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手放すか、そのまま踏ん張るか選ぶゲーム

本当に大切にしたいものを守るために
本当にやりたいことをやるために
限りある時間を有意義に使うために

一部をごっそり手放すという選択も

全部に意地でもしがみつく選択も

私はどっちもできる。


前者を選ぶ場合、
これだけは手放しでなるものか!を死守するぶん、
何かはがっつり、ごっそり置いていく決断をするイメージ。


後者を選ぶ場合、
全部運ぶけど
やはり、その、一個一個の「精度や純度」的なものは落ちちゃう。

ちょっとこぼれてるなぁ、粗があるな、みたいな(笑)

当たり前だけど、

どっちがいいとか悪いとかないよね。

どっちもありだと思う。


例えば!
小さな例でいくと
家事も仕事も大事!だから
うまいこと時短グッズやレトルトも使いつつやり過ごす、とか

または大きめな例で行くと、
いきなり思わぬ病が見つかったけど、
今のまま日常を変えずにゆったり治療する、とか

そういうものは後者的なチョイスで、

いやいやそんなんじゃまわんねーよ!
一念発起、転職したるで!移住だ!とか
摘出や入院加療的なスタイル決意、とかは前者的チョイス。

ほんと。
どっちが違うとか正解とか、ない。

そう。
人生とは、まさに
正解のない問いに対し、自分なりに選択を下して進むことの連続。

なにをえらんでもいい。どっちも間違いじゃない。

なのに、
私たちはなぜ、選択することに対しこうも恐れ、悩むのか。

それは、
「欲」があるから。

そして、その欲は時に「執着」という姿で
私達の動きを、かなりのろ〜くする。

こっちを選んだほうが、
「お金が手に入る」のでは
「タイムロスにならずに済む」のでは
「母親として、社会人として誠実」では
とか。

これって、裏に、
「損したくない」「道を外れたことをしたくない」
「なりたい自分になりたい」という欲・執着が隠れてるのかしら。
さらに深ぼると
◯お金や時間を無駄にしてはいけない
◯「嫌なやつ」になった自分は好きじゃないな

が根底にあるんだと気付く。


欲って、決して悪いものじゃない。
執着も、信念とだいぶ紙一重だよね。

主体性や自己実現の源泉みたいなもので、
「意欲」とか言うじゃない。

でも、なぜなのか

私達が、生きるとき、えらぶとき、
執着というかたちでたちまち縛ってしまう、「欲」。
よっくん、とでも呼んでやろうか。(笑)

よっくんは私を度々翻弄させる。


大丈夫だよ、どっちを選んでも間違いじゃないよ。よっくんのせいで謎の不自由感に苛まれたり、「自分って間違えたまま走ってる?」と不安になったりするけど、それも含めて
人生なんだ。
人生は、ゲームなんだ。
自分で自由に、シナリオを描けるゲームだ。

どのゲームに参加しようか?
ルールはとうしようか?

それやっぱり辞めるね、
楽しいな〜怖いな〜
ドキドキだな〜

意味わかんない、
嫌い!バカ!
疲れた!
幸せ!


あらゆる感情も、出来事も、
全部全部含めて、ゲームなんだ。

私たちは
ゲームを楽しむために
人間として地球で生きることを選んでいる。


今日も、ゲームのつづきが、
始まる。

ゲームを味わい尽くせ。私。



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