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解読 ボウヤ書店の使命 ㉚-4

長編小説『ポワゾン☆アフロディテ№X』の読み直し続き。

《第一章
 
 4 三日間の出来事

 三人でレアマの外に出た時には、もう日が暮れかけていた。その界隈には似たような古着屋や、狭い隙間を利用したカフェなどがひしめいて、特に中華蕎麦屋は人気があるのか、スマートフォンを持った若者たちが列を作って楽しそうに話をしながら入店を待っていた。
「そう言えば、まるみさんがグリーンとラーメンを好きだと思っている人は、知合いの中にいた?」
 一之介は日記のことを思い出した。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、私の事グリーンとラーメンを好きだと思っていたみたい。友人たちは私の好みなんて、そんなこと考えたこともなかったみたいだけど」
 金指まるみが仕方なさそうに微笑みを作って見せた。柔和な諦めの空気が身体中を覆う。私の好みなんてと捨て鉢な言い方をしたのが弱く心臓に堪えた。
「従兄弟なんかはどう?」
 一之介は努めて明るさを装った。こんな時に重要なのは、あまり深刻にならないことだ。
「友人たちと同じで、私の好みなんて知らないって」
 知らないと言ったのなら、まだ救われる気がする。間違えたまま確信しているよりはいい。
「おじいちゃんやおばあちゃんの方は、どうしてまるみさんがグリーンとラーメンを好きだと信じていたのかな」
「父や母がそう言ったからだそうです」
 浅田刑事も一之介も、そっか、と言って少し黙る。しばらく、三人とも沈黙したままで歩いた。
 親という生き物はひとたび我が子の好みをこうだと強く思い込むと、未来永劫そのままだと信じて、成長したら変化もするのだとは考えないのかもしれない。一之介の亡くなった母親も、ひとたび一之介がマチ子と恋仲だと思い込んだら最後、どう否定しても受け入れようとしなかった。
「それが、なんだか妙なんだけど、親たちが言い張るのを見ていると、私はやっぱり、昔はグリーンとラーメンが好きだったような気もしてきて、今、少し混乱してる」
 まるみは目を大きく開いて前方を見ていた。初めて彼女と会った時にも見せた、目前の世界が信じられないとでも言いたそうな、あの表情だ。
「グリーンとラーメンが好きだったって、過去形で? それとも現在形で?」
 浅田刑事がまるみをちらっと見た。
「現在形ではないです。グリーンもラーメンも今ではどちらかと言えば好きじゃない。好きじゃないというか、ほとんど選ばない。でも、ずっと前は、好きだったのかもしれない」
「どうしてそう思うの?」
「この前、私はそんなの好きでもなんでもないって言ったら、お母さんが、絶対そうじゃない、あなたはグリーンとラーメンが好きだとずっと言ってたのよって、ちょっと泣きそうにまでなって、ヒステリックに言うから。そんなに言うのだったら、そんな気もするって感じ。いっそ、そうだったことにしておけば問題がないかなとも思う」
 こんなにまるみが大変な目に合っているというのに、親の方が取り乱したのか。
「もともと押しの強いお母さんなの?」
 あまり質問攻めにしてはいけないと思いつつ聞いてしまう。
「他の人を親にもったことがないから比較することはできないけど、押しが強い方に入るのかも。これまでは、親って、そういうものなのかと思ってきたけど」
 まるみはまた、仕方なさそうに笑った。その瞬間は、誰よりも年上の人のように見えた。
「あの日記らしきものが書いてあるノートを、やっぱり、実はまるみさん自身が書いたかもしれないという思いは?」
 一之介はそう言ってしまった後、浅田刑事をちらっと見る。捜査に深入りし過ぎたかと思ったが、浅田刑事は、親指を立てて、いい質問だねと言いたげな仕草をした。
「それは全くないです。高校を卒業してから手書きの文字なんてほとんど書かなかった」
「じゃあ、やっぱりあれは間違いなく、誰か別の人が書いたんだ。まるみさんじゃない、誰か」
 そう言った後、ふっと金木犀の香りがして、強烈にもの悲しい気持ちに襲われた。探したが、金木犀の木はどこにも見当たらない。塀で隠されたどこかの住宅か公園の樹木に、あの小さなオレンジ色の花が密集しながら咲いて、葉の中に埋もれながらも強く香りを放ったのか。湿った夕方の風に乗って、とうとうここまで届いたのだろうか。
 香りは記憶の中の時間へと直結している。その出来事が事実であろうとなかろうと、記憶の中に折りたたまれた感覚はいつまでも存在し、香りはそれをポインターの明かりのごとく指し示す。香りによって探し出されたその感覚は、記憶が楽しかったものであろうが辛かったものであろうが、どこか純粋な悲しさを呼び起こす。決してもう二度と、あの時間には届かないという悲しみ。
 まるみはどうだろう。事故のようにさやかと過ごした数週間も、それより前の家族との時間も、誰からも同意されない、決して確証のとれないあやふやな記憶になっている。その言いようのない悲しさが、ふいに香った金木犀のおかげでより一層純化され、一之介の心の中にまで忍び込んできた。まるみが知っている過去のどこをとっても、まるごと共有している人は誰もいない。唯一、克明に過去を書き記している日記ですら、まるみ以外の誰かが書いたものなのだ。
「あの日、レアマを出て、バイト先にスマホを取りに戻って、スマホに充電したのは、あのコンビニです。そして、あの駐車場で再びさやかと遭遇した」
 まるみは薄墨色に沈んだ歩道の曲がり角を指した。点々と街灯が並んだ先に、店の灯りがある。
「行ってみようか」
 その地点に立ってみたい。
「いいね、行ってみよう」
 浅田刑事も同意する。
 金指まるみが突然異世界へとワープしてしまったという点に向かった。
 看板の真新しいローソンだった。駅から近いわりには繁華街の裏手にあるせいか、広々とした駐車場がある。グレーのミニバン一台とバイク二台が停まっていた。
「こんなところにローソンがあったかな」
 浅田刑事が言うと、まるみは「ありましたよ」と言う。
「新しそうに見えるけどね」
「酒屋だった気がするけど」
「ずっと前から、ローソンですよ。私はセブンで働いてるけど、帰りに時々ここにも来る。前にも話したけど、ここはスマホの充電ができるから」
 まるみは入口前に立ててある旗の傍に立った。旗には新メニューであるおにぎりの写真が印刷されて、ゆるい風にはためいている。
「ちょうどこの位置です。ここで私は充電を済ませたスマホの中身を確認しました。そしたら『スマートフォン、あってよかったね さやか』とラインに流れてきて。めまいがして、その後は、すっかり金指まるみであることを忘れて、前に話したように、さやかと一緒に知らない町を歩いていました。異次元じゃなくって、異世界って言うのでしたか」
 まるみは思いつめたような表情をしている。「そして、戻ってきたのもここ。呆然とここに立っていたら、レアマの人たちがいた」
「レアマの人たちって、具体的に誰? さっき会った人たち?」
 浅田刑事が再び緻密な捜査をする人になる。
「いいえ。いつもはそれほど話をしない人たち。イベントでライン交換したことがあるけど、推しているものが違うからあまり話をしない。よく考えてみれば、本名もわからないかも。もうラインも消えちゃったかな」
「向こうはまるみさんのことを知っていたのでしたよね。まるみさんが居たと言って、スマホで写真を撮ってラインに流したんでしょ?」
 仲良くしている人たちの行動としてはいささか不謹慎だ。
「そうです。そのラインで、私が行方不明になっていたことを知ったって、さっきのエレンちゃんたちが連絡をくれました」
「レアマで本当に親しくしている人たちの方は、まるみさんが行方不明になっていることを知らなかったの?」
「そうみたい。そんなに長い期間、私、いなくなっていたわけでもないし」
「確かに。数週間いないだけで行方不明だと断定する方が変だからね。逆に、ここでまるみさんを発見した人たちは、どうしてまるみさんが行方不明になっていたと思ったのだろうか」
「そう言えば、そうですね」
 まるみは首を傾げた。「ここで会った瞬間に、ああ、いた、まるみさんがいた、行方不明から戻ってきたって、みんなが私を指して言ったんだった」
「その点はあやしいな」
 浅田が一之介に同意を求めた。
「その点はあやしいなというか、最早、何もかもあやしいのだけれど」
 三人はしばらく黙って駅の方に向かった。
