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鎌倉殿の13人で注目!「源頼家」の命日にちなんで

今日はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で話題の源頼家の命日。元久元(1204)年、享年23。ドラマでは金子大地さんの迫真の演技で、今までなんとなく姿が浮かび上がりにくかった頼家の実像が見えてきた。

18歳で偉大な父頼朝から将軍職を継ぐが、たった3カ月で13人の合議制へ。これは独裁政治を行った頼家の横暴を押さえようとしたにしては、早すぎる処置。おそらく将軍の負担軽減、将軍の役割をサポートする意味合いが強かったのだろう。

もうひとつは比企一族の問題。頼家の嫡子である一幡は、比企一族の若狭局が生んだ男子であり、このまま成長して一幡が三代将軍となれば、外戚関係を築いた比企一族の天下になることは明白。頼家や弟の実朝が将軍であれば、外戚の位置にいれた北条氏にとって、一幡への将軍継承は何としても避けたかった。

大河ドラマでは頼家と比企一族の関係か必ずしも蜜月ではないところが面白い。むしろ比企一族にとって頼家は早く引退させたい将軍であったため、頼家には味方がいなかった。

誰かも支持されない頼家は、最終的には比企一族が滅んだ直後、北条氏側から排斥され、伊豆の修禅寺に幽閉、暗殺されたと考えられる。幕府の正史である『吾妻鏡』では、頼家の死は簡潔に伝えられているだけであり、暗殺の記載はない。

興味深いのは、同じ伊豆にある光照寺に、頼家の腫れあがった病相の面が、伝わっているということ。これは風呂に漆を混ぜられたために身体が腫れあがった頼家が、その惨状を母である政子に伝えんがために、制作させて送ったと伝わる。しかし、その途中、頼家の死が報告され、病相の面はその役割を果たすことができず、寺に伝えられたという。

光照寺パンフレットより

史実としてはあまりにも不憫な感じがする頼家だが、大河ドラマでは、どのような演出がされるのが楽しみに待ちたい。

ちなみに頼家と京都との関りで話すと、京都五山の一角を占める建仁寺の開基となっている。禅宗に帰依していたと考えられ、建仁寺開山の栄西は頼家から信頼されていたはず。頼家の非業の死を栄西は京都で知り、どのように感じただろううか。

建仁寺の法堂(江戸中期再建)


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