの屋上に足を運ぶようになっていた。
 最初にここへきたのは、大好きで大好きでたまらない北嶋クンに片想いを告白しようと、このマンションを訪れたときのことだった。
 彼は県大会でいつも優秀な成績を収めている水泳部のエース。日焼けした部員達の中で、一人だけ色白。当然のように美形。おまけに背も高いので、よく目立つ。そんなプールにいる彼を、どのクラブにも所属していなかった明日美は、放課後の校舎の屋上から一人ぼんやり眺めるのを日課にしていた。
 実はクラスメートだった。だから、告白するチャンスはいくらでもあった。だけど、できずにいた。
 彼には友人が多くていつも誰かにそばを囲まれている、というのが、明日美自身の心の中での言い訳だった。
 もうそんな言い訳なんてさせないから! ようやく自分をはげまし、住所録と区分地図を頼りに彼の住むこのマンションまでやってきたのが、高校三年の秋。今から三年半ほど前のこと。
 彼の家は七階。エレベーターを使えば一気にのぼれるのだが、それはやめた。頑張らなければ、という自分の気持ちを両足に託した。自分の靴音を聞きながら、階段をのぼっていく。そして、七階の「北嶋」の表札のある玄関ドアの前にたどり着く。最後の気力をふりしぼる感じでドアホンのボタンを押してみる。
 だけど、不在だった。
 ふーっと気が抜けたような虚脱感の中、そのままあと戻りするのも悔しい気がして、さらに続く階段を機械的にのぼってみた。階段は、最上階のせまい踊り場まできて、行き止まった。
 そこには扉があり、『危険につき関係者以外の外出を禁ず』と書かれた紙がセロハンテープで貼ってあった。が、施錠は壊れていた。それゆえに屋上のエリアには容易に出ることができた。北風のとても強い日だった。そんなことだけをよく覚えている。
 次にここへきたのは、それから一年半後のこと。
 結局、告白することもできないままに高校を卒業し、北嶋クンは地元の国立医科大学へ、明日美は一年の浪人のあと、別のごく平凡な女子大へ進学した。彼と同じ大学に行きたいと思い、頑張って勉強してみたものの、だめだった。彼女にとって、医学部はもちろんのこと、国立の壁はあまりにも高すぎた。
 春になり、女子大に通いはじめると、受験勉強のために忘れていたあの懐かしい想いが新緑の芽のようによみがえってきた。彼への気持ちを引きずり続けている自分がそこにいた。もうとっくに彼女ができているにきまっている。そう思ってあきらめようとしたのだが、気がつけばいつの間にか彼のことを考えている毎日が続いた。
 なんの目的もなく大学に通う日々は苦痛だった。どこかのサークルに入ろうともしてみたのだが、熱中できそうなものは見つからない。授業中は真面目な女子大生を演じているものの、他の時間には異性の話しかしない周囲の女子大生達に幻滅した。何かをしなければ、と自分をふるいたたせて行動したことといえば、せいぜい車の免許をとったぐらいのものだ。
 もう一度、彼のマンションを訪ねてみようか、とも思った。彼に会って、たとえ彼女ができていたとしても、久しぶり、と会話を交わすだけで、今の自分の中途半端な気持ちが晴れて一歩前進できるかも知れない。
 けれどその頃には、彼はもうこのマンションにいなかった……ということを、明日美はあとになってから知った。彼が進学した大学の、医学部の病棟に入院していたらしい。
 高校時代のクラスメートから電話があり、明日美は彼の死を突然に知った。白血病だったそうだ。
 久しぶりに舞いこんできた彼の情報が、通夜と告別式の通知だったことに、明日美の頭の中は真っ白になった。
 不思議と涙は出なかった。悲しいというより、情けなかった。
 彼がかわいそうという気持ちより、自分の中にある心の扉を押し開けないまま今日まできてしまったことへの後悔に、胸が張り裂けそうだった。
 お葬式には行かなかった。別れを伝えるほどに、親しくなんてなれていなかったのだから。
 死んでしまった相手に対して、私はあなたに片思いをしていたんです、なんて心の中でつぶやくことで、自分の気持ちを完結させたくない。それに、きっと彼のひつぎの前では、今つきあっている彼女が号泣していると思う。そんな光景を見ても、しかたない。
 その代わり、明日美は葬式の日、この屋上にきていた。なにを眺めるというわけでもなく、高校の校舎の屋上からプールを眺めている自分を思い出しつつ、遠くに視線を泳がせていた。
 そのときにふと思った。看護士になりたい、と。
 理由を頭の中で整理することは、どうしてもできなかった。
それでも、適当な理由を並べて両親を説得し、女子大は中退した。そして翌春から看護学校に通い直しはじめた。ずっとのばしていたロングヘアーも切った。失恋とは関係ない。ある種の決意だったような気がする。
 あれから何度ここへきただろうか。心が重たくなると必ずくる。今日もそう。どうしよう、という思いが、明日美をここに連れてきた。
 屋上へと通じる扉の施錠は不思議なぐらいにいつも壊れていてくれた。最初は頑丈な鍵がついていたようだが、それを誰かに壊されてからは日曜大工の蝶番と南京錠で誤魔化している、といった感じだ。修理と破壊がくり返されたのか、たくさんのネジ穴がむなしくその形跡を残している。明日美の他にもこの場所を好きな人間がきっといるのだろう。
 しみじみ思う。この屋上は私の心のオアシス……。
 だから、そこへの扉が閉ざされていたら、もっと悲しくなってしまう。
 ほのかな南風が頬をなでる。また伸ばし始めていた中途半端な長さの髪になにかをささやきかけてくる。寒い季節にくることが多かったので、こんなに穏やかな天気ははじめてだ。私の心とのコントラストが強調されてしまうようで、少しつらい。この屋上には北風が似合う。私の心と冷たい風が同化してくれるから。
 ん? 北側の給水塔のようなタンクの陰に誰かいるような?
 あ、やっぱりいる。男の人だ。何をしているんだろう。
 もしかして、私が自殺しようとしているって思ったりするかな。
 ご安心をば。死ぬ気はありません。でも勝手に思われたりしてたらいやだな。
「あのう、私、ここからの景色を見ているのが好きなだけですから」
 言い訳するかのように、明日美は話しかけてみた。だけど、返事は戻ってこなかった。こちらに背中を向けてすわったまま、振り返る素振りすら見せてくれようともしない。
 聞こえなかったのかな?
 本を読んでいるように見える。あるいはノートかなにかにペンを走らせているようにも見える。けっこう若そう、かな。もしかしたら、鍵こわしの名人サンだったりして。だとしたら、かなりうれしい。
「ここの屋上、いいですよねえ」
 ちょっぴり微笑むような感じで、明日美は五月の風に自分の声をのせてみた。本当は他人に声をかけることって苦手なのだけれど、この大切な場所を共有している相手には話しかけないと、かえって失礼のような気もした。
「海とか見えると最高なんでしょうけど。でもそうすると、カップルのデートスポットになっちゃったりするから、よくないか。そうなったら、管理の人がもっと丈夫な鍵をかけちゃうかも知れませんね」
 精一杯言葉を選んでみたつもりだった。そんな言葉の中に、あなたが鍵を壊してくれている恩人ですか? と質問している自分を感じ、明日美はちょっと赤面した。
 彼は……反応してくれない。今度は聞こえていると思うのだけれど。
「あの、もしあなたが鍵こわしの犯人だとしたら、私に感謝させてくださいね」
 今度は単刀直入に言ってみた。恩人ではなく、犯人にしてしまったが。
 それでも反応は……ない。なんとなくおもしろくない。
「ごめんなさい。声なんかかけて」
 いえ、別にいいんですよ。気にしないでください。そのぐらいの言葉でいいから、返して欲しいな。でないと、私が傷つく……。