 もうすっかり日が落ちて、電柱の影はほとんどアスファルトに溶けている。ちょうど分かれ道まで来たところで、浅田刑事が金指まるみを家に送っていくことになり、
「でも、まだ話があるから、後で八田さんの事務所に寄る」
 一之介の耳元で囁いた。

 小一時間ほどして、浅田刑事は一之介の事務所に戻ってきた。
「日記の指紋のことだけどね、話そうかどうか迷っていたんだけど、」
 途中で買ったという焼肉弁当の包みを開き、パチンと割り箸を割った。「昨日、まるみさんがいない時間帯に家の中の指紋を採取させて貰ったら、どうにもおかしなことがあった。ない。まるみさんの指紋が、ない」
 そう言った後、浅田刑事は口いっぱいにご飯を頬張り、喉に詰まらせそうになって、一之介が淹れたお茶を慌てて飲んだ。
「ノートに付着していた指紋の方ではなく、まるみさんの指紋の方が、ということでしょうか。毎日家で生活しているのにも関わらず?」
 一之介も焼肉弁当の相伴に預かることになり、蓋を開けてすぐに紅ショウガを箸で摘まんで口に放り込んだ。
「今現在、日常生活をしているところにはもちろんある。そこではなくて、指紋の存在しないのは物置の方」
「物置には何が?」
「ランドセルとか高校の制服とか鞄とか、教科書とか夏休みの工作」
「まるみさんの?」
「まるみさんのというか、弟さんと、二人のものだと、お母さんは仰った」
「思い出の品を捨てられないご両親だということか」
 一之介には子供がいないのでそれほど深く理解はできないが、もしも住居にある程度の広さがあれば、思い出の品はなんでも取っておきたいものなのかもしれない。まるみが本当はグリーンもラーメンも好きではなかったと言うとヒステリーを起こしたくらいだから、子供やその思い出に対する執着心は人一倍強いのだろう。
「しかしだ。思い出の品はあるのだけど、まるみさんの指紋はない」
 浅田は箸を置いて腕組みをし、悩まし気に天井を睨んだ。
「どういうこと?」
「そもそもは、あの日記に付着している指紋の主を特定しようと思って採取の許可を貰ったのだけど――」
「たとえば、高校二年の教科書にあの指紋が着いていれば、日記を書いたのが高校二年の時の友人ではないかと考えられるからですね」
 一之介が言うと、浅田は頷き、話を続けた。
「あのノートに付いている指紋はお母さんのものでもないし、お父さんのものでもない。弟のものでもないのだから、何かひとつでも他のものに付いていれば、そこから、誰がまるみさんになりすまして日記を書いたかの手がかりが得られる。明確にわからなかったとしても、まるみさんに関係している誰かがなりすまして書いたのだろうということだけでも、はっきりするだろう?」
 一之介は、なるほど、と相槌を打った。 
「ところが、物置に仕舞ってあったまるみの私物からは、むしろ、あの日記に付着しているものと同じ指紋が山のように採取できた。まるみの指紋はひとつもなかった。弟の過去の私物にも、まるみの指紋はひとつもない。あるのは、あの日記に付着している指紋の方だ」
 それはひどい話だ。謎を潰すどころか、謎が増えてしまったということか。
「お母さんに話したの?」
 聞くと、浅田は首を横に振った。
「言えないでしょう。まるで、今、存在しているまるみさんが、実はにせものかもしれないと言っているようなものじゃないか。むやみに言えない」
「ちょっと待って。失踪から戻ってきたまるみさんは、実は別人だってこと?」
 一之介が言うと、浅田は大きくため息をついた。
「そうは思いたくない」
「本人も家族も、そうは思っていないようだからね」
 まるみの、あの目を見開いた表情を思い出す。どう見ても、誰かを騙そうとしているようには思えない。レアマで会った友人たちも、なんの違和感もなく「まるみさん」と彼女の事を親しそうに呼んでいた。ルル子という人物にラインメールを送って、話を聞く段取りをするまるみにも、疑わしくなる様子はどこにもなかった。
「なんだか僕たちは共通の白昼夢を見ているようですね」
 食べている焼肉さえゴムのように味がない気がして、飲み込むのに一苦労した。
「俺もショックで、実はまだ誰にも話していない。しばらく、まるみさんにも両親にも内緒にしておこうと思う」
「それがいい。ある程度真相がわかるまでは、話さない方がいい。一応、生き別れになった双子はいないかを調べておく必要がありそうだけど」
「それは調べた。双子はいなかった。物置にあったアルバムの写真を見ても、やはりまるみさんはまるみさんであるような気がした」
 気がした、か。それはそうだろう。まるみの家族ですら彼女の好みについて間違った認識を持つくらいだ。まだ出会ったばかりで、刑事と被害者、探偵とクライアントという関係ならそれが当たり前なのだが、それ以上に本件は、今、目の前にある事実ですら疑いたくなるような感触がある。
「特別に不思議なことが起きているように思うけれど――」
 食べ終えた弁当を丁寧に包み直した浅田は背筋を伸ばした。「実はそうでもないのかもしれない」
「というのは?」
「指紋なんて、犯罪に関わったり、要人認定されたりしているような人間でなければ、そもそも採取しないものだろう?」
「そうですか。僕は刑事じゃないからわかりませんが」
「今ではスマートフォンなんかの認証の為に気楽に指紋を誰かに提供する時代になったけれど、かつてはプライバシーと言って、公権力といえども気楽には採取できないものだった。指紋や声紋は肉体固有のものだから、それが犯罪の証拠にも使えるという、取扱注意の代物だ。気楽に他人のものをコレクションしたりできないし、これが私の指紋ですと言って、どこかに保存したりしている人はあまりいないだろう。俺の人生の中では仕事に関わる決め手であり、絶対的であり、かつ、ごく身近なものだったけれど、今回の出来事のおかげで、もっと広い立場に立って考えてみなければいけなくなった。すると指紋なんて、普通の生活の中ではほとんど誰も見たことのない、あやふやなものだと思い当たった。ずっと、当たり前のように絶対的不変を信じてきたけど、本当は、ひょっとして、指紋って変わってしまうものだったんじゃないか、と疑い始めてしまって」
「そんな、人類の歴史を根底から覆すような、何もかもが疑わしくなることを言わないでくださいよ。それこそ指紋認証だってできなくなるじゃないですか」
 一之介は言葉を制するように立ち上がって、熱いお茶を淹れ直した。浅田刑事もまるみの不安定な心情に巻き込まれて、心を病み始めているのではないだろうか。
「今までの捜査だって、ここに指紋が出たから犯人はお前だと追及して、いや、違う、俺じゃない、絶対に俺じゃない、と暴れた人間を何人も見てきたけど、実際、どうだったのだろう」
 いつも以上に背中を丸くしている。
「そこまで疑い始めたら、気が変になりますよ」
 なんとなく青ざめて見える浅田を、いよいよ慰める側に回る。
「浅田刑事、よく思い出してください。事件の捜査結果はたったひとつの物証で決定されるわけではありません。そもそもどのような物証も、天使のいたずらというようなファンタジーまでを可能性として入れるならば、絶対的な決定打にはなりません。状況証拠や経験的な勘などの全てを総動員して、やっとこうかもしれないと言える程度です。もちろん犯罪捜査ならば、犯人自身がやったと告白することが決定的な判断につながるだろうけれど、それだって、誰かを庇うために嘘の自白をしたのではないかとか、拷問の末に諦めたのではないかと、延々と考え続けることはできます。近頃は記憶を入れ替えて思い込ませることのできる装置まであるそうじゃないですか。究極的に言ってしまえば、犯人に意図的に仕立て上げようとすれば、できないことはないでしょう。そういう可能性を考え続けたら、何も断定はできません。結局は、どこかで、何かを信じて終わらせるしかないのだから」
「そうだね」
 浅田は無表情に言った。「そうやって俺は、重要な何かを、こうであるに違いないと決めて、無理に終わらせてきたんだ。その中にはきっと、無実の罪を着せられた奴もいたに違いない」
「刑事一人がやることじゃないでしょう? たかが刑事、証拠を集めるくらいしかやっていない。判断は別の人がやっている。何人もが検証してやっている」
「でも、心の中で俺は、簡単に、こいつが犯人に違いないと決めつけてきたことがたくさんあった」
 浅田は少し涙ぐんでいる。
「誰でもそういった心の動きはありますよ。松本サリン事件の時、メディアの報道の仕方のせいで、日本中がある人を犯人だと信じ込んだ。人間というのはそういう認識の間違いを犯すものです」
