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9/25は慈円の命日、その生涯とは。

 京都観光において慈円が出てる箇所といえば、まずは青蓮院。こちらの三代目住持であり、この時に青蓮院が最盛期を迎えている。そのため宸殿にも元三大師とともに慈円が祀られている。慈円は天台座主を4回も務めている宗教界の実力者。その生涯は以下の通りとなる。

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 五摂家の名門九条家に生まれた慈円は、永万元(1165)年、11歳で延暦寺に入り、青蓮院門跡の覚快(かくかい)法親王の弟子となった。13歳で出家し、道快(どうかい)と称して密教を学び、兄の九条兼実が源頼朝の推薦で後鳥羽天皇の摂政になると37歳にして延暦寺の座主に就任した。

 その後は、源頼朝とも親交を結んで、仏教界や及び政界に確固たる地位を築いた。慈円の目指したのは祈祷による天下万民の安寧であり、自身がその後30年にも渡る祈祷を中心とした生涯を送っている。その際、吉水を拠点としていたため吉水僧正とも呼ばれた。


おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつ杣(そま)に 墨染の袖
                        前大僧正慈円(95番)

 一方で、上記の百人一首に歌が採用されていように、歌人としても才能を発揮し、家集『拾玉集(しゅうぎょくしゅう)』だけでも6000首以上、『新古今和歌集』には現存歌人として最高の92首がとられている。このように同じく和歌を愛した後鳥羽上皇とはお互いがその才を認め合う仲であったものの、幕府を転覆せんとする後鳥羽上皇の考え方には西園寺公経らとともに異を唱えており、名著『愚管抄』(※)もそれを諌めるために書かれたとされている。
 また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で、法然上人や弟子の親鸞聖人を保護もし、親鸞聖人は治承5(1181)年に9歳の時に慈円について得度を受けている。このように、自らの「道理」に基づいて行動した慈円は、安易に時流に流さることなく自分自身の存在感を存分に発揮してこの時代を生き抜いたと評価できる。

(※)『愚管抄』
慈円の代表的著作で、歴史書としても日本文学を代表する名作。神武天皇から順徳天皇までの歴史を、貴族の時代から武士の時代への転換と捕らえ、末法思想と「道理」の理念とに基づいて、仮名文で述べたもの。慈円は朝廷側の一員であるにもかかわらず、源頼朝の政治を道理にかなっていると評価する一方で、摂関家の一員として身内の争いを批判したり、異母兄弟となる近衛家の非難を行うなど、その立場に基づいた意見も見られる。

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