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解読 ボウヤ書店の使命 ㉚-2

長編小説『ポワゾン☆アフロディテ№X』読み直し続き。

《第一章

2「日記」に書き込まれた間違い


 八田一之介が小説『無人島の二人称』を読み終えたのは、ちょうど夜が明けようとする頃だった。硝子窓に目をやると、カーテンと壁の隙間からブルーグレーがわずかに差し込んでいる。徐々にその色も淡くなり、いずれ明るくなって、小鳥が鳴き始めるだろう。
 ――夜更かしまでして、本を読んだのは久しぶりだな。
 子供の頃、一之介にとって、夏休みのラジオ体操に参加することほど興ざめする宿題はなかった。叱られようが無視をして早朝まで本を読み、新聞配達や牛乳配達のバイク音を聞いてから眠り、少しは涼しくなったと思われる夕方前に起き出して、夕餉の支度をしている母の近くで目をこする。深夜と本の中の時間は同じものだった。予定によって刻み取られることのない、柔らかな塊りとして夜空の底に存在している時間。大人になった今では徹夜してまで本を読むことはなく、なるべく夜は寝て、仕事の都合上、きちんと朝に起きるのだが、正直に言うと苦手。本心では、一日が眩しい朝から始まるのは品がないような気がしていた。
 小説『無人島の二人称』と浅田刑事の持ち込んだ事件は少し似ていた。浅田刑事の連れてきた被害者金指まるみも、小説の中の被害者たちと同じように神隠しのようなものに遭っている。まるみは数週間、得体の知れない『さやか』という女性のところに居て、その間はすっかり金指まるみであることを忘れたかのように暮らし、それを終えてこちらに戻ってきたら、元の「金指まるみ人格」のことをきちんと思い出して、今まで通りの金指まるみで生きているのだった。多重人格の可能性を疑う兆候も過去歴もない。
 小説の方は加藤陽一郎が説明した通り、神隠しに遭遇した女性は一晩で戻ってくるが、人格はまるで違ったものとなっているのだった。
 ――ということは、小説と金指まるみの件は真逆か。だとしたら、こんな風に考えられないだろうか。
 一対のパラレルワールドがある。それぞれに自分自身が存在している。金指まるみはふとした瞬間にその境界を跨いでしまった。金指まるみがもうひとつの世界に迷い込み、そこで、もう一人の自分と入れ替わって数週間生活をしていた間、その世界に最初からいたもうひとりの金指まるみは、小説の中の被害者たちのように、人格がまるで違ってしまったかのようにじっとしていて周囲を驚かせていたのかもしれない。小説の方でも、実は描かれていないだけで、被害者のところに隣の世界から別バージョンがやってきて、被害者の時間の一部を持ち去って代役のように生きているのだ。本人はそれと気付かない。まるみがさやかとの時間を不思議にも思わず生きたように。
 パラレルワールドは物理やSFでは使い古された仮説だし、学問的に証明されようが、そうでなかろうが、そもそも人間なんて似たり寄ったりだから、どこかに八田一之介と似た誰かさんが居て、その周辺に似たような人間関係があるとしても不思議でもなんでもなく、大げさにパラレルワールドなどと言わなくても、全くもってさもありなん、である。
 ワールドというと星を思い浮かべて、パラレルならばこの星とその横にある別の星、などと考えてしまうが、そのような目に見えるいわゆる物質的な大地とは限らない。お決まりのメロディコードで進行する時間の雛型が一本の糸のようなものだったとすると、別のコード進行によって存在している時間も無数にあり、まさにあやとりの紐のように平行して並んでいると考えられなくもない。そこに突然、不協和音の如き時間風が吹いて重なり合い、瞬時に別の時間コードにに飛び移ってしまうことは十分にあり得る。