「俺は刑事だ。その間違える可能性に一番近いところにいる」
 まるみの指紋の件でかなり衝撃を受けているのか、浅田はいつになく自虐的だ。
「まるみさんの件では、なるべく真実に接近できるまで、僕もお手伝いしますから、気をしっかりもってくださいよ」
 翌朝、一之介は兄から依頼されていたオレオレ詐欺の書類を発送するために郵便局に行った後、その足でレアマを訪れた。浅田刑事や金指まるみのいない時に、一人でレアマ周辺の空気を確かめておきたいし、できれば、出入りする人間たちも把握しておきたかった。
 午前十時半。古着屋のシャッターはまだ閉まっていて、路上にはトルソーもハンガーもなく閑散としている。貼り紙によると開店は午後からだった。通りを挟んだ建物の二階に、ちょうど窓ガラスから古着屋を見下ろすことのできそうな喫茶店があり、一之介はそこで時間を潰すことにした。窓際の席を陣取ってビルの入り口を見下ろしつつ、誰かが来るのを待つ。注文した珈琲が届き、ようやく飲み始めたと思ったら、古着屋の前に作業着姿の男が現れ、正面扉の鍵を開けて中に入っていくのが見えた。
 一之介は慌てて会計を済ませて喫茶店を飛び出し、改めて古着屋の前に立ち、作業員が開けた扉の隙間からそっと中を覗いた。当然、古着屋に客はいない。気付かれないように忍び込み、昨日と同じように、店内にある階段を降りて、地下一階にあるイングリッショバーの前に出た。入り口の柱にクローズドの看板を掛けてはいるものの、既にランチタイムに出す食べ物の仕込みをするらしく、厨房からコンソメスープとセロリの香りが漂っていた。掃除や調理をする人の姿も見える。看板を見ると開店は午前十一時半。
 イングリッシュバー横の廊下を、誰にも気付かれないように注意深く通り過ぎて地下二階に降り、レアマの前まで行ったが扉に鍵が掛かっていて、戸板の硝子部分から見える店内は真っ暗だった。こちらは、まだ従業員も誰もいない。そこで、いったん路上まで戻り外に出て、昨日確認した通り、ビルの脇にある非常階段を使って、まっすぐ降りてみた。途中に置いてある関係者以外立ち入り禁止の看板をそっと横に外せば、そのまま地下二階まで降りることができた。昨日の状態では、地下二階のトイレ横に続く通路に扉がないと思ったが、灰色をした鉄の扉が重そうにぴったりと閉じられていた。
 ――やはり、ここからレアマの中に入ることはできないのか。
 きっと、鍵が掛かっているだろうと思いながら、灰色の扉に付いた丸い鉄の取っ手を引っ張ると、予想に反してそれはぐらりと開いた。
 ――物騒じゃないか。レアマーケットと言うだけあって、マニアなら喉から手が出るほど欲しくなるような高価なものも置いてあるだろうに、鍵のないハッタリの扉しかないなんて。
 扉に備え付けられているドアストッパーを使って扉を半開き状態にし、スマートフォンの明かりを使ってレアマの中に入ると、壁際に電気のスイッチが見つかった。ひとつずつ灯す。蛍光灯が灯るにつれて、昨日見たマシュマロ色の世界が改めて目の前に出現したが、楽し気なアニメソングの音楽がなければ、なんの生気も放ちはしなかった。休日の遊園地にある回転木馬のように、白けた様子でやたらと埃が目立って見えた。
 さっそく、自動販売機のあるカフェエリアに行き、テーブルに座って、この場所で会ったこともないさやかと遭遇するまるみを想像してみる。その日、まるみはここでたっぷりミルクのカフェオレを飲んでいたのだった。さやかはどの位置に現れたのだろう。
 安っぽいプラスティックの白いテーブルが三つ。それぞれに、椅子が五つ。壁一面に自動販売機が並び、造花の朝顔が巻かれた衝立てによって、販売エリアとカフェエリアは区切られている。販売機横の壁にはこれから発売されるアニメのDVDや、封切られる映画のポスターがびっしりと貼られている。さやかはどこに立ったのか。どこから現れたのか。
 座ったままでしばらくカフェエリアの中を見渡していると、鉄の扉を開ける音がして、道具箱を抱えた作業着姿の人が入ってきた。恐らく、先ほど、喫茶店の窓から見えた人物だろう。慣れた手つきで自動販売機の中身を確認している。必要なカートリッジを設置したり、カップの補充をしたり。
 しばらくすると、
「どれか、飲みますか?」
 作業の手を止めて一之介の方に振り返った。「ちゃんと作動するかどうか確かめるために一杯だけ出力しますけど、僕はあちこちで作業をやって飲み過ぎているから、ここでは飲まないで捨てるだけになるけど、もしよかったら差し上げますから、好きなのを、どうぞ」
「じゃあ、たっぷりミルクのカフェオレ」
 すでに喫茶店でも珈琲を一口ほど飲んだが、ほとんど飲み残したのだし、頂けるものを断る理由もない。
「これ、わりと人気あるなあ」
 作業員はポケットから専用のコインを一枚出して自動販売機に入れた。
「僕には少し甘いけどね」
「機械によっては砂糖やミルクの量を調節ができるものもあるけれど、ここのはだめですね」
 たっぷりミルクのカフェオレのボタンを押した。
「人気ある飲み物はやっぱりすぐになくなるの? 機械の中で珈琲とミルクの分量を調節して、同じものを違う種類として販売しているのかと思っていたけど」
 紙コップが下り、注ぎ口から飲み物が流れ出てくる。
「ここの機械では商品ごとですね。たっぷりミルクのカフェオレはどこでも人気商品だけど、ここでは最近導入したばかりの銘柄だから、まだ売れ行きはわからないな」
「入れたばっかりって? いつから?」
「三日くらい前から、かな」
「三日前? それまでは、何が入っていたの?」
「それまでは、ここにはミルクティ。他がほら、全部、珈琲のブラックかミルク入りでしょう? それで紅茶もいるだろうとミルクティにしていたのだけど、なんだかノズルが同じだと、珈琲と紅茶の味も混ざってしまうし、一階の階段の横にあるペットボトルの自販機で午後の紅茶が買えるから、こっちではミルクティはあまり売れないということで、このカフェオレを入れることにしたんですよ。あれ? 知らない? あなた、ここの人じゃないの?」
 出来上がった飲み物を手渡してくれた。
「違います。上の店に来たらまだ空いてなかったから、ここで座って待っていようかなと思って」
 苦しい言い訳をした。
「どうですか、そのたっぷりミルクのカフェオレ。ちゃんと熱い?」
「熱いというよりも温かい程度だけど、大丈夫だと思いますよ、これで」
 一口飲んで、「ああ、OKだ」と言うと、じゃあ、よかった、と、道具類を箱に入れ、作業員は出て行った。
 それにしても。たっぷりミルクのカフェオレは三日前からって、どういうことだろう。金指まるみはいつもこれを飲んでいると言った。その三日間、まるみがここに毎日通ったとは思えないし、そうだとしても、三日間同じものを飲んだからといって、いつもこれを飲んでいると言うだろうか。
 どうにもおかしい。まるみの周辺で時間も空間も、そして彼女自身の心や指紋も、何かがバラバラに解体されて折れ曲がり、チグハグに繋ぎ合わされているみたいだ。
 紙コップのカフェオレを啜っていると、スマートフォンが鳴った。浅田刑事からだ。
「驚くなよ」
 オレダアサダダの後、相変わらずいきなり本題に入る。
「なんですか」
「昨日のコンビニ。ローソン。開店したのは三日前らしい。それまでは、やっぱり俺の記憶通り酒屋で、経営者の事情で一か月ほど前に閉店して、ローソンになったばかりだというんだよ」
「そっちもですか」
「そっちもって、どういうこと?」
「今、仕事のついでにレアマに来て、カフェエリアで昨日と同じカフェオレ飲んでいるところなのだけど、自販機の作業員の話では、このたっぷりミルクのカフェオレが入ったのは、つい三日前からだそうだよ」
 そう言うと、浅田は、ええっ! と耳元で大声を出した。
「マジで?」
「そう。マジで。まるみさんはずっとこれを飲んでいたと言っていたはずなのに」
「その作業員は信頼できるの?」
「わからないけど、今度、まるみさんの友人たちにも聞いてみたらどうでしょうか。このカフェオレ、いつからある? って」
 浅田刑事は、なるほど、ありがとう、じゃあ、明日、と言い、せかせかと電話を切ってしまった。昨夜の沈んだ様子はなく、それに関してはホッとする。
 だけど、どういうことだろう。
 たっぷりミルクのカフェオレとローソン。
 この二つとも、三日前に始まっている。
 まるみが所有している時空の塊がぐにゃりと歪んで、三日間という薄い細胞膜に包まれたひとつの時空細胞に飛び込み、そこだけは独自の時間が流れていたとでもいうのだろうか。
