「まっさん」で知られる竹鶴政孝の生家がある町=竹原@広島県東部

画像1 10年ほど前、呉で日曜日に仕事があった時に、前から行きたかった竹原に前日入りして寄ったことがありました。その後、「まっさん」ブームでニッカ創業者の竹鶴政孝が話題になり、その生家があることでも知られるようになりました。ちなみに写真の左側の建物が、その竹鶴酒造。竹原へは、広島空港から乗り合いジャンボタクシー1000円が一番便利です。http://takehara.info/an-taxi/
画像2 上の写真の突き当りにある笠井家の二階からの眺めです。安芸の小京都というコピーが竹原にはついてますが、どうも小京都という言葉には少し抵抗があります。本来のその土地の歴史や個性をマスキングしてしまうような気がしています。とはいえ、小京都ということで、古い建物が残っている町なんだなということは伝えられます。
画像3 竹原は製塩業で江戸後期に豊かになった町です。竹鶴邸向かいの松坂邸。塩田経営や廻船業などで財を築いた豪商の住宅。
画像4 広壮な敷地、繊細な屋敷のディテール、それらが、その富を象徴しています。
画像5 土間と台所に、まだ生活感が残っているのが、素敵です。
画像6 松坂邸の屋根の曲線美も、やはり財力がないとできないこだわり。屋根の向こうに西方寺の普明閣が見えます。
画像7 懸け造の普明閣からは、竹原の街が一望できます。瓦屋根の連続が美しいです。
画像8 普明閣から階段をおりて、街へ戻ります。ここの階段は、大林宣彦監督の映画「時をかける少女」のロケ地として有名です。
画像9 「まっさん」「時をかける少女」やそのほかアニメの聖地巡礼などで語られることの多い竹原ですが、忘れてはならないのは頼家。写真は、頼惟清宅。
画像10 頼家は紺屋を営んでいたそうですが、頼惟清の孫=頼山陽は、江戸後期を代表する知の巨人というべき人であり、司馬遷にならって「日本外史」を著し、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を残しました。書の巨人でもあり、日本各地に頼山陽の筆跡の石碑があります。昔から誰やねんそれ、ってよく思ってましたが。頼山陽のような知の巨人を生み出すには、やはり竹原のような塩田での富の蓄積が必要なのかもしれませんね。
画像11 日本画家・安田靫彦の絵に「鴨川夜情」という絵があります。(伊豆市蔵)頼山陽と田能村竹田・青木木米が鴨川で夕涼みをするさま。新井旅館のとこで触れた館主沐芳に送った絵で、文化人の心の交流への憧れを自分たちの交流に重ねたものと思います。そのくらい頼山陽は、人気のある文化人だったんですね。
画像12 叔父・頼春風の旧宅=春風館と復古館。こちらは現在もお住まいになられているので非公開ですが、重文です。
画像13 塩田経営で生まれた江戸期の街が、鉄道の発達とともに取り残され、結果歴史的な風景として観光資源となっている、そんな街でした。この当時は宿泊施設はありませんでしたが、今は塩田経営者=浜旦那の屋敷をホテルにした施設もあるそうです。https://www.nipponia-takehara.com/
画像14 宿泊施設があまりなかったあの日は呉に近づくために、実は竹原港から船で大崎下島の御手洗へ。これはまたの機会に。

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