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マヌエラ

少しだけ冷静に語れる様になったので『マヌエラ』について振り返ってみたいと思います。

映像でも本でも無心で見るので、初見は何も考えずにただ『マヌエラ』と言う作品の世界観にのめり込んで観ました。
引き込まれるように画面に釘付けになりながらも、喉の渇きを覚えてはグラスに手を伸ばし気がつくとワインを1本空けてました(笑)
上海のフランス租界で彷徨っていたのか?舞台中に引き込まれていたのか…何とも不思議な感覚でした。
歴史の時間に習った以外はドラマや映画でしか縁の無い世界。特に興味を持たなければ知らない事の方が多い…というよりも殆ど無知だと言える。戦後の世代で身内や知り合いに満洲や上海から引き揚げた人などが居なかったと言うのもあるかもしれない。
配信を観る少し前cs放送で『さよなら李香蘭』を視聴していたので、おぼろげな学生時代の歴史的な記憶をもとに時代背景に想いを巡らせながら二度目の視聴を始めました。今度は手にペンを持ちメモを取りながら…数回視聴を重ねるうちに印象や感想が変わっていくのか興味があったから。

映像を期待しなかったわけでは無かったけれども(カメラ収録が有った事を知っていたから)それこそ何かキッカケが無ければ公開はされないだろうと半ば諦めていた中での配信の発表だったので、映像だけでなく仕事中でもスマホで再生しながらラジオの様に台詞や音楽を聴いて脳内再生を味わっていました。
一日中何度も…何度も…繰り返し身体に浸み込ませるように。
一回一回がこれが最後かもしれないと思いながら聞き込んでいたのです。

魔都上海の人々

降るように鳴り響く軍靴は、まるでマーチのよう。
轟く爆撃音と共に始まるプロローグ…
身をくゆらせながら踊り子たちが指を鳴らし、階段を降りあの頃の上海を呼び寄せるかの如く妖しく舞う。
司会者がカチリと時計を鳴らし今宵も愛と欲望と狂気に血塗られた幕が上がるのです。

真っ白い海軍の軍服に身を包んだ和田中尉は妙子にとって【日本国】の象徴。まさに権力を笠に着る軍人そのもので国家権力と言う後ろ盾の前で胡坐をかいているとしか思っていない忌み嫌う対象だったのだろう。支配人に軍部の接待を言い付けられて「軍人なんて大嫌い!」と言い返す妙子の目の前に突然現れたように立つ和田を「フン」と侮蔑と共に無視。
プライドの権化である和田にとっては到底許されない態度だが、相手にするなと連れの村岡に諭される。相手にするなと言われると逆に気になって見てしまう…と言う展開が普通に楽しい。この出会い方で無かったらこの二人は惹かれ合う事にならないだろうな?と思わせるエピソードだと思いました。

ダンサー仲間のロシア人リューバはロシア革命により国を追われて上海へ流れてきた元貴族の娘。ロシア語で”愛”を意味する名前で彼女の語る愛は純粋で辛い現実に身を置いて来たゆえの『無垢の愛』。
家族を失くし故郷を追われ信じるモノは運命の人との出会いとそれを貫く愛…それを支えに夢見る姿は現実的な妙子にとっても夢の様な存在だったと思う。リューバの為に信じてあげたい…叶えてあげたい…自分には見る事の出来ない夢を願う彼女は愛しい存在。その想いが150万元のチップをも振る舞ってしまう姿に込められている。

元ムーラン・ルージュのスターであり振付師のパスコラはユダヤ人でナチスドイツの迫害とフランスでの恋人のエピソードは上海の現実ともリンクする関係で革命に身を投じている恋人チェンの心を重くする材料だ。パスコラのチェンへの愛情は見返りを求めない…捧げる愛情で『無償の愛』だと思う。

中国人ダンサーのチェンは、世界中に狙われて自分の国でありながら祖国と言えないもどかしさと虐げられる者の哀しさや苦しみ『祖国への愛』と『自由への渇望』を訴える存在。その彼が叫ぶ『ダンス ダンス ダンス』と言う言葉は様々な場面での想いを乗せて皆が口々に叫ぶ…そこには言葉では言い尽くせない想いが込められている。