 レアマからの帰り、一之介はのローソンにも立ち寄った。浅田刑事や金指まるみと訪れた時と同じように、新商品の広告用の旗が風で揺れていたが、駐車場に車は一台も停まっていなかった。
 さきほどの浅田刑事からの電話によると、このローソンも三日前から開店したらしく、まるみの話とは食い違っている。三日前に開店したのが正しければ、まるみが謎のさやかと遭遇した日にはまだ酒屋だったことになる。それどころか、異世界から戻ってきた時ですら、ここはまだローソンではないのだ。まるみは他の店舗と勘違いしているのだろうか。店の入り口には野菜や果物などの生鮮食品が並び、その横には仏花も売られて小さな市場のようでもあるが、どこにでもあるコンビニとそれほどの違いはない。
 店内に入ると、以前の酒屋の名残のなのか、壁の一面が全て酒類で、なるほどその点はよくあるコンビニとはかなり違う。昼時に弁当を買いに来る客たちの波が去った直後らしく、弁当の棚にあまり商品はなく、客は一人もいない。店長と思われる中年の男がデザートを棚に補充していた。
「どうして酒屋は閉じてしまったのですか」
 一之介は、男にそっと近寄って、耳元でささやくように聞いてみた。一之介が居ることに気付いていなかったのか、男は大げさなほど、わっと驚いた様子を見せてから、「にわか店長だからあまり詳しいことは知らないけど――」と立ち上がった。
「聞いたところによると、酒屋の店主が急にいなくなったとかで、奥様が店を売りに出したそうですよ。それほど儲かる場所でも無さそうだけれど、地域の人からは大事にされていたようだからと言って、うちの会社が後釜の名乗りを上げたとか」
「酒屋の店主が失踪? その店主の名前はご存知ですか」
「いやあ、そこまでは知りません。居なくなったと言っても失踪かどうかもわかりません。そもそもお客様にするような話ではないですが、今はまだ本当に事情は知りません。僕も急遽ここに派遣されただけで――」
 あからさまに苛ついた表情をし始め、ついに眼も合わせず、白玉団子の乗ったデザートやクレープをせっせと棚に乗せていく。
「ちなみに、スマホの充電をしたいのだけど」
 話を切り替えた。「どこに機械、置いていますか」まだ電池はたっぷりあったが、まるみの足取りを確認しておこうと思った。
「スマホの充電機は、まだ設置していません。来週あたまには業者が来る予定です。なんせ、急な開店で、僕も急に配置転換されたものだから、そういろいろと言われても――」
 店長はむっとした表情を隠さなかった。
「充電機はまだない? 本当に?」
「そうですけど、それが何か?」
 一之介は首をひねるより仕方がなかった。

 事務所に戻り、一之介は応接用のソファにどっかりと座った。何もかも謎だらけで疲れ果てた。昼ご飯を食べる気にもなれない。
 レアマではたっぷりミルクのカフェオレも三日前から機械にセットされたと言うし、ローソンも三日前にスタートしたものだった。コンビニのスマホの充電システムに至っては、まだ設置もしていないと言う。だとしたら、まるみは一体、どこの何で充電したと言うのだ。まるみがさやかと出会う前に過ごしていた時間はどこに存在するというのだろう。
 一之介は棚に置いたままになっている『無人島の二人称』のファイルを眺めた。いつもはクライアントが座るソファのこの位置からは背表紙がよく見える。
 ――なんだろうなあ、あの奇妙な小説は。
 もしかしたら、金指まるみの本格的な、この小説『無人島の二人称』みたいな神隠しは、むしろ、これから起きるのだろうか。その予兆として、まるみとさやかの遭遇が生じているのだろうか。
 小説の艶々とした緑のファイルに窓から差し込む光が反射してキラキラと輝き、まるで生き物のように思えた。加藤陽一郎によって届けられた後、浅田欣二によってまるみの事件がもたらされることで、何か新たに命が吹き込まれたのか。
 一之介はファイルを手に取って開いた。やはり、最初に開いた時に感じた通り、わずかに、頁の紙から柔らかなバニラの香りがした。
 ――ん? なんだこれは?
 ふいに、バニラだけではない、他の香りを感じる。
 ――-コピーを取った時に付着したのか? それとも、まさか、また沈香か? 
 鼻を押し付けて嗅ぐ。
 ――違うな。沈香ではない。でも、これは、ひょっとしたら、
 大きく息を吸い込んだ。
 ――うまくいくかもしれない。
 一之介は一人でにんまりとし、再び、ファイルを棚のよく見える位置に置いた。 

 それにしても、いなくなった酒屋とは誰なのか。小説『無人島の二人称』の主人公格も酒屋だった。その一致に何か深い意味でもあるのだろうか。
 酒屋のことは酒場の人間に聞くのがいいだろうと、ふいに一之介は思い立って、マチ子に電話をして経緯を説明し、「そのコンビニの前に存在していた酒屋のことを知らないか。いなくなった酒屋の店主のこと」と聞いたが、「知らない」と言った。
「うちは、お店で出すものは洋酒がほとんどでしょう。だいたいは直接、問屋に買い付けるのよ。フミヤが料理に使うものだけは、フミヤが勝手に取り寄せているから、全ての酒類については把握していないけど、あの子が作るものも洋食がほとんどだから、フミヤが自分で買って来て使うとしてもワインがほとんど。個人の酒屋には行かないんじゃないかしら」
「酒屋って、ワインは置かないの? そんなことないでしょう」
「どうかしら。なんとなく、日本の酒屋は地酒中心に置いているような気がするけど。ワインを売るのなら、酒屋ではなくてワインショップって言うんじゃないかしら」
 マチ子は面倒くさそうに早口で答え、これからブーケの配達に行かなくてはいけないからと言って、そそくさと電話を切った。
 ところが、夜になって、タウンチャイルドの開店前にマチ子から電話があり、
「昔の納品書にその酒屋らしきものがあったからフミヤに聞いてみたら、その酒屋に行ったことがあるって言うのよ。本人から話を聞いてみて。今、電話を替わるから」
 調べてくれたらしい。忙しそうではあるが、フミヤに取り次いでくれた。電話の向こうで炊事場の音がする。突き出し用の料理でも作り始めているのだろう。
「すごく前のことですけど」
 電話口からは、フミヤのはきはきとした愛想のよい声がした。「あの辺りで道に迷ったことがあって、道を聞くためにその店に入ったことがありました。たまたまワインを整理しているところだったみたいで、道を聞いたお礼にと思って、そのワインを一本買いました。お店の料理で使おうと思って。帰ってからその銘柄を調べたら珍しいイタリアの葡萄農園のもので、それで酒屋のことも記憶に残っています。今では少なくなったテラコッタの壺で発酵させるタイプのワイン。町の小さな個人店に、そんな手に入りにくいワインがあるとは思ってもいなかったから、正直、驚きました。飲んだ後も瓶を取ってあります。だけど、その後はその酒屋には一度も行っていません。今日マチ子さんから聞いたんですけど、店も無くなっているそうで、残念です」
「どんな人だった? 店主は」
「はっきりと覚えていませんが、それほど若くはなかったと思います」
「男か女か」
「それは、男だったと思います。でも、女の人もいたような気がするので、誰が店主なのかはよくわかりません」
 フミヤは、「じゃあ、またタウンチャイルド方にもいらしてください」ときっぱりと区切り、マチ子にわざわざ電話を替わった後、電話を切った。
 ――フミヤもあの辺りで道に迷ったのか。
 金指まるみも同じだ。あの辺りで行方不明になったのだ。
 なんだか、バミューダトライアングルみたいだ。
 大西洋にあるフロリダとプエルトリコとバミューダ諸島の三つをつないだ三角形の海域で、そのあたりに接近した船や乗組員が忽然と姿を消したという伝説。何度も同じような消滅事件が起きているらしい。当然、科学的証明などされないトンデモ話だろうが、地球という星も生き物で、人間の身体がもつ経絡のようなものがあり、とあるツボをピンポイントで踏んでしまうと未解明の磁気を発して、そこに居た人間は前後左右を見失って意識があらぬ方向へと導かれてしまうことがないとは言えない。バミューダトライアングルのようにはっきりと認識できるほどの異常さを醸し出す場合には、伝説の形とは言え、なんとなく語り継がれてそこを避けたり、何度も超常現象が起きたりするのでその場所には神がいるとして祠や神社を立て、人々にきちんと意識させたりするかもしれないが、淡い現象や、認識の範囲を超えてしまう異常さを発揮する地点に関しては、むしろ伝説もないままに放置されている可能性もあるだろう。