 マルで正解です。
 今日も一〇〇点です。
 ドライバーをつかうと鍵ははずせます。
 車の運転手もドライバーです。

 閉じた問題集とシャープペンシルをウェストバッグの中に突っ込むと、淳一はすくっと立ち上がった。そしてその場でピョンピョンと飛び跳ねはじめた。全身脱力しての両足跳躍、というふうに。ときどき両手の手首近くの骨をゴンゴンとぶつけ合ってみる。これが気持ちいい。家の中でこれをやるとお母さんに怒られるけど、ここなら大丈夫だ。ピョンピョンしながら考える。問題集の今日の分が終わってしまったから。

 なにをしようかな?

 問題集を探しに電車に乗って行こうかな。相鉄線で横浜まで行って、それから東横線で渋谷まで行って、地下鉄半蔵門線にのって神保町まで行けば古本屋さんがある。作業所のアマノさんが、神保町の古本屋さんによく行くと言ってた。問題集があるかも。それともトヨタとニッサンとマツダと三菱を回って新しい車のカタログをもらってこようかな。買う車はステップワゴンだけど、他の車といろいろ性能を比べなければならないから。

 自動車はパワーよりトルクが大切です。

 予定がなくなると、どうすればいいかかなり困ってしまう。それでときどきジャンプして考える。
 大きくジャンプすると、それまでたてに揺れていた景色がもっと大きくたてに揺れるからおもしろい。立っているだけだと表通りしか見えないけど、ジャンプすると手前の景色が見える。下の駐車場が見えたり見えなくなったりするのは特におもしろい。車の名前はすぐわかる。もっともっと高くジャンプできれば、全部の車がいっぺんに見える。全部の車の名前もいっぺんにわかる。