 パラレル同士の組み合わせとして、小説世界とまるみの世界のように、全くさかさまのものもあるだろう。たとえば、この世界では人間が猿を檻に入れて鑑賞するが、映画『猿の惑星』では猿が人間を動物のように檻に封じ込めて支配する。こちらでは権威ある立場のものが向こうでは下衆扱いというのも、所変わればなんとやらの説で、別段珍しいことでもない。この世は所詮、素粒子が組み合わさって作られた物理世界と、それと密接に関わり合っている情報世界でしかなく、大雑把にまとめてしまえば陰陽の拮抗だと考えるのならば、一方があれば片方もあるとするのがいっそ常識ではないか。
 そんなことよりも世間にはもっとおかしなことはたくさんあって、このいい男がどうしてあのとんでもない意地悪女を愛するのだろうとか、こんな怠け者のやつなのに、さらに宝くじに当たってどうぞ遊んで暮らしてくださいとばかりに大金を受け取って、朝から晩まで楽をしているのは一体どういう神の計らいなのだろうかというような、到底納得いかない話題には事欠かない。それだって、どこかの気功師にでも言わせれば、眼には見えないが物理的な気の力によって、意地悪女も怠け者も一種独特の爆発的な気でも放って世間の動力として役に立っているので、帳尻としてのご褒美を当然のごとく、宇宙の利回りとして頂戴している算段になるのだろう。
 しかし今回、一之介のところに押し寄せてきた事がそれらと少し違っているのは、一方が加藤陽一郎の持参した小説という虚構で、もう一方は浅田欣二のもたらした現実であること。そして、それが同じタイミングで一之介のところにもたらされたことだ。
 どこか遠くから眺めれば、ああ、あの八田一之介という男はかくかくしかじかだからこそ何らかの気付きがもたらされようとして、あるいはばちが当たって、今、ああいった奇妙な出来事に遭遇しているのだと言い切れるのかもしれないが、一之介にしてみたら、もうさっぱり意味がわからない。近年、スピリチュアルとか言う領域で「全ては必然です」と考える思想が流行っていたようだが、一方では「全ては偶然でしかない」というフランスの現代思想もあるらしいし、後者に従うなら、こんな風に似たような、しかもさかさまなことがぴったりと重なって届けられたとしても、結局のところたまたまでしかなく、あほらしやと受け流してもよいのだが、いつになくそうはできない気持ちでいた。
 一之介は小説『無人島の二人称』を事務所の棚に置き、二階の生活空間に移動してシャワーを浴び、そのままソファベッドに横になった。
 午前五時二十五分。今日は仮眠程度で起きるしかない。三時間もすれば親愛なる友人のマチ子か、あるいは彼女が経営するバー《タウンチャイルド》で働く従業員の誰かが来て、「こんなところで眠っても疲れがとれませんよ」と叱るだろう。まだ還暦を少しばかり過ぎただけなのに年寄り扱いして、交代で安全確認にやってくるのだ。やや鬱陶しいが、朝飯を置いて行ってくれるので文句は言わない。
 朝飯と言っても、マチ子の店で出した料理の残りを朝食風に仕立て直して折り詰めにしたものか、それが完売してしまった日には、改めて作ったソース焼きそばのどちらか。どうしてソース焼きそばなのかはわからないが、細切りのピーマンとやたらと濃いピンク色を添加したソーセージが入って、悔しいが旨い。マチ子の店からは自転車ですっ飛ばせば十分もかからない場所にあるので、真冬でもなければ届けられた時にはほのかに温かく、朝が苦手な一之介もこの時ばかりはさっさと起き出して、顔も洗わずご馳走になる。
 一か月前にソース焼きそばを届けてくれたのは金のピヤスをした痩せ身のぶっきらぼうで、なんでこんなジジイに飯を届けなくっちゃいけないのだと言いたげに一之介を見た。なんでこんなジジイに――と思われても、一之介にはどうとも言えない。これはマチ子側の取り決めであり、八田一之介側の主体的要望ではないのだから。