 どんなことでも、そんなものは絶対にないと断言することはできない。
 一之介の経験では、トンデモ話になると「あり得ない」と断言する奴ほど、何か先祖からの守護の力を持っていることが多かった。この世界を明白で科学文明の行き届いたわかりやすいものだと主張するわりには、むしろ、そいつの為にひたすら祈っている者がいたり、逆に保護すべき存在がいて本人こそは無意識に霊力を使ったりした。大地が持つ磁力の魔を封じるような意識の守護の力、祈りという非科学的なものに守られ、自ら使っていながらも、一生、不思議現象に気付かない。淡々と物事がうまく運ぶので、世界は工業製品のように順不同なく進行し、何もかもが見えるままだと思っている。そういう人でも何かふと、全ての結界が途切れたように意味不明の状況に巻き込まれることもあるが、多くの場合、結局は守護の網目に戻されて、あれは気のせいだったと忘却し、明るく生きていく。そしてより一層、トンデモ話なんてあり得ないとの思いを強くする。
 だけどやっぱり、確認することは難しいというだけで、この世に不思議現象がないとは誰にも言い切れないだろう。
 あの、かつて酒屋があった界隈に、バミューダトライアングルのような通路があるのかもしれない。それが今、コンビニエンスストアという形になることで、二十四時間明るさに照らされたら、そもそもは存在していた摩訶不思議な穴が徐々に閉じられていくのかもしれないけれど。
 レアマでの、約束していたルル子との会談は、たったの十五分で終わった。
 ルル子は今高校二年生で、来年には卒業を控えた三年生になる。これまではレアマのみんなと一緒にイベントに参加したり、毎日のようにこの店に通ったりしていたけれど、そろそろ将来のことを考えなくてはいけないと思って、専門学校の公開授業に出てみたり、大学生になった先輩に話を聞いたりしている。「それで最近はレアマに来ることができなくなった」と言う。
「全然顔出せないから、みんなが、私の事、行方不明なんじゃないかって思ったのかなあ。でも、ある意味、行方不明かも、私」
 ルル子は明るく笑う。「親からは好きにしろと言われているし。ママも働いているから、家で家事をやってくれてもいいわよって言われているけど、そんなの嫌だなと思っている」
「家事手伝いという肩書は現代でもあるのかな」
 浅田がルル子とまるみの顔をひとりずつ見て言った。「おじさんたちの時代には、結婚前の花嫁修業というカテゴリーがあったように思うけど」
「やだあ、そんなの、エドジダイ」
 ルル子が足をバタバタさせ、キャハハハと笑う。
「そういうのは女性差別か?」
「そうだと思うけど、むしろかつての女性が羨ましい時もあるよ。男性にはそんな生き方が許されていなかったのなら、それはそれで男性差別じゃない?」
「どうして羨ましいの?」
「主婦やっていればのんびり生きていけるんだったら、楽じゃん」
「楽かな。退屈そう」
 まるみが肩をすくめる。「もちろんコンビニのバイトも退屈そうに思うだろうけど、新商品の売れ行きをチェックしたり、クレームを聞いて上部に届けたり、けっこう忙しい。新しいバイトさんが来れば趣味の話も広がったりする」
「家事は楽ってことはありませんよ。退屈でもない」
 一之介は身に染みて知っている。「君たちはまだ親にやってもらっているんでしょ」
「あはは、そうだった」
 まるみとルル子は顔を見合わせて笑う。
「ルル子はまだいいけど、私なんか、もう二十四歳なのに、親に洗濯やってもらっている。恥ずかしいなあ」
「そうですよ、まるみさんもそろそろ自分でやらなくちゃ。私もそうだけど、女だからって、女性差別だから家事しませーんってわけにはいきませんよね。男も女も、誰と住んでも住まなくても、トイレ掃除やゴミ捨てや、お洗濯はやらなくちゃだらしなくなっちゃうんだから」
 ルル子はまるみの肩をポンと叩いた。これはこれでまた、どっちが年上かわからなくなる。年齢なんてものは単なる背番号みたいなもので、都度、諭したり諭されたり、悟ったり悟られたりして入れ替わるものなのだろう。
「じゃあ、この後、大学行ってる先輩と会う約束があるので」
 ルル子は椅子を後ろに引き、きっぱりと立ち上がった。
「そうそう、飲み物も買ってあげなくてごめんね。ちょっと聞きたいんだけど、ルル子さん、この自販機にあるたっぷりミルクのカフェオレ、飲んだことある?」
 一之介が聞くと、
「ない」
 と言った。「というか、そういうの、あったっけ。私はいつもミルクティしか飲まなかったから知らないけど。あれえ、無くなっている、ミルクティ」自販機を覗き込んでいる。「残念だなあ。でも、もうあんまりここに来ないし」
 じゃ、と言って、颯爽と歩き出してしまった。
 まるみは立ち上がり、「わざわざ来てもらってごめんね」と背中に向かって呼びかけた。
「いいんです、最後に、まるみさんに会いたかったし」
 ルル子は振り返って、手を振った。まるみも手を振り返す。
「最後に会いたかっただなんて、なんだか、寂しいね」
 浅田がしみじみとルル子の背中を見送っている。
「ルル子ちゃんはなんだか、もう子供じゃいられないって雰囲気だったね」
 一之介が言うと、
「そうなんです。みんな、だいたい高校二年くらいから、こうしてはいられないって言い始める」
 まるみが飲み物を買う様子を見せたので、浅田が、いいよ、俺がやるからと言って、三人分のたっぷりミルクのカフェオレを買った。
「まるみさんは、その年頃に、こうしてはいられないって思わなかったの?」
 浅田がカップをテーブルに置きながら聞く。
「あまり思わなかった。思ったかもしれないけど、周りの人がどんどん入れ替わっていくから、ずっとここに居る感じはなかった。風景の方が勝手に変わっていくから。私、すばしっこい方じゃないし、なんだかいつも、ちょっと出遅れるのが普通になっている。それで、ここでもだんだん話をする人はいなくなっていったけど、全くいなくなるわけじゃないし。それに、そもそも私は他の子たちみたいに放課後を求めてここに来ていたわけじゃなくて、最初は古着屋に通っていて、レアマができたから、ここにも来た。そしたら、こっちに居着いちゃったってだけ」
「不安になったりしない?」
「なりますよ、少しは。でも、それほどはならない」
「家は居心地がいいの?」
「まあ、そうかも」
 浅田は、「ふうん」と言って、不思議そうにまるみの顔を見ている。「家族からはいろいろと誤解されているみたいだけど」
「それよりも、まるみさん」と一之介は話に割って入った。「このたっぷりミルクのカフェオレだけど、いつもこれを飲んでいるって、この前言っていましたよね」
「はい。こればっかり。さっきルル子がミルクティ無くなってる、って言ってたけど、ミルクティなんて、そんなのあったかなって思った。どうして?」
 目を丸くして一之介と浅田の顔を交互に見る。
 浅田は一之介を見て、首を横に振った。まだ何も言わない方がいいということだろう。
 ルル子との会談の後、まるみはレアマで暇を潰すと言うので、一之介と浅田刑事は二人で例のローソンに足を運んだ。相変わらず、辺りは金木犀の香りが漂っている。
「この駐車場も新しく整えたようですね」
 浅田はしゃがみ込んで真新しいアスファルトに触れていた。「引いてある白線もくっきりとしている」
「前はなんだったんでしょうか」
「でこぼこした舗装だけど駐輪場で、酒屋の配達用の車が停めてあった。そして、背の低い樹木が一本あったように思うけど」
「ひょっとして、金木犀?」
 この辺りに漂っている花の香りはあまりにもまっすぐに記憶に届く。だからむしろ、今ここで咲いているものではなく、過去からふわりと香っているかのようだ。
「金木犀だった気もするし、椿だったようにも思う」
「それにしても、浅田刑事、こんな場所にある酒屋のことをよく知っていましたね」
「職業病じゃないかな。一度通っただけでも、前と違う風景だったら立ち止まる。何かが過去になってから、それがなんだったかに気付く。思い出せる。過去の真実を探るように俺は調教されてしまったのだ」
「浅田刑事、金木犀の香りがしませんか?」
 一之介が大きく深呼吸をすると、浅田刑事もなぞるように真似をした。
「どうかなあ」
「香らないの?」
「俺の鼻が鈍いのかもしれないけど」
 ここはやっぱり、バミューダトライアングル? 時間も空間も香りも、安定しないで現れたり消えたりしている。そして、人によって違うものを捉えている?
