強さとは何か(電王戦リベンジマッチ)

  2014年最後の日、今年も電王戦リベンジマッチが行われた。今回はこれまでとは少し異なるルールによって、ベテラン森下九段がツツカナと戦った。
 森下九段はタイトル戦に何度も登場しA級にも在籍していた一流棋士だが、現在はトップ戦線にいるとは言えない。将棋ソフトがトッププロに迫っていると言われている現状では、森下九段の苦戦は電王戦本選の時から予想されていたと思う。
 とはいえ前回の団体戦における対局も、森下九段に十分チャンスのある内容だった。非常に細かいやり取りがあった後、端に香車を成った手が悪手となった。取られそうな香車を相手玉近くの金にするので、十分理屈は通った手だと思ったが、その局面においてはさほど利いていなかったようである。終盤に近づいてくると、ソフトは正確に「見切って」くる。
 しかし、負けても森下九段は手ごたえを感じたようで、もう少し考える時間があり、考えるための盤駒があれば勝機は十分あると発言した。プロ棋士の対局としては考えられない形式であり、負け惜しみと感じた人もいるかもしれない。ただ私は、実現すればかなり面白い「実験」になると考えた。そしてドワンゴのフットワークは軽く、その対局は実現することになった。

 何度か触れているが、電王戦を見ると総合格闘技を思い出す。そこでも「誰が強いのか」がよく議論されていたが、試合をしたからと言って結論が出るかというと、そうではなかった。たとえばある時期のセーム・シュルトは寝技ありのルールではそこそこ負けたが、立ち技の大会では圧倒的な強さを見せていた。果たしてシュルトは「強い」のか。
 また、プロレスラーについてもよく議論になっていた。プロレスラーは総合格闘技のリングで負けることが多く、「実は弱かった」と思われてしまうことが多かった。しかしプロレスラーは普段技を受けるプロでもあり、ある程度魅せることを前提として試合をしているのであり、「そのための強さ」を磨いているともいえる。総合格闘家がプロレスのリングに上がって、淡々と技をかけて勝つ試合は非常につまらなかったりする。また、技を受けようとして受け身を失敗し、大けがをすることもある。当たり前だが、プロレスラーは、プロレスのリングでは強いのだ。
 ファン同士が白熱すると、ストリートファイトでは○○が強いだとか、こっそり反則するのは××が強いはずだとか、議論は決着するはずのないところまで行ってしまう。その一方で実際の総合格闘技のリングでは話題先行で「明らかに強くない」選手が出ていたりして、誰が強いかの議論は迷走を続けるしかない状況になり、そうこうしているうちにブームが過ぎてしまった。

 実は問題は「誰が」ではなく「強い」の方なのである。私たちは人それぞれ主観的な「強い」を考えているのに、言葉にすると同じ「強い」になってしまうために、同じことについて考えていると勘違いしてしまうのだ。たとえ結果の出る格闘技の試合であっても、ルールが違えば全く結果が変わる。だから「○○と××、どちらが強いのか」という漠然とした問いは、強いという概念をきちんと規定するか、「ある特定のルールにおいては」という限定を追加しなければ答えられないのである。
 微妙なルールの違いでも、結果が大きく変わることがある。ひじ打ちの有無、グローブの規定やブレイクのタイミングなど、実に様々なことが結果に影響する。少しでもルールが異なれば、強いと思われている人がコロッと負けることも普通にあるのである。

 私たちは今将棋において「人間とソフト、どちらが強いのか」という問いを立てている。しかし、「強いとは何か」という問いはスルーしてしまいがちである。たとえば1手1秒というルールならソフトの圧勝だろう。10秒でもかなり有利なはずである。しかし、そういうルールで対戦してほしいという声は聞かない。人間同士でもあまり行われない形式だし、それをもってソフトが「強い」というのは無理があると感じるためだろう。
 だが、きちんと決められたルールのもとに行われる以上、「10秒将棋で圧勝するならソフトはトッププロより強いのではないか」という問いに完全に反論するのは難しい。そこで量られるのもやはり「強さ」であることには違いないのである。私たちは「普段プロの対局で行われるようなルールで」強さが比べられるべきだ、という先入観にとらわれている。とはいえ、そのプロの対局も棋戦によってルールがまちまちだ。そしてルールによって、棋士にも得意不得意がある。タイトル保持者と早指し棋戦優勝者、「どちらが強いのか」という問いに答えるのも難しい。しかし私たちはどこかで、長時間の棋戦の方が実力が反映されやすいとも思っているようである。