 その時、痩せたぶっきらぼうはタクヤと名乗った。色白で細長い指を持つ。朝飯を受け取る時、こちらの武骨な手で傷をつけないようにと慎重になってしまったほど繊細な手の持ち主なのだが、マチ子に聞くと、意外にも「タクヤはDIYが得意」なのだそう。天井の羽目板を外してまで水道管をちょいといじって、店の水を浄化水に変えてしまったと言う。浄化のための石か何かを挟み込んだらしいが、八田一之介はそういった配線や配管関係は苦手なので、その手際よさを詳しく聞いてもどれほどすごいのかはわからない。いずれにしても、その後、店の水道水で作る氷が格段に美味しくなったらしく、マチ子曰く「客にはそんなこと言わないのに、高い方のスコッチがよく出るようになった」そうだ。「お客様は神様だと言うけれど、お客様ってのは単によく知っていて、正直なだけ」らしい。
 タクヤの指があまりに白くて細かったのが記憶に残ったので、ピアニストか画家の卵だろうとマチ子に聞くと、
「アーティストという意味では外れてはいないけど、メディアアーティストよ。それに卵ではなくて、もう列記としたメディアアーティストなの。卵としての修行なんかいらない。そういう時代」
 と言った。アーティストとして売れていないから生活費を稼ぐために店で働いているわけではなく、「魅力的な人と出会えるのはこの世界で酒場だけだから」とタクヤは言ったらしい。人手が足りなくて忙しいから店に入る回数を増やしてくれないかとマチ子が頼んでも、タクヤは週に一回か二回しか出勤しない。
「じゃあ、彼は何で飯を食ってるの?」
 一之介が聞くと、
「だからメディアアーティストとして生きているって言ったじゃない」
 とマチ子は笑った。
「メディアアーティストとやらで食えるの?」
「食えてるらしいわよ」
 まじか。華奢な風貌でこちらを睨んでいる姿を思い出す。配管工事もちょちょいとやる。できるやつなんだな、ああ見えて。

 今日あたり、またあのタクヤが来るだろうか。それとも、他の――。
 一之介がそのままソファベッドでうつらうつらしていると、「失礼します」と扉が開いた。もう八時半過ぎ。朝食配達だ。
 立っていたのは、これまでに見たことのない大柄な三十歳前後。新入りかと聞くと、ここに来たのが初めてなだけで、店には五年もいると言う。名前はフミヤだと言う。
「藤井フミヤみたいだな」
「母が歌手の藤井フミヤさんのファンです」
 まだ若すぎる繊細なタクヤとは違って、ある程度世間を知っている年齢のせいなのか、終始ニコニコしてこちらを下にも置かない物言いをするが、ちらちらと壁の時計を見て早く帰りたそうにする。
「早く帰って眠りたいのか」
「この後、コンビニで仕事です」
 フミヤは相変わらずの笑顔で言う。
「マチ子の店で仕事して、それからまたコンビニだと大変だな」
「マチ子さんの店は趣味ですから」
 やはり笑顔を崩さない。
「趣味って?」
「ヤツらと会ったら楽しいから」
 ヤツらとは従業員たちの事だろうか。
「趣味って、まさか金もらってないの?」
「いただいています。ほんのちょっぴり」
 フミヤが親指と人差し指で一センチほどの隙間を作って見せる。一瞬の沈黙の後、おかしくなって二人で吹き出した。
「マチ子はケチだからな」
「はい。ケチです。でも、飯が旨いので、従業員は損しません。あれを食いたいと思ったら、普通、家庭を持たなきゃ無理だし、そんなの莫大な金がかかりそうだし、今時は家庭持ったからってそんな家庭料理食えないだろうし」
「自分で作ってみようとは思わないの?」
「僕が作ると、もっと洒落た感じになってしまいます」
 また一瞬しんとなり、大笑いした。
「だけど、あれが旨いのだよね」
「はい。僕が作ると、ああはなりません」
 また二人して笑った後、フミヤはコンビニの仕事に行くと言って出て行った。