「まるみさんは、ここがずっと前からローソンだったと言ったけど、ずっと前っていつのことだろうね」
 看板を見た。明らかに真新しい。
「彼女も金木犀の香りを嗅ぐのかなあ」
 浅田刑事は鼻で大きく息を吸い込んでいる。
 店の中では、昨日の店長が忙しそうにレジの中を行ったり来たりしながら、客が買った弁当を温めたり、珈琲をカップに注いだりしていた。かつてここに金木犀がありませんでしたか、などと聞いたら怒鳴られそうだ。それこそ、ふいにここに配属された店長だ。まだアルバイトらしき人も見当たらない。
「この場所ではSF小説みたいに時間がぐちゃぐちゃになっているのだとして、まるみさんが言っている『ずっと前』の中でも一番の『ずっと前』って、ちょうど今でしょうね。このローソンはたった今できたばかりなのだから」
 一之介はもうすぐ日暮れになる空を見上げて、ひんやりとした風を胸いっぱいに吸い込んだ。
 遠い世界から香ってくる金木犀の香りを体中で捉えていた。
 一之介は浅田刑事と別れた後、マチ子の店タウンチャイルドに足を伸ばした。店の前には相変わらず、等身大ほどのペガサスが飾ってある。大人の馬よりは小さく、山羊よりは大きい。完全に日が暮れてしまうと、翼に施された電球が点滅してそれなりに看板の風格を見せるが、光が灯らないうちは、ペガサスの眼球に嵌め込まれた青いの硝子の石もうつろに見えて、どこかもの悲しかった。
「八田さん、珍しいわね」
 店の前に立っていると、後ろからマチ子に声を掛けられた。これから開店準備だと言う。
「この前、タクヤくんが朝飯を持って事務所に来た時に、さやか伝説のことを教えてくれたけど、一度は店に来るようにとマチ子からの伝言を貰いましてね」
「今日もタクヤに会いに?」
 もう歩き出しているマチ子の後を着いて、一之介も勝手口から店内に入った。
「特にそういうわけでもないけど、もし居たら聞きたいことはたくさんある」
 入ってすぐは厨房だった。すでにフミヤが居て、まな板と包丁で野菜を刻むリズミカルな音がしていた。スープを焚いている匂いが充満している。
「あれ以来、シフトに入っているのにも関わらず、タクヤは店に来ないのよ。連絡も取れない。鍵だけポストに放り込まれていてね。まだ三日目だけど。あの子、そういうことは珍しいのよ。八田さんが扱っている事件みたいに、いなくなっちゃったのかも」
 マチ子は肩をすくめた。
「住んでいるところには?」
「実は住所も正確にはわからない。知人の紹介でなんとなく入り込んできた子だから、考えてみれば、いろいろわからないのよ。真面目で重宝していたから気にもしなかった。こうなってから慌てて確かめようとしても、彼の家に行ったことのある人は誰もいない。電話も通じない。従業員同志でもそこまでは仲良くないそうで。ねえ」
 マチ子はフミヤに同意を求めた。フミヤは一之介の方をちらっとみて笑顔を見せた後、
「家を互いに行き合うほど仲いいやつはいません」
 そう言いながら、再び野菜を切り始めた。千切りキャベツ。小さなスナックが出す添え物用にしては、針のように細くシャキシャキしていそうだ。「でも、まだ今日で三日目だし。そのうち、来ると思いますよ」
「だといいけど」
 マチ子が言い、一之介はカウンターに座って麦酒を頼んだ。麒麟の瓶とグラス、裂きイカと落花生の乗った皿をマチ子が並べてくれた。
「あれから、どうなの? 事件。解決した?」
 マチ子が自分のグラスも用意して、一之介の隣に座った。
「開店準備しなくていいの?」
「珍しく八田さんが来てくださったんですもの、一杯くらい飲ませてよ」
 マチ子は二人のグラスに麦酒を注ぎ、「ようこそ、タウンチャイルドへ」と言って、グラスをカチンと合わせた。一之介は二口ほど飲んだ後、
「事件は解決なんかしない。どんどん謎が出てくるばっかりだよ」
 落花生を口に放り込んだ。
「謎って?」
「もはや、おいそれとは口に出して言えない事ばかりになってきた。しかも、刑事事件というよりは、時空間変形現象みたいな、奇妙な感じだな。犯人は宇宙人かも、ってね」
 笑いながら言うと、マチ子が真面目な顔をして、
「だけど、タクヤもいなくなったのよ。笑い事じゃないのかも。しばらくして、ほんとに来なかったら、もう少し詳しく事件のこと教えてよね」
 腕で押してくる。一之介は、いいよとも、だめだとも言わなかった。
「タクヤくんがいないんだったら、ここに来ても新しいことは何もわからないかな」
 ちょうど里芋の煮っ転がしを器に入れて出してくれたフミヤに、
「フミヤ、何か知らない?」
 マチ子が聞いたが、気が付かなかったのか厨房の奥に入ってしまった。
「さてと、帰るか」
「もう早? フミヤのビーフシチューを食べて行ってよ」
 マチ子は引き留めたが、他の客が来る前に帰りたかった。
「また来るよ。邪魔したら悪いから」
 テーブルに五千円札を置いて、マチ子に「お金なんて、いいわよ、いらないわよ」と言われつつも、さっさと店を出た。長居は無用。
 ペガサスの翼に掛けられていた電球はもう点滅していた。

 翌日、浅田刑事に電話をし、さやか伝説の海の親であるタクヤがマチ子の店に出勤していないそうだと告げると、
「こっちもひとつわかったことがあってね」
 結局、浅田は一之介の事務所に来ることになった。近頃は、重要なことになると電話もメールも気軽に使えなくなった。誰が無線で聞いているかわからない。何もなかった時代のように、むしろ頻繁に事務所で顔を合わせることになる。
「これが彼女の指紋の写真だよ」
 浅田刑事はテーブルの上に二枚の写真を置いた。ひとつは現在のまるみの指紋で、もうひとつは日記帳と物置のランドセルなどに付いていた指紋。
「あきらかに違いますね」
 一之介の眼にもわかった。渦巻の方向や流れ方がまるで違う。
「だろう? 全く違う」
「でもそれは前にも聞きましたけど?」
「実は改めてまるみさんのお母さんと話をして、昔の話を聞いたのだけど、気になることがあった。まともな大人が考えることではないけどね」
 浅田はそう前置きをして、話を始めた。
 浅田欣二の話は以下のようなものだった。

 先日のルル子との会談の後、浅田刑事は一之介と別れてから、なんとなく金指まるみの家に立ち寄った。まるみはまだレアマで暇つぶしをしているらしく不在だったが、母親に強く勧められて夕食をご馳走になった。父親はまだ会社から帰らず、家に居たのは母親と弟の金指翔太。翔太は大学生で、愛想はよくないが礼儀正しく、母親の指示に従ってナイフとフォーク、スプーンを用意し、スープを皿に注いだり、母親が作ったイサキのグリルを大皿に乗せた後、食べやすく取り分ける作業をした。
「上手にほぐすね」
 浅田刑事が言うと、
「昔から僕の役割ですから」
 と答えた。「母は料理を作りますが、テーブルを整えたり、それらをお皿に乗せたりするのは僕の仕事です」
「こういう時、まるみさんは何を手伝うの?」
「姉は何もやりません。すごく小さな頃はやっていたけれど」
「いつからやらなくなったの?」
「子供の頃、母に叱られて」
 翔太が言うと、
「そうなんです、私、きつく叱り過ぎて」
 母親はサラダボールとドレッシングを翔太に手渡しながら言った。翔太は受け取ったサラダボールから小皿に野菜を取り分け、ドレッシングを掛けてていた。
「まるみさん、何をしでかしたの?」
「焼き魚を並べる時に、頭を左側にしてテーブルに並べなさいと言っているのに、何度言っても間違える。どうしても、頭を右、尻尾を左に置いてしまうので、いいかげんに覚えて頂戴と言ったら泣いて家を飛び出して、一晩帰って来なかったのです」