 ソフトと対戦するようになる前から将棋における「強さとは何か」の問題はあったはずだが、人間とは異質な強さを持つ将棋ソフトにプロが負けるという事実を経て、ますますこの問題は重要になったのではないか。そして勝ち負けではなく「強さ」の問題を真剣に考え、一つの仮説をはっきりと口にしたのが森下九段だった、と私は感じた。将棋ソフトは確かにこれまで人間が行ってきたようなルールでは、プロに勝つことができるようになった。しかしその強さの本質は、計算の速度であり、疲労しないことであり、考えようによっては眠気も尿意もないことである。読みの深さや質といった、私たちが特に興味のある「強さ」に関しては、まだプロ棋士の方が優れている……そう考える人がいても、何ら不思議ではないのだ。

 そして実際の対局で、森下九段は自らの仮説に追い風となるような「強さ」をみせた。ほぼ互角の中盤から徐々に優位を広げ、逆転は難しいと思われるところまで差を広げた。残念ながら対局は一時中断することになってしまったが、問い自体の有意義さは示せたと思う。人間とソフトのどちらが強いかはわからないが、十分な時間と読みを確認するための盤駒があれば、「読み」においてはまだまだ人間の方が強いかもしれないのである。
 そしてこの対局は、人間同士の対局にも問いを投げかけている。終盤秒読みになることにより、指し手の質はぐんと落ちているかもしれないのである。プロの対局に限らない。アマチュアの対局でも、せめてNHK杯のように一分単位で数回の考慮時間があれば、結果が変わる対戦は何万とあるだろう。私たちが知ることができるのは、ある特定のルールの下で行われる対局の結果に過ぎず、将棋における可能性のほんの一部でしかないかもしれないのだ。
 とはいえ、私たちには時間上の制約がある。体力的な時間制限、運営上の時間制限、そして観衆の時間制限。時間をかければよい指し手が導けるといっても、今回まさにそうだったように、いつ終わるかわからない中で対局を続けていくのは難しい。今回のリベンジマッチのようなルールは、そんなに頻繁に試すことはできないだろう。それだけに、大変貴重な「実験」であった。
 「強いとは何か」という哲学的問いは、考えることはできても結論は出せないだろう。さらに「人間対ソフト」という時の「人間」という概念すら問題になる時が来るかもしれない。たとえばプロ棋士には勝てないがソフト相手には異様に強いアマが出てきたら? 脳にコンピューターが埋め込まれた人が登場したら? 将棋が強くなるように遺伝子操作された人間が誕生したら? 
 私たちが知ることができるのは、特定のルール下でどのような結果が出るか、ということだけである。そして結局のところ、実現可能なもののうち、「どのようなルールで」「誰と誰の」対局を見たいか、というところが重要になってくるのだろうと思う。現在はたまたま人間とソフトの強さが拮抗しているように感じる時代で、強さを考えること自体が楽しいのだといえる。しかし私たちはすでに、ただ強いだけではない点に将棋の魅力があることも知っている。日々トップ同士以外の対局に一喜一憂している。
 弱いと言われたプロレスが生き残り、総合格闘技は大きな団体が相次いで消え、現在大変苦戦している。「強さ」に対する問いは大変魅力的だが、真剣に問えば問うほど答えがわからないことが浮き彫りとなり、それだけでは人々を魅了し続けるのは無理になってしまう。「どの強さ」を見せるのかを決められた者たちだけが、人々から興味を持ってもらえるのだ。


 単なる「強さ」で人々を惹きつけられる瞬間は非常に貴重で、その瞬間のうちに新たなルールでの対局を実現させたことは大変意味のあることだったと思うのである。しかし実際今回中断せざるを得なかったように、現状でも少し無理のあるルールだったようである。様々な強さの可能性がありながらも、私たちはそのほとんどを見ることができない。私たちは今回のことから、「あきらめざるを得ないこと」を知ることができたのではないだろうか。
 答えの出ない問いにも魅力はある。いつまでも問い続けることができるのだ。将棋における「強さとは何か」という問い、それは問いを楽しみ続けられる人のものとなっていくだろう。そして将棋ソフトの進歩は多くのヒントを与えてくれており、問い自体が同じところをぐるぐるとまわり続けるとは限らない。問いの難しさを知ったとたんに、問いの楽しみ方も広がっていく。
 ちなみに私が知りたいのは、「阿部・豊島vsソフト、どこまで人間勝てるか」である。対戦相手や持ち時間の条件を変えて、ソフトに勝利した棋士たちがどこまで勝てるのかを知ることにより、人間とソフトの力関係も今よりはっきりしてくるはずである。研究者視点としては非常に気になるのだが、興業的にはうまみがないので実現することはないだろう。仕方がないので私は結局、哲学的な「強さ」について考えるのである。

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