見出し画像

「こなす」から「味わう」へ

まだまだ続く、新しい職場ネタ。

採用されたばかりの頃、とても気の合う同期の男の子がいました。
おっとりしていて、やさしくて、よく気の回る子で。
一緒にいるとホッとするような素朴な温かみがあって、話がいつまでも尽きなくて。

残念ながら、彼が、あっという間に別の人と結婚してしまったこともあって、それこそ20年以上もコンタクトを取っていなかったのですが、なんと、4月から同じ課で仕事をすることになり。

とてもうれしく思った反面、ひさしぶり過ぎて、なんだか照れ臭いなぁと思っていたのですが、いざ顔を合わせてみたら、各々相応に老けてはしまいましたが(笑)、当時の気のいい彼のままで、ものすごくほっこりした気持ちになりました。

彼は、今の課にすでに何年か在籍しているので、おそらく来年は異動してしまうと思われ、また、件の上司も、来年には中枢の部署に引き抜かれてしまうのではないかと思われ、そうすると、この一年は、ものすごく貴重な一年になるなと。
もちろん、できれば、この幸せな時間を失いたくないなぁとは思いますが、失うことを嘆くよりも、貴重な今このときを大切に過ごすことに専念しようと思えるほどには大人になれたかなと。

消去法で、なし崩し的に今の仕事を選んだ私にとって、「仕事をする」ということは、ずっと、単に「こなす」ということでしかなかったんですよね。

やらなくてはいけないことを、ただ黙々と必死に片付けて、ひとつが終わったら次、またひとつが終わったらその次と、椀子そば的に次々とやってくる仕事を、淡々とさばき続けるという、その繰り返し。

やりたくもないことを、自分に無理やりやらせるわけなので、そのひとつひとつに思い入れなどあるはずもなく、ただ、完璧主義なので、やるからにはきっちりやりたいという意識はあって、それなりに手応えがあった仕事もありましたし、人からありがたがられたり、認められたりもしましたので、その意味では、何かしら意義はあったと思うのですが、それでも、終わった仕事、その仕事にかけた時間や空間、関わった人たちは、その瞬間、特に記憶に留めておく価値のないものと化して、跡形もなく頭の中から消え去っていくのでした。

かなり長い間、「明日は辞めてやる!」と思いながら、無理やり体を引きずるようにして出勤していましたし、そこまではいかなくなった近年でさえ、毎朝、どこか自分の気持ちをマヒさせながら出勤していたように思います。

それが、ウソみたいに恵まれた職場に流れ着き、かつ、その環境が長くは続かないであろうことが予想される今、日一日、一分一秒、一瞬一瞬を、ただもう丁寧に、しっかりと味わおうと、日々意識するようになったんですよね。

職場にいる時間を丁寧に味わおうとするなんてことが、この自分の身に起こるとは、人生何があるかわかりません(笑)

今の自分の幸せをかみしめること、今自分がいる場所で過ごす時間を大切に思うこと、これほどの贅沢があるだろうかと思いながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?