伊藤三代記 ―花競戸隠誉― ②

篤太郎飛翔す

伊藤篤太郎は、伊藤圭介の弟子で医師の中野延吉と圭介の五女・小春との間に生まれる。6歳のとき名古屋から祖父の圭介の許に移り、植物学の英才教育を受け、亡くなった謙の遺した未知の植物を特定する研究を圭介の後見の許に続けた。

明治16(1883)年、17歳のとき、未知の植物が【Berberidaceae】[=メギ科]の【Podophyllum】[=ミヤオソウ属]の新種であると考えた篤太郎は、ロシアの植物学者・マキシモヴィッチへ英文の手紙と共に、植物標本を送り届けた。欧米において、東洋、特に日本の植物については、滞在歴もあり、標本も多く所蔵し、続々と新種の発表を行っているマキシモヴィッチが大家であり、また日本においても、我が国の植物に造詣の深い博士として大いに頼るべき存在であった。

マキシモヴィッチは、これが篤太郎のいうように新種であると鑑定を下し、1886(明治19)年『サンクト・ペテルブルク帝国科学院生物学会雑誌』に未知の植物に【Podophyllum japonicum Itô ex Maxim.】と学名をつけて発表した。これにより、未知の植物は学名を得て、和名も「トガクシソウ」して定着するはずであった。

矢田部博士巡回す

ロシアで「トガクシソウ」に学名がつけられる少し前、未知の植物として研究を続けるもう一人の学者がいた。矢田部良吉。東京大学植物学教室の教授であり、小石川植物園担当(東京大学に移管されたのちの小石川植物園で園長的存在。後年園長が置かれる。)を務める植物学者である。

この未知の植物を矢田部がいつ、どこではじめて知ったのはよく分からない。だが、担当をしていた小石川植物園では、伊藤謙が採取してきた生体から種が取られ、生育されており、矢田部ら植物学教室では度々ここで植物採集を行っているので、未知の植物を目にしている可能性はある。また、矢田部は明治17年7月5日から8月2日までの間、長野、新潟、富山、石川の各県を巡る植物採集に向かっている。その中で長野県は戸隠山系高妻山を訪ね、7月11日に未知の植物を採取することに成功し、さらにこれを小石川植物園に持ち込むと生育を試みている。

繰り返すが矢田部が「未知の植物」の存在をどこで知ったかは分からない。植物採集に高妻山に偶然向かって、そこで偶然に「未知の植物」に「はじめて」出会ったのかもしれない。とにかく、この植物は小石川植物園に移植され、2年の後に花を咲かせ、標本にされてのち、明治20年にマキシモヴィッチの許に鑑定のために送り届けられた。

続きはまた後日。

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