「何歳ですか?」
「十二、三歳かしら。中学生でした」
「どこに行っていたの?」
「それが今でも正確なところはわかりません。あの時、夫が慌てて外に探しに出て、家の周りを探していたら、小さな子供に『まるみちゃんのお父さん』って声を掛けられて、『まるみちゃんだったら、おばあちゃんちに入って行ったよ』と言われたらしいのです。夫の実家は大人の足で歩いても二十分くらいかかるところだから、そんなわけないだろうと思ったけれど、一度家に戻ってきて、夫がおばあちゃんに電話をしたら、『来ているわよ』と言ったらしく、じゃあ、よかったと安心したのだけど、真夜中におばあちゃんから電話が掛かってきて、夫が出たら、おばあちゃんは『まるみがいない』と泣き出したそうで。改めて、あちこち探したけれどいない。町内会の会長や警察に連絡をして探してもらったけれど見つからなかった。ところが、朝になって、まるみは物置から出てきた。おばあちゃんの所なんか行かない、ずっと物置に隠れていたって、まるみは言うのだけど、おばあちゃんは、確かにまるみが来たと言うし。夫はおばあちゃんがもうろくしているんだろうって言いましたが、おばあちゃんったって、まだ六十代で、若かったのですよ。頭ははっきりしていました」
 グリルの鉄板などを片付け終え、母親もテーブルに着いた。
 それを見て翔太は、手を合わせた後、無表情にスープにスプーンを差し入れた。
「姉はなんだか昔から、よくいなくなったり出てきたりした」
「いなくなったり、出てきたりって?」
「二人でままごとをして遊んでいたような頃でも、急に勝手にいなくなった気がする。本人は悪気がないらしいし、いなくなったつもりはないらしいのだけど」
 翔太はスプーンを持ち上げ、音を立てないように上手にスープを飲んだ。
「まるみさんは子供の頃、物置にはよく隠れたのですか?」
「その時だけです。それ以来、まるみにはテーブルのセッティングは頼まないようにしました。なんとなく、魚の頭の向きくらいのことで叱ったりして、悪かったかなという気がして」
「それにしても、ご主人が家の周りを探し回っている時に、まるみさんが歩いて二十分もかかるおばあちゃんの家にいることを知っていたという子供は、一体誰ですか。ご主人のことを、『まるみちゃんのお父さん』と声を掛けた子供です」
 浅田刑事は不思議に思って聞いた。
「結局それも誰だかわからない。主人は普段、子供の学校の友達のことなんて知らないでしょう? まるみちゃんのお父さんと声を掛けられたから、まるみの友達だろうと思っただけだったみたい」
「だけど、その小さな子供の方は、ご主人のことをまるみちゃんのお父さんとして、はっきりと認識していたのですね。それも、なんとなく不思議な感じがしますが」
「そう言われてみれば、そうですね」
 何もかも謎めいた話をしながら三人で夕食を食べ、まるみが戻ってくる前に、浅田刑事はまるみの家を出た。

「八田さん、どう思いますか」
「まるみさんは、物置から出てきた後、別にどこか変わってしまったということはなかったのでしょうか」
 一之介は小説『無人島の二人称』を思い浮かべ、小説の神隠し事件と似たようなことは起きなかったのだろうかと思って聞いた。
「それはなさそうでしたよ」
「なさそうって? はっきりとないとは言えないの?」
「夕食を食べながら思ったけれど、なんとなく、あの家の人たちは、まるみさんになんらかの変化があっても気が付かないような気がする」
「どうして?」
「理由はわからないけれど、子供が一度でも緑が好きだと言えばずっと変わらず好きだと思い込んでいるようだし、それに、あの家族は計算されたように、ちょうどうよい距離を取っている。精神分析家が求めるような、相互理解にあふれた家族のように思えた」
「そんなにちょうどいい関係性なのに、どうして気付かないの?」
「いろいろと気付くから問題が起きるのであって、気付かなければ通り過ぎてしまうものだ。まるみさんのこともひょっとしたら、いろいろと他にも問題はあったのかもしれないけれど、誰も気付かないか、あるいはそっと触れないようにしているうちに忘れてしまったのではないかな」
「浅田刑事、さすが長年の勘ですか」
 一之介が言うと、浅田は胸を張った。いつもの縮こまった姿勢の真逆だ。
「料理がね、なんとなく、そんな味がした。計算されて、あらゆることが適当であることに気を使っている味だ。病院とか、給食とかの、栄養計算された味。それでそんな風に思っただけ」
「ところで、そのまるみさんの幼い頃の一晩の失踪と、物置から出てきた指紋がどう関係しているのですか」
「この物置から出てきた指紋だけど、それがこれ。指の大きさがちょうど十歳くらいのものばかり。それより大きいものは今のところ見当たらない」
「どういうこと?」
「つまり、まるみさんの指紋としては、現在のものと、物置や日記のものの二種類がある。この前までは、まるみさんがレアマでさやかと遭遇して行方不明になっていた期間以降、まるみさんがひょっとしたら別人と入れ替わっているのかもしれないと考えていたのだが、今度はその変容時点がもっと幼い頃、つまり物置に隠れて、そして出てきた時だったのかもしれないと考えられるのだ」
「そんな馬鹿な」
 テーブルの上に置いてある指紋を手に取って見比べる。そう言われてみれば、確かに、大きさが違う。ひとつは子供のもので、ひとつは大人のものだ。日記のものと物置の中のものは同じだが、前者の方が後者のものより少し大きい。
「物置から出てきたまるみさんは、家族のことも認識しているし、それまでの友人とも仲良くしていたのでしょう? 家族も違和感を持っていないのだし」
 ちらりと『無人島の二人称』のことを考えつつも、あくまでも常識的に話を進めた。
「それはそう。だけど、ちょうど、まるみさんが十二歳の頃の事件を調べてみたら、迷子になった女の子が交番にやって来て、名前まで聞いたのに、急にお手洗いを貸してほしいと言って、交番のトイレに行ったまま出て来ず、そのままいなくなったという怪事件が秘密文書に残されていてね。意味不明の未解決事件。対応したお巡りさんの証言を基にして作った少女のモンタージュが残っているけど、なんとなくまるみさんに似ているような気もする」
「浅田さん、大丈夫? 正気?」 
 現実主義であるはずの浅田刑事とは思えなかった。
「こういう公表されていない怪事件はけっこうある」
 浅田刑事は大いに真面目顔だった。
「その迷子になった女の子の名前は、もしかして――」
 一之介は恐る恐る聞く。
「そう、その、もしかして、だ」
「金指まるみ?」
「違うよ。八田さん、勘が鈍いね」
「じゃあ、何?」
「さやかだよ。八田さんの知り合いの店で働いているタクヤとかいうメディアアーティストが作り出したさやかだよ。そう考えてみると、タクヤが考案する前、もっとずっと前から、伝説になり得るさやかは存在していたのかも」
「なんだって!」
 気付かなかった。さやか伝説へとつながる、メディアアートのアイドル的存在さやか。ただし、それは幼いさやかだ。
「でも、モンタージュがまるみさんと似ているというのは?」
「そこです。ひょっとしたら、まるみさんはさやかであり、さやかはまるみさんである」
 浅田刑事はもっと真面目な顔をして言った。「あるいは、さやかというジョーカーとしての肉体があり、そこにまるみさんの意識が重なるとあたかもまるみさんに見える。そして、まるみさんに似たさやかは交番へ行った。そうやって、まるみとさやかはずっと昔から何らかの接点を持ち、本人たちも気付かないままでチェンジし続けている。とか」
