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ワーキングマザーという呪縛からの解放

働く母をワーキングマザーというのなら、働く父はワーキングファーザー。
「ワーママ」はよく目にするけれども、「ワーパパ」は耳慣れない。
感覚的なものだが、ワーキングマザーが特別な響きを持つのは、「子育て=母の仕事」という暗黙の了解がこれまでの日本のあたりまえだったからかと思う。
私自身、働く母だ。
自分のことを「ワーママです。」というのは居心地が悪い。
その一言で自分自身を定義づけできるとは到底思えないからだ。
母であることも含めて、私は私でしかない。
産後、社会復帰してもうすぐ10年。
今、一日一日がけっこう、楽しい。
そうなれたのは「ワーキングマザーの呪縛」が解かれたからだと思う。
経験をもとに、呪縛とそこからの解放について考えてみた。
以前の私のように、呪縛に憑りつかれて迷っている人の気づきになればうれしい。

ワーキングマザーという呪縛からの解放もくじ
1. 「~なければならない。」ことはない。
2. 「かわいそう。」って、誰が?
3. その人生は誰の人生か?
4. 呪縛からの解放

1. 「~なければならない。」ことはない。

我が家には現在、小学5年生の息子と小学3年生の娘がいる。
娘が1歳になるタイミングで社会復帰。
社会復帰するきっかけの話は次の機会にするとして、3歳と1歳というハンドリングできるはずのない幼子を預けての社会復帰は、想像を絶していた!

・入社1か月もしないうちに娘が何度も発熱(なぜ?!)
・これまで風邪ひとつひかなかった息子が風邪を連発(なぜなの?!)
・予防接種受けたのに、インフルエンザ(しかも二人同時ではなく時間差)
・予防接種受けたのに、水ぼうそう、おたふく(なぜなんだ?!)
・夕方帰宅してからのふたりのグズグズがカオス

ここに記載したことは、ほんの一部。
一ヵ月の半分くらいしか出社できない月もあった…(遠い目…)。

子どもたちの看病をしながら、
「なんでなんでなんでなんで…」を何億回も繰り返した記憶がある。
ずっと頭の片隅で仕事のことが気になって、体調を崩した子どもを恨めしいい目で見てしまう瞬間もあった。
トイレはドア開けっぱなしが当たり前(姿が見えなくて泣くから)。
子ども二人をお風呂に入れるのは滝修行。
ゆっくり寝たい、ゆっくりお風呂に入りたい、ゆっくり映画観たい、ゆっくり読書したい。

喉元を過ぎた今、その時の自分に言ってやりたい。
「仕事なんて、ちょっと休んだくらいでどうにでもなるわ!」
「後でその経験は人生のネタになるわ!」

仕事は自分でなくては、と思っていても、案外どうにかなるものだ。
自分だけがこんな思いを…と悲観的になるかもしれないが
幼子を抱えていれば、もれなく、そんな状態だ。
「旦那は知らん顔で仕事かよ…」と思う気持ちもわかる。
でも、母だから、と子どもを逃げ道にできるのはワーママの特権でもある。
都合のいいときだけ「母」や「子ども」を理由にしている自分がいないか、振り返ってみるといいと思う。

「母だから、子どもの看病をしなければならない」
「母だから、子どものしつけを、教育をしっかりしなくてはならない」
「母だから、いつも家族のためにおいしい手作り料理を作らなくてはならない」
そんなの、ただの呪縛だ。
本質的なところは、自分がいい母と思われたい、とか、母とはこうあるべきだ、という気持ちから生まれる考えなんじゃないかと思っている。
看病をすることも、子どもの教育について悩むことも、手作り料理にこだわることも、全部、自分が選んでやっている。
私の場合は、子どもの体調不良時は休む。学校行事は参加する。子どもが会社に行きたいと言えば連れて行って仕事する。というなんとなくの自分のルールがある。
やりたくなければ、やらなければいい。
やらずに済むにはどうすればいいのか、考えればいい。

私は下の娘が小学生に上がったタイミングで転職をした。
それまではワーママの呪縛に憑りつかれていたと思う。
転職がきっかけで、自分の考えも行動も変化した。
転職先は恵まれた環境で、子どもの行事で自由に休めるし、子どもを連れて出勤もできる。
なんなら、PCを使う仕事のため、リモートで自宅作業だってできる。
そういう職場を選択した。
帰りが遅い日も多いため、スーパーの総菜を買って帰っても、子どもとラーメンを食べて帰っても自分を責めないことに決めた。
主人にも宣言した。
これは、転職先での仕事がおもしろく、やりたいことをあきらめないための一つの選択だ。
宣言してしまったら、誰も文句は言わなかったし、むしろ子どもなんて喜んでいる。これまでの私の行動は自己満足だったのかも、と思い知った。
もともと、料理は好きだから、休日の時間に追われないときに楽しんでいる。
「しなくてはならない。」から解放されてから、イライラしなくなったし、家族との関係も良好になった。

2. 「かわいそう」って、誰が?