 空の上までジャンプできないかなあ。

 だから、もっともっとジャンプしてみる。
 と、淳一の目が幸運に輝いた。

 メモをします。

 マンションの入口近くに、グリーンメタリックのステップワゴンを発見したのだ。


  跳躍運動をしていた彼が、いきなりこちらを振り向いた。
 その細面の端正な顔だちに、明日美は思わず息をのんだ。背も高い。といっても、身長一五二センチしかない明日美にしてみれば、たいていの男の人は見上げる位置に顔がある。
 どこか北嶋クンに似ているような気がする。だけど、よく見ると全然似ていないような気もする。彼の顔は、もう明日美の記憶の中から薄れはじめているらしい。色白でもある。死んだ北嶋クンほどではないけれど。
 もしかしたら声をかけてきてくれるかな? という期待は、あっけなく裏切られた。
 たしかに目はこちらを向いている。が、その視線は明日美を素通りしていた。それだけではない。明日美の存在を避けるかのように、わざと弧を描くように遠回りをして歩いていく。
「あの!……」
 それは虚しいだけの呼びかけだった。
 完璧に無視されてしまった。というより、まるで明日美の声がまったく届いていないようにすら感じる。
 死んで魂だけになった主人公が最愛の恋人に声をかけても聞こえなかった、という衛星放送で観た映画のクライマックスシーンをふと思い出した。北嶋クンがそばにきていて、声をかけてくれても私には聞こえないんだ。そんなことを思ったワンシーンだった。
 そしてまもなく、一見して北嶋クン似の彼は、急ぐふうに、かといって走るわけでもなく、階段のある扉の中へ吸いこまれるように消えていった。
 屈辱感が残った。だからって、自殺なんかはしないけれど。
 でも、こういう場合、相手が傷つくってことも少しは考えてくれるべきじゃないかな。私って一体何なの?
 やっぱり天気のいい日にここにくるのはやめよう。明日美はそう思った。


 ステップワゴンの正面で立ち止まると、淳一はウェストバッグからメモ帳を取りだした。表紙にステップワゴンの写真が載っているメモ帳だ。ディーラー店の週末キャンペーンで来客者全員にプレゼントされる景品のひとつで、淳一のお気に入りだった。ページをめくると「横浜」「湘南」「品川」「多摩」などなどの車のナンバープレートの番号がずらりと並んでいる。このすべてが、グリーンメタリックのステップワゴンのナンバーなのだ。
 淳一は、これまでに書き込んだナンバーとダブりがないことを確認し、その一番最後に目の前にあるステップワゴンの横浜ナンバーを書き加えた。

 これで一三八台目です。
 ぜんぶで何台あるのかな。
 ぼくは何台めを買ってもらえるのかな。

 メモ帳をしまうと、代わりにミニカーを取り出した。これはいつもバッグの中に入っている。ミニカーのステップワゴンと本物のステップワゴンを見比べるのが好きなのだ。よく見ると、いろいろ違うところがあっておもしろい。ミニカーにはナンバープレートもついていないし、変速レバーもついていない。床にカーペットも張っていない。


 屋上から降りてきて、明日美は、しまった、と思った。私の車が誰かににらみつけられている。マンションの敷地内なので、警察に駐車違反の罰金を払うことはないだろうが、それでもバツが悪いことだけはたしかだ。
「すみません。その車、すぐ動かしますから」
 あわてて駆け戻った明日美は、その相手が屋上で出会った彼だということに気づき、ちょっと驚いた。と同時に安心もした。よく見ると、すぐ横の掲示板に「不法駐車禁止!」の貼り紙がある。屋上にある貼り紙と筆跡が一緒だ。このマンションの管理人の文字なのかも知れない。

