見出し画像

自分のしていることを
一つ一つ精査して
優先順位をつけるというか、
その是非を検討していくのは、
結構面白い作業です。

予定や行動の断捨離、という感じ。

これは慣れていないと
心が引き裂かれるような
気分になるかもしれません。

だけど、その先にあるものが
わかっているなら、
なかなか面白い作業になります。

そして、そんな季節がまた来たか、、と。
そういうのってタイミングがあるんです。

ちなみに断捨離するなら
ボスキャラからじゃなくて
周りの雑魚から少しずつするべきです。

結構みんな、
ボスから行っちゃって撃沈します。

心が引き裂かれちゃうのです。

それは、物やことを
自分と同じものと思っているからです。
それらは本当は自分とは関係ありません。

ものはもの、ことはこと、
自分は自分、です。

アイデンティティという言葉に
騙されているだけです。

今日は断捨離について、書いてみます。

ゴミの気持ち

断捨離するなら、
まずはゴミから、です。

いわゆる雑魚キャラです。

周りを見渡して、
ゴミがあれば捨てます。

それだけです。

普通なら、心が痛むことも
そんなにないでしょう。

だけど、、

問題は、
なぜ、それはそこにあったのか、
ということ。

ペン立てにずっといたインクの出ないペンとか、
賞味期限の切れすぎたアレコレとか、
壊れて動かない電化製品とか。

なぜ、捨てずにとっておいたのでしょうか。

インクが出なかったら捨てる、のが普通だと思いますが
なぜかペン立てに戻すこと、ありませんか。

それってなぜでしょうか。

* * * * *

実は僕、
昔はそういうタイプでした。

インクが出なくても、
なんとなく、もったいない気がして
捨てられなかったのです。

なんとなく、もったいない、、
と思う気持ち。
そんな心の内に思いを馳せて掘り下げたら、
どんなものが出てきたと思いますか。

僕はインクの出ないペンを、
何かに使えるような気がしていたのです。
いや、そういう希望を持っていたのです。

表向きに、パッと思うのは
そんなところでしょう。

でも本当は、
僕のペンコレクションの一部として、
それは僕の人生の戦利品であって、
自分がこんなにたくさんのものを持っていることを証明するために、
たくさんのものを持っている自分の大きさを誇示したいがために、
そうでもしないと生きていけないと思い込んでいる自分のために、
「僕は」それを必要だと思っていたのです。

たかがペンごときで、、

ペン立てはパンパンで
使いにくい状態だったでしょう。
だけど、それを捨てるのは
心が痛むような感じがしたのです。

なぜなのか

なぜ、そこにそれを安置していたのか、
を考えることが重要です。

それを安置していたのは
紛れもなく、自分だからです。

自分に聞くしかありません。

自分に聞いて、
自分で決めるんです。

誰かに、こういう基準で捨てなさい、とか
教えてもらうんじゃないのです。

自分で考えるんです。
それを所有するメリットやデメリットを考えて、
自分で決めるんです。

* * * * *

断捨離はずっと触れなかった、
思考の柔らかいところに手を入れていく作業です。

今まで考えもせず
無意識にしていたことを
一つ一つ丹念に掘り返して
目の前にさらけ出して
日の目を浴びさせます。

それをモノの数だけ、繰り返します。

それはザ・修行。
ただの修行です。

インクの出ないペン1本に
思いを馳せるのです。
ペン1本に大袈裟なと思うでしょうが、
よくよく周りを見渡せば、
人生は万事がそうなっているのです。

雑魚から徹底的に

家中の雑魚を一通り片付けたら
かなりスッキリしているはずです。

家の中も、心の中も。

周りにあるモノを通じて
自身の心、思考のあり方に
アクセスするからです。

モノと心がイコールであること、
その理解に少しずつ近づいていきます。

モノをそこに置いていたのは自分であって、
そこには自分の考え方があるのです。

モノが勝手に歩いてきて
そこにドッカと市民権を得たわけではありません。

誰かがそこに置いたのです。

それはなぜか、ということです。

そこに自身の思考があります。

思考なく、モノはありません。

モノもコトも同じ

モノに対しての徹底的な修行を続けるうちに
関心は、自然とコトに移っていきます。

コトとは、形のないモノ、です。

例えば、人間関係。
スケジュールや自分のルール、
生き方そのもの。

これらはボスキャラですから、
断捨離初心者は目に入ったとしても
なんかいるな〜〜くらいに思って、
関わらずにそっとしといたほうがいいです。

関わると撃沈します。
返り討ちに合います。

それらは強敵なのです。

雑魚を倒して倒して倒しまくって
こちらのレベルを上げておかないと
太刀打ちできません。

修行を重ねて経験値を積んで
レベルアップを繰り返して
ボスに挑むんです。

中途半端に臨めば、返り討ちに合うでしょう。
必要のない、奇妙なアイデンティティ
(断捨離は役に立たないとか、自分にはできない、
他人からのアドバイスは要らない、、などなどの
思い込み、自分の中の常識・普通)を
また一つ取り込むことになります。

必要なアイデンティティは必要ですが、
不必要なアイデンティティは不必要です。

不必要なアイデンティティを持ち続けることは
人生に影響を与えます。

そして、それをいつか
断捨離する時が来るでしょう。

それだったら初めから
拾わなければよかった、のかもしれません。

管理されること

ものを捨てる基準を教えて欲しい、
と考える人もいます。

ほとんどの片付け術は
ご希望通り、そういうことを教えてくれます。

捨てるか捨てないかの基準を
自分の外に求める、ということです。

例えば、、
ときめくか、ときめかないかで
決めてください、
みたいな基準を誰かからもらうのです。

それが悪いとは言いません。

だけど、それだと
自身の思考の柔らかい部分には
触れられません。

生活はスッキリするでしょうが、
人生の方向がガラリと変わることはないでしょう。

せいぜい運が良くなるとか、
そういう感じです。

人生が向かう先は
あんまり変わらないのです。

運が良くなるって言われて、
それって本当に必要なの?
って考えられるようになるのが断捨離です。

運が良くなることを
不必要とは言っていません。

それを「自分で」考えるのです。

自分で考えて考えて考えて、、

自分にとって必要なものは必要だし、
不必要なものは不必要ってことです。

そして、自分で決めることは
誰かに管理してもらうことから
脱却するということです。

逆に、必要かどうかを、誰かに決めてもらう。
それは依存であり、
自分の幸せを他人に決めてもらうという不幸、
かもしれません。

社会が変わるとき

世間ではまだ、
誰かに管理してもらいたい人が
多いです。

そうじゃないと
不安で生きていけないのです。

こんなふうに生きていくべきです、
と言われて
それに沿って生きるのです。

常識に生きる、普通の人です。

それが悪いわけではありません。

だけど、、

イナコメにも書いたような
未来の社会では、
そういう人は少数派になります。

自分で決める人が
少しずつ増えて、
社会は未来になります。

逆に言うならば、
一人一人が自立して思考できないのなら
管理社会が終わることはありません。

人々がそれを望むから、
それはそこにあるのです。

それは一人一人の思考と繋がっています。

まだまだ変わりそうにない

世界が変わらない、と
僕が感じるのはそういうことです。

政治や大きな出来事で
世界は変わりません。

一人一人の生き方でしか、
世界は変わらないのです。

ずいぶん大袈裟な話、
と思うかもしれませんが
僕にとっての断捨離とは
そういう教えなのです。


↑ むらも農園の本。Kindle Unlimited でも読めます。


↑ noteに掲載されない記事もこちらで読めます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?