「だけど、どうしてジョーカーのさやかが警察のところに行くのでしょう。まるみさんの顔をして」
「それはそうだ。たまたま名前がさやかだったのかもしれないし、たまたま顔がまるみさんに似ていただけかもしれない。小さな子供だから警察が怖くなって、トイレの窓から逃げたのかもしれない。いや、窓はなかったのだ。いろいろと考えるべきことはまだある。たとえば、まるみさんの父親がまるみさんの後を追いかけて家の外に出た時、『まるみちゃんのお父さん』と声を掛けた子供、あれは結局誰だったのかわからないままだそうだが、それもさやかなのかもしれない」
「浅田さん、暴走していませんか? 都市伝説の罠というのはまさにそんなものですよ。全てをひとつのものにこじ付けて考えるのでそう思えてくる。伝説が捏造されていく」
 浅田は一之介を無視して喋り続けた。
「まだ、考えてみるべきことはある。まるみちゃんにとっておばあちゃんは父親側の祖母だけではなく、母親側の祖母も居るわけだよ。しかし、聞いてみたら、その時にはすでに亡くなっていたらしい。だから、おばあちゃんの家と言えば父親側の母親だと判断してしまったわけだけれど、『天国』ってこともあり得るわけで、まるみさんはその時、天国のおばあちゃんに会いに行ったとも考えられる。そして、一晩で帰ってきた。何か、肉体は入れ替わって、と考えられなくもない」
「浅田刑事、僕はそんな話を聞いたことがない。死んでから復活したのはキリストだけど、キリストは三日後に復活したのであって、翌朝ではありませんし、もともとの肉体のままで復活したのです」
 なんだか、呆れてしまう。
「キリスト教の話をしているわけではない。とにかく、まるみさんの事件は、単なる失踪や幻覚のようなものではなくて、心と肉体の真実を明かしてしまうような、当局としてはマル秘として隠避する類の事件だと思う。俺はいよいよそっちの事件を担当する部署に配属されたのだ」
 浅田は再びわずかに胸を張り、それから深々と頭を下げる。
「どういうこと?」
「最初に金指まるみの件を担当して、理由もなく胸騒ぎがした。これは奇妙な事件だと思った。奇妙なものはいつでもよくあるが、いつにも増して、まるみさんに降りかかっている出来事が、通常の物理空間や常識とは逸脱していると思った。だけど、混乱しているまるみさんにしつこく聞いてもわからないだろうし、八田さんにも手伝ってもらいたいと思った。そうでもしないと、この奇妙な違和感について、誰に訴えても無視されるような気がしたから。いずれにしても、立候補してマル秘事件を扱う部署に転向させてもらった。八田さんには部署替えしたことを黙っていてすまない」
 急な話だったし、直ぐには信じがたいものがあったが、いつも誠実な浅田刑事が嘘をついているとは思えない。
「マル秘事件って、けっこう起きているのでしょうか? Xファイルみたいな」
「そうだな。とはいえ、単純な窃盗みたいな事件だって、真剣に考えて行けばXファイルだよ。本当にお金がないから窃盗をしたものは少ない、今の時代は」
「愉快犯とか、刺激を求めてとか?」
「それもあるが、そう感じるように仕向けられているとも言える。近代科学が魔物を否定したおかげで、むしろ魔物が堂々と世間を歩きやすくなった。悪い念の力を封じる生活上の儀式を野蛮だと言って嘲笑の的にするから、自我の弱い人はふっと魔物の誘いに連れていかれる」
「浅田刑事は意外と信仰心がありますね。宗教に興味がある人は多いけれど、今時、本気で信仰心のある人は少ない。言い方を変えれば、浅田さん、妙なものを信じているとも言えますよ。巷ではそういうのを、トンデモ系と呼んでいます」
「だけど、長年、刑事なんかやっていれば、こうなりますよ。犯人や被害者を目の当たりにしてきたのだから。前にも話したが、目が覚めてみれば、どうしてあんなことをしたのかわからないという奴ばっかりだよ。どう考えても、事件は現場だけで起きているのではなく、実際には何か、俺達にはわからないとあるデスクで起きているような気がしてならない」
 浅田刑事は胸を張るのを止めて、力なくソファの背にもたれた。
「意味深なことを言いますね。大丈夫なんですか。とあるデスクってなんですか。宇宙人のオフィスとでも仰るのでしょうか」
 さすがに心配になってきた。
「そうだ、そんなものかもしれない。この世に真の罪人なんかいない。我々は罪人にさせられている。とある宇宙オフィスが提示するたとえ話の犠牲者なのだ。俺たちみんな、たとえ話の駒なのだ。ああ、もう一度言う。事件は現場で起きているのではなく、とあるデスクで起きているのだ!」
 浅田は頬を紅潮させ、太ももの上に置いた握り拳を、さらに強く握りしめている。
 狂気に満ちた浅田の言葉と語調に、一之介は頭痛がしそうだった。一体どこへ向かおうとしているのかわからなかった。
(第一章了 第二章へとつづく)》

※ここまでの解説 
 あらすじ。
 レアマを出て、一之介、浅田、まるみの三人は帰路に着き、まるみから家族は全員、まるみが緑とラーメンを好きだと思っていたことを打明けた。まるみはもうどうでもよいと考えている。
 三人はまるみが行方不明になったポイントであるコンビニの駐車場を確認し、一之介は金木犀の香りを強く感じ取っていた。行方不明の状態からこちらに戻ってきたポイントも同じ場所。まるみの話では、レアマの顔見知りが待ち受けていて、行方不明から戻って来たと言ってラインにそのことを流したのだという。
 その後、浅田だけが一之介の事務所に来て、まるみの実家の物置を調べたところ、まるみの指紋がひとつもないことを打明けた。日記に付着している謎の指紋しかない。
 翌日、一之介は一人でレアマの調査に行き、そこで遭遇した自動販売機作業員から、まるみがいつも飲んでいる「たっぷりミルクのカフェオレ」は三日前から登場したのだと聞かされる。だとしたら、まるみは嘘をついているのか?
 また、その足でまるみの行方不明になったポイントであるコンビニに立ち寄って、店長に話を聞くと、コンビニは三日前に開店したのであり、その前は酒屋だったのだと言う。ここでもまるみの話と食い違っている。そこに酒屋があったかどうかをマチ子に聞いてみると、授業員のフミヤがそこでワインを買ったことがあると言い、酒屋だったこと自体は間違いなさそうだった。
 ルル子の取材はあっと言う間に終わり、手掛かりはなにも得られなかった。
 一之介は帰りにマチ子の《タウンチャイルド》に立ち寄り、そこでタクヤが店に来なくなったと教えられる。
 浅田もその帰りにまるみの家に行き、そこでまるみの家族から聞いた話を一之介に伝えた。まるみは子供の頃に一度行方不明になったことがあり、結果的に時は翌朝物置から出てきたのだが、夜中、父親が探した時には祖母の家に行っていると近所の小さな子供から言われたり、祖母も来ていると言ったり、話が食い違っていたのだとか。そこで浅田はその頃に起きたマル秘事件の文書を調べたところ、さやかという名の女の子が警察のトイレに入ったまま姿を消した怪事件があったことがわかり、さやか伝説とのつながりを考えているのだった。

 さて。
 太字に下部分が謎や展開の手がかりだが、25000字の中にびっしりと謎が詰まっている。要は謎だらけであることが示されていて、かつ、まるみは嘘をつくような人に思えないのだ。
 都市伝説やとんでも話の列挙に近いが、こういったもののトリックがどこまで解明されるかが楽しみなのだ。

小説はまだまだ続く。

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