マヌエラ 真夜中の妄想〜黒髪の少女

少女はただ、そこに佇んでいた…
何をするでも無く…立っていた。
声を掛けるべきか?素知らぬ振りで通り過ぎるべきなのか妙子は迷っていた。

少女に見える娘の何が不安を与えて来るのかは分からない。何があっても可怪しく無いのがこの上海だから…自分の身は自分で護るしか無い。それには他人には極力関わらないコトだとこの数ヶ月で学んだ。目の前に立つ少女に危険を感じると言うよりも障らずにいるべきかもしれないと思ってしまったのだ。

「ニーハオ」
黒髪の少女に中国人と思ったのか…いつの間にか傍に居たリューバが声を掛けた。
少女は振り返らない。自分に声を掛けたと思わなかったのか?言葉が分からなかったのか?
「ハロー」
英語かしら?と妙子も声を掛けてみるが無反応。
もしかして聴こえていないのかも?二人で顔を見合わせて少女の目の前に廻った。
豊かなブルネットに透き通る様なアイスブルーの瞳をもった少女は白人で…恐らくはロシア人と思われた。「ズドラーストヴィチェ(こんにちは)」と声を掛けた。リューバのロシア語に反応した様に表情が動いた。
「どうしたの?道に迷ってしまったのかしら?」
優しく問い掛けられて辺りを見廻していた。 
「分からない…気が付いたらここに…」
見渡す限り連れは見当たらなかったので店まで連れて行ってみようと言う事になった。

水を飲ませようと差し出したコップに顔を見詰め返し、恐る恐る手を伸ばした。やはり何か訳ありのようだ。連れて来てはみたものの…どうしようかと迷っていた。
ギュウギュウで寝起きしている裏の小屋にはもう余分に寝られる場所は残っていなかった。そもそも、この少女と関わった事で何か巻き込まれるのも困る。さりとて見るからに異国の少女をそのままには出来なかった。
考え倦ねていると開店準備にみんなが集まりだした。「どうしたの?」「何処の娘?」口々に尋ねてくる。
「店の近くで立ってたの」それ以外に分からないので答えようも無かった。

ガヤガヤと皆で話していると突然ピアノの音がしてきた。
最近では弾く者もいなくなってホコリを被っていた壁際のピアノを少女が叩いていた。一音一音確かめるように。
「弾いてみる?」そう言いながら椅子を持って来て座らせた。
リューバの顔を見上げて嬉しそうに微笑んだ。
弾く者の居ないピアノは所々音が鳴らない鍵盤があったけれど、それを感じさせない軽やかさでリズムを奏でた。まるでピアノを生業としてる大人のように見事な弾きっぷりだった。皆も思わず踊りだしていた。
はしゃぎながらもモップ掛けしたり開店準備も忘れていない所は感心する。

出会った時はあんなに無表情だった娘が驚くほど生き生きとしていた。
ピアノが突然止んだと思ったら支配人が入って来た。私たちでさえ気付かなかった気配をこの少女は察したのだ。
「一体何の騒ぎなの?この子はだぁれ?」
「誰なのかは分からないけど・・・抜群に腕の良いピアノ弾きみたい」
「なんですって!判らないってどういうこと?」
嘘を付いても仕方がないので小一時間ほどの経緯を説明した。
「オーナーにはリューバの知り合いが頼って来たってことで口添えしてあげるから、少し様子を見ましょ!こんな娘を追い出すのは後味悪いし・・変な奴に捕まるのも可哀そうだからね」と誰にともなくウインクした。
「ありがとう!」支配人の言葉に一番喜んだのはリューバだった。
「そのかわりタダで居させてはやらないよ!直してあげるからピアノを弾くんだよ!働いてね」支配人の言葉をリューバが通訳して聞かせていた。
「さあ!さあ!大人たちはもうじき働く時間だよ!用意はいいかい?」パンパンと手を打ち話しは終わりとその場を締めた。


オーナーの了承も得てピアノの調律も出来て店のレイアウトも変わった。背後に人の気配を感じると緊張することが分かったので客が通れない配置にしてくれた。カウンターの側だったので自然と妙子の定位置になった。

どんな環境で過ごして来たのか・・・陽気なスイングジャズやクラシックまで色んなアレンジのピアノを奏でた。話すことは少ないけれど少しづつ打ち解けて来ているのは感じた。ロシア語で会話の出来るリューバとは話が出来ていると思いたいな。彼女の抱える何かが少しでも軽くなれば、思い出せない過去が思い出したく無いものでなければ良いのにと願わずにいられなかった。このブルーバードから飛び立って欲しい。
なぜ上海に来たのか理由は分からなくても、これからの彼女の未来が広がってるんだと思いたかった。この戦争は永遠ではないのだから生き抜いて欲しいと縁ある人たち一人ひとりに感じていた。フロアのボーイもダンサー仲間もこの素性の分からないピアノを弾く少女も…みんなが夢をみる事の出来る世界になるべきなのよ!男たちのワガママ勝手に戦争をおこされて自由が失くなるなんて許さない。
わたしは、わたしが踊りたい様に踊るのよ!
誰にも押し着せさせられない、心は自由。
今は我慢をしなければ生きていけないけれど、自由を手に入れる為に生き抜くんだ。
その為に、わたしは上海に来た。
狭く息苦しい、他人の物差しで測られてばかりで個を認めない日本を飛び出せるなら誰でも良かったのだと今ならわかる。キッカケが欲しかったわたしに、あの男が近付いて来ただけのこと。上海だけでは終わらない…もっと自由に踊れる場所が在るハズだから。今はお金の為、生きる為に踊らなければイケないけれど…踊る為に踊る!心のままに舞う!
この名前も忘れた少女だって、ここからまた始まるんだ。この娘がひとりで歩きだせるように手を差し伸べられるぐらいの自分で居なきゃ!

必要なのは浮ついた甘い夢じゃなくて…自分で立つ為のハッキリとした夢だから。現実を否定する夢じゃなくて実現するための夢なのよ。

そろそろ…そんな出会いが待ってるような気がする。次のステージへの出会いを誘う誰かが、わたしを待っている。気付かずにすれ違ってしまわない様に前を見るんだ。チャンスの神様には前髪しか無いって誰かが言ってたよね?心の目を開いて見逃さない様に…

誰にだって幸せになる権利がある。
リューバば愛する人と幸せになりたいと…ツラい経験をして来たからこその願いがある。
わたしにとっては自由に踊ること。
ブルネットの少女にとっては何が幸せなのかは知らないけれど…いつか見付けられると良いな…
忘れる程の現実なら思い出さない方が幸せなのかもしれない…思い出した方が幸せになれるのなら、いつか思い出せる日が来るはずだから…。


さぁ!陽も落ちた、上海の夜が始まる。
今夜も酒と踊りに酔いしれよう…
ブルーバードの花が開く!

Welcome to シャンハイ!!




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