和田中尉村岡部長の関係はその時代に生きた男たちの表裏のように感じた。
諜報員として敵味方に通じるうちに闇に陥ってしまった村岡は阿片と策略に塗れた上海の抱える闇の一部として描かれていた。戦争がもたらした狂気。
和田や杜月笙と交わされる村岡の言葉は当時の狂った世界がリアルに伝わって来た。

チンパン(青幇)の首領杜月笙については伝わるエピソードが妙子との会話の中で語られている。
杜月笙は気の強い妙子がお気に入りのようで、まんざらでもなさそうな妙子の様子に和田が最初からヤキモチを隠そうとしてないと言うか…和田が自覚してない感じの3人のやり取りが面白い。杜月笙のチップに張り合って、負けん気で150万元の小切手を叩きつけるなんて子どもの喧嘩か?って思ってしまうぐらい可愛いのである(笑)
「アヘンの売人で人殺し…」なんて言うくらいの恐い人物の杜月笙と妙子の最初の出会いがどんな反応を経ての関係なのかがとても気になってしまうのは私だけでは無いと思います(笑)

夢と現実の狭間の世界

時に仲間のダンサーとして…時に物語の傍観者として…作品の背景の様に存在し、命あるモノとしてこの世界の中と外を行き来する。舞台を彩る音楽と共にまるで空気の様に自然でありながらも喜怒哀楽を表す登場人物のひとりにもなる上海の化身たち…それが五人のダンサー。
それぞれのダンサーたちの四肢に括り付けられた赤いロープはいろんな縛めが込められていると云う。
それよりもロープの色が赤だった事で『赤い糸』を連想してしまった。そもそも『赤い紐』の話しが中国から日本に来て『赤い糸』になったという記述を読んだ。『赤』という色は血の色と云う事もあって運命的な意味合いで使われる事が多い。
血が流れると言う意味では生命を感じさせ、血が流れた…となれば死をイメージさせる。
革命家を表現する時にアカと呼ぶし…ロシアや中国にとっても意味の在る色だ。
黒い衣装に映えるからだけで選ばれた色では無いのは確かだろう。そして、それは四肢だけでは無く色んな小物にさえ括り付けられている…グラスや椅子といった物にも。
足枷となるものであり…絆となるものの様にも感じていた。

日本…中国…ロシア…フランス…それぞれの人物たちが抱える苦悩が表す戦争がもたらす悲惨さ。
ほんの1世紀前に現実に起こっていた事実は決して他人事などでは無い身近に起こり得る悲惨な現実で、実際にニュースで目にする事もあるリアルなのだと云うことを胸に刻まなければいけないと思わずにいられなかった。悲惨な現実の中でも、クスリと笑わせる日常も確かに存在していて…現実に立ち向かいながら生きていた名もなき人たちこそが本当は歴史の主人公だったのかもしれないな。歴史の中に埋もれた人たちこそが歴史を作って来たんだと思った。実際に居た人物の物語だからこそ語られる事も無い物語が潜んでいるのだろう…リューバとボリスの様に互いだけを見詰め合い未来を夢見た恋人たち。パスコラとチェンの様にお互いを想う余りに夢と現実に弄ばれた恋人たち。あの時代にはたくさんのリューバやチェンが存在していたのだから…

男たちの身勝手な独裁欲に振り回された戦争の結末は知るところだが、小さな島国の日本が巨大な世界を相手に起こした悲劇はどんなカタチであれ忘れてはいけない。

ラストにマヌエラが踊る姿は奪われてしまった生命と未来への夢や希望、恋人たちへのレクイエムの様に優しく心に沁み渡りました。
最後まで完全な踊りを舞えなかったマヌエラの魂に捧げるような微笑みは、どんなにツラい世の中でも忘れてはいけない慈母の心だと思います。


想いが詰まり過ぎて、どういう風に表現すれば伝わるのだろうか?と自問を繰り返しながら書き始めて2週間も掛かってしまいました。
映像ではない…生の感情を舞台から受け取りたい。
いつか…劇場でめぐり逢いたい。再演と云う可能性が未来にあるのならば次はこの目で確かめたい…そんな舞台だったと思いました。


『マヌエラ』に捧げる
2023.3.29


拙い文章への共感やサポートありがとうございますm(_ _)m