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命日に亡き人を偲ぶ!後水尾天皇

 今日(8/19)は後水尾天皇の命日。延宝8(1680)年、85歳。

江戸前期に江戸幕府と渡り合った気骨のある天皇で、文化的才能も持ち合わせており、多くの子を産んで長寿を全うした。

仙洞御所、円通寺(幡枝御所)、修学院離宮、閑臥庵、霊鑑寺など、ゆかりの地も多数。二条城にも行幸した。

<以下補足>
 後陽成天皇の第3皇子であり、その時代は徳川家の支配する江戸時代に入ったばかりでした。時代を安定させるべく天皇のもとには2代将軍徳川秀忠の娘である和子が入内することとなり、公武の融和が図られました。
 しかし徳川家は朝廷に対して、資金面では援助は惜しまなかったものの、政策面では禁中並公家諸法度を制定して皇室の政治的な権力奪い去り、幕府の管理下に置くことを基本方針としました。気性の激しい天皇はこれをよしとせず、高僧に朝廷から最高位の紫衣を与えることを制限された「紫衣事件」に至っては、怒り心頭のあまり明正天皇に譲位して抗議を行いました。
 
 しかし一方では幕府の財源を贅沢に使って幡枝御所(現在の圓通寺)や修学院離宮を造営し、その美のセンスを惜しみなく注ぎこんで理想の庭園を現出させました。仙洞御所も当初の小堀遠州が手掛けた庭園を自ら指示して大幅に改修しています。

圓通寺の庭園は、比叡山が見事な借景となっている

 さらに造園のみならず、和歌書道など幅広いジャンルに興味を示し、特に「立て花」に関しては2代目池坊専好を用いて華道として昇華させました。こういった文化的活動の陰には自らも美のセンスを持っていた妻である徳川和子(東福門院)の理解と援助があり、2人は寛永文化サロンの中心的存在となりました。
 その後も、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇と長きに渡って院政を行って85歳の長寿で崩御し、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られました。


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