 さっき屋上にいた女の人です。
 この人がステップワゴンのドライバーです。
 声をかけてくる人はやさしい人です。
 ぼくはおしゃべりがにがてです。

 明日美は彼を無視することにした。さっき屋上で無視されたから、そのお返しだ。ロックを外し、早々に運転席へとのぼった。この程度の車高でものぼる感じになってしまう自分の身長がちょっと悲しい。
 すぐにエンジンをかけ、発進しようとして……ハッとした。
 視界の隅の方に映った彼が、明日美を見ていたからだ。さっきまで全然見ようともしてくれなかったくせに。
 まっすぐに見られているかと思うと、今度は自分の方から視線を合わせにくくなってしまう。明日美はそういう性格だった。
 なぜ? なんで私を見ているの?
 横目で見ると、ばっちり視線が合ってしまった。しかたなく明日美は、パワーウィンドウを開けて、言い訳を試みた。
「ほんと、すぐ動かしますから」
「…………」
「駐車禁止なのは知ってました。ごめんなさい」
「…………」
「罰則とかあるんですか?」
「…………」
「ないんですか?」
「…………」
「あの、なにか言ってくれませんか?」
「…………」
 目は合ったものの、今度は何もしゃべってくれないわけ? なんか腹がたつ。
 ん? もしかして耳が聞こえないとか?
 明日美には手話などできない。それでも適当なボディランゲージで意志を伝えようと、「あなたは?」と彼を指差し、それから「耳は?」と自分の耳を指差し、両手でバツのマークをつくって見せた。
「…………」
 なんの反応もない。違うみたいだ。もういいや。
 明日美は視線を車内に戻し、ギアを入れ、パーキングブレーキを外した。 それでも運転席のすぐ横に立つ彼は、こちらから視線を外そうとしてくれない。
 なぜ? 不思議に思う。
 と、それとは関係なく、この人の目って澄んでるな、と明日美は思った。
 そういえば、一度だけ北嶋クンにもそういう目で見つめられたことがあったっけ。
 校舎の屋上からプールの彼を探していたけど、なかなか見つからない。どうしたんだろうと思っていたら、いきなり彼が目の前に現れたのだった。 「いつもここにいるよね。なにが見えるの?」
 風邪でコーチからプールに入るのを禁止されたらしい。あのときの彼の目も澄んでいたっけ。
 もしかすると、あのときが唯一の告白のチャンスだったのかも知れない。あなたをずっと見ていたんです。そう言えればどんなに素敵だったか。
 そう、チャンスはきっと一瞬なのだ。一度逃すと、今度はいつチャンスがくるかはわからない。実際、永遠に失ってしまうこともある。とくに私の場合は……。
 そうだ。目は心の扉、なのだ。淳一の目に、その目だけに明日美は妙に好感が持てた。
「ドライブしません?」
 明日美は唐突に言ってみた。半分、挑発している気分だった。
「…………」
 やはり彼からの返事はかえってこなかった。だけど、そわそわしているようにも見える。
 「そうだ、海、見にいきません?」とだめ押ししてみた。
 高校生の頃は、なにかつらいことがあるたびによく一人で海を見に行ったなあ。それがあの日以来、行き先がこのマンションの屋上に変わってしまったんだっけ……。

 知らない人についていってはいけません。
 この女の人はいい人です。
 ステップワゴンに乗っている人です。
 ぼくは海が見たくなりました。

 何かを確認するかのようにぐるりと車のまわりを一周すると、淳一が助手席のドアを開けて乗り込んできて、シートベルトで自分の体をさっさと固定した。かなり強引な態度に、明日美はちょっと驚いた。
「ふーん……」
 明日美はつぶやいてみた。だけど、それにもまったく反応せず、車内をキラキラした目で見回す淳一だった。

 ショールームのほかでステップワゴンに乗るのははじめてです。
 エンジンのかかったステップワゴンに乗るのははじめてです。
 オドメーターは八六三七キロです。
 トリップメーターは一三四キロです。

 と、淳一が運転席に手をのばしてきた。
「え?」
 明日美が反射的に身をひいた瞬間に、彼の指先によってリセットボタンが押され、トリップメーターの表示が〈〇〇〇キロ〉に戻った。
「…………?」
 わざとらしく首をひねってみせたものの、なんとも感じないらしい。
「別にガソリン代なんか請求しませんから」という皮肉もまったく通用しない。
 やっぱり降りてもらおうかな、と思っていると、彼がラジオのスイッチを入れ、サザンの曲が流れだした。
 ということは、やっぱり海に行けっていうことなのかなあ。
 それにしても、ここまで徹底して無反応を装うなんて、かなりの演技力だと思う。変な人、と思う。
 でも、まあいいか、とも思う。突然襲ってくるようなタイプにはどうしても見えない。どこか幼さが感じられる男の子とでも言えばいいのか。もし弟がいたら、こんな感じなのかも。
 あまり深く考える必要もないような気がして、明日美は車を発進させた。
 マンションの敷地から出て右折すると、まもなくして保土ヶ谷バイパスに出る。その先は横浜横須賀道路。三浦半島方面へのびている有料道路だ。土曜日だし、天気もいいし、多少は渋滞しているかも知れない。けれど、夏でもないし、おそらく一時間もかからないと思う。
 南の空に雲のかたまりが浮かんでいる。あの雲を追いかけていけば、すぐに海がある……。

     

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山下久仁明

ぼくはうみがみたくなりました・その後

「ぼくうみ」の続編を月に1章ペースで配信中です。小説or映画の内容を知らないと何のハナシなんだか解らないかも。(^^;
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