仕事をはじめたとき、実家の母から
「子どもたちがかわいそうや。」と事あるごとに言われた。
初めは、そうなのかも…と自分を責めることもあった。
でも、子どもだって、子ども自身の人生を生きている。
私の人生とは全く別の道。
保育園で友達を作り、先生たちにとってもかわいがってもらって、子どもなりの社会を形成している。
仕事で子どもとの距離ができたことによって、子どもとの時間をずっと大切に感じるようになった。
子どもの成長に気づくようになった。
外ではがんばっているから、家では甘えたいんだ、という気持ちがすごくわかるようになった。

母が働くと子どもがかわいそう、という考えもワーママの呪縛だと思う。
私は今、自分のやりたいことに没頭している。
その没頭していることを子どもにも話す。
どんな仕事をしているのか、何を楽しいと感じているのか、率直に話す。
落ち込むことがあったら、そのことを子どもに話す。
我が家の子どもたちは、そんな私のことを応援してくれるし励ましてくれる。
子どもは時にドキリとするような本質を突いてくることがある。
彼らから学ぶことはとても多い。
さみしい、思いをさせてしまうことはあるかもしれない。
その分、「今、さみしいんだな」と気付けるように、いつもアンテナを張っている。
気づいたときはすりすりと寄っていくし、あなたのことを大切に想っている、ということを伝えている。
長男に怒られなければいいが、毎日必ず小学5年の息子と小学3年の娘の背中をすりすりしながら寝付くまでの間、ぼそぼそと話を聞いたり、クイズを出したりしている。
彼らは自分たちのことを、かわいそう、だなんて思っているだろうか。
きちんと向き合う時間さえ作ることができれば、大丈夫だと信じている。

3. その人生は誰の人生か

私は子どものことをすごく大切に想っている。子どものためなら死んでもいいとさえ思っている。
きっと、親というのはそういう気持ちでいるのだと思う。
でも、子どもたちを目の届くところにおいて「守らなくては」とか、道を踏み外さないように「注意しなくては」とか、そういう気持ちはあまりない。
先にも少し触れたが、彼らは彼らの人生を、自分の足で歩いている。
失敗も挫折も経験したほうがいいし、そこから這い上がる気力を持っていてほしい。
本当に助けが必要なときには、手を差し伸べられるように準備だけはしておく。
学校の勉強はできなくても気にしない。(もちろん、できたほうが選択肢が広がる話はしているし、真面目なので、彼らは意外とちゃんとやっている。)
ひとつでいいので、何かに熱中していてほしい。
今、息子はゲームに夢中だが、私はそれを止めたりしない。
読書に夢中になるのはよくて、ゲームに夢中になるのはいけない、理由がわからない。
止めない代わりに、めちゃくちゃアウトプットしてもらっている。
聞いても全くわからないのだけど、彼はおしゃべり名人なので、放っておいたら、いつまででも話している。
そのときに私は質問も投げかける。
わからないことがあると、スマホで調べたりしている。現代っ子だ。
彼は目をキラキラさせてゲームの話をしている。
きっと、彼は今人生を謳歌しているのだと思う。
娘は娘で誰にも何にも縛られることなく、うらやましいくらい自由人だ。
彼らが謳歌している人生の今の一瞬を、私の一声で中断させたくはない。
私は私のやりたいことをやっているんだから。
一緒に遊ぶときは真剣に遊ぶし、そうでないときはそれぞれの時間を尊重する。
家族だって、一人一人自分の人生を生きてると思う。

4.呪縛からの解放

私は長男が生まれてから、3歳になるまで専業主婦だった。
実家がTHE昭和な家庭だったため、結婚したら、専業主婦になるものだと思っていた。実際、そうしたかった。
主人は「お殿様」で、お米のありかもしらなければ、洗濯は勝手に出来上がってタンスにおさまっていると思っていたと思う。
私が働き始めてからも、主人の生活は何一つ変わらない。
彼の生活を変えてはいけない、と思っていた。
ワーママの呪縛。

10年以上毎日続けたお弁当作りを半年前に辞めた。
毎日、1時2時に就寝、5時半に起床してのお弁当作り。
これが恐ろしく負担だった。
寝坊して作れない日なんて、「ごめんね、ごめんね」だ。
私が悪いことしたのだろうか。
それが負担なら、辞めたらいいだけだ。
好きなことを気持ちよくやるだけでいい。

やらない宣言。
子どもにもやらない宣言。
時間割は見ない。(授業の内容はいちいち聞く。結構おもしろそうなことをやっている。)
出さないプリントは見ない。(見たら、何かしらの感想を伝える。)
帰宅が遅くなったら無理してごはんをつくらない。(冬なんて鍋、鍋、鍋、ラーメン、鍋だ。)
お弁当は無理してつくらない。(できるときは作ってもいい。)
宣言しただけで、心がすっきりした。
誰も困らなかった。
主人が掃除や洗濯を手伝ってくれるようになった。
もしかしたら、彼は少し無理をしているかもしれない。
でも、絶対に「ありがとう」だけは伝える。
(私は掃除や洗濯をしてお礼を言われたことは一度もない!)
愛情を前提にすれば、どうにでもなるものだ。

宣言をしたら、「やらない」分、自分の人生を謳歌するためのパワーにする。
「好きなことだけやる=わがままを押し通す」というのとは違う。
お互いを尊重して認め合いましょうよ、というスタンス。
誰かが何かを一方的に犠牲にする、ということのないように。
たぶん、このスタンスがないと結局、夫婦であれ、親子であれ、関係性がこじれてしまうような気がする。
まずは自分が生き生きといられるように。案外うまくまわる。
ワーママの呪縛は簡単に解ける。
自分の決断と行動だけあればいい。
「いい母」なんて、誰が決める?
私は子どもたちに
「知ってるお母さんの中でうちのお母さんがいちばん、おもしろい」
と言われるだけで心がうきうきする。
子どもたちがありのままの私を母と認めてくれているだけで、十分、母をしていると思うようにしている。
これから先、子どもの成長とともに子育ての悩みが変わってくるだろう。
まだ子育て歴11年の私には、見えていないこともあるだろう。
心配をしていても何か変わるわけではない。
そんなことより、今、今日一日を濃密に過ごしたい。

人との比較なんて捨てて、ワーママの呪縛から解放されよう。
自分のアイデンティティは母であること?
そんなことないと思う。
固定観念から抜け出して広い世界をみたら、人生がもっと彩にあふれるはずだ。
世界は広い。可能性はどこにだってある。

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