 届けられた折り詰めの蓋を開けると、おにぎりと卵焼き、青菜のお浸し、山菜の煮物などがぐしゃっと偏りながら入っていた。確かに。フミヤの言う通り、これは、金を出してもなかなか買えないだろう。ありがたく頂戴する。出汁が利いていてなかなか旨い。
 綺麗に食べ終え、事務所に降りて行き、軽く掃除を終わらせ、お茶でも飲もうと急須に茶葉を入れたたところで、電話が鳴った。重要業務用の回線だ。着信番号を見ると浅田刑事で、受話器を取ると、いつも通り、せっかちなオレダアサダダの声が聞こえた後、すぐに要件に入った。
「早速今日から金指まるみとノートの確認作業やることになった」
「浅田刑事、金指まるみさんの件の担当になったのですか」
 いつもは窃盗や万引きを担当していた彼にしてみたら、なんとなくファンタジックではないか。「意外な感じがしますが」
「実は俺って、窓際に追いやられてるんじゃないの」
 こちらの気持ちを察したかのように、浅田がふざけた調子で言う。
「浅田刑事憧れの高村薫からは程遠い事件ではありますね。黄金を抱いて飛ぶどころか、二十四歳、バンビのTシャツを着て迷子ですから」
「八田さん、俺の事ならともかく、金指まるみのことを茶化すのはやめてください。彼女は被害者なんだから。確かに我々の感覚からするとバンビのTシャツは幼いかと思いますが、今時は年齢や性別とファッションをリンクさせないのが普通」
 浅田は急に真面目な調子になった。
 ――まあ、そうだな。反省。
「ノートの確認、まるみさんの家でやるのでしょうか」
「まだ決めてない。彼女は午後二時までコンビニの仕事だから、場所はそれから決めようかなと思って。と言っても、警察の取調室ってのもなんだかおかしいし。まあ、本心としては――」
 なんとなく口ごもっている。なるほど。浅田刑事は事務所の一画を貸してくれと言いたいのだろう。珍しいことだ。
「警察署というのは一般人には馴染まない場所ですから。それに、まるみさんが行方不明状態から戻ってきてすぐの時、いろいろと事情聴取したのは警察署だったでしょうから、彼女はあまりいい印象を持っていないかもしれませんね。『話を聞いてくれなかったじゃない』と浅田刑事のことを睨んでいましたよ、この前」
 一之介は察しつつも、直ぐに部屋を貸すとは言わなかった。
「お恥ずかしいことです。でも、実際、あの事件の直後、まるみさんはやたらと元気に帰って来ていたわけだし、心身ともに健康な状態だったから」
「それにしても、いやな思い出のある場所でノートを確認するのはまるみさんが気の毒です。警察署以外に場所を探した方がいいでしょう」
 敢えてこちらから、場所をどうぞと名乗り出ない方針だ。そういうことは、今後の為にも気安くない方がいい。
「いやあ、言いにくいのだけどね」
 浅田は小さく咳をした。「もしも今日、八田先生の方でクライアントとの会談が予定されていないのであれば、八田先生の応接室をお借りできませんでしょうかね」
 先生だの応接室だのといつになく持ち上げる。この事務所には応接室というほどのものはない。ごった返したデスクの隣に窮屈そうに置いた古いソファセットがあるだけだ。
「ルノアールとかカヅマの応接ルームじゃだめなんですか」
 もったいぶってみた。
「喫茶店を信用していないわけじゃないけど、来ている客にどんな無線盗聴マニアがいるかわからないからね、通常会議ならともかく、事件の取り調べに民間の会議室を使うのは一応禁止されているんだよ」
 そう言われると引き受けるしかない。八田事務所の盗聴防止システムは浅田刑事が担当してくれている。顧問料を安くする代わりに、プロ中のプロの技で防御システムを設置してくれた。時々、保安とメンテナンスも無料で行ってもらっているのだ。だからと言って――。
「今後、いつでも使われるようになったら困ります」
 率直に言い、「でも、まるみさんの事件に限っては認めましょう」渋々ですよと匂わせてから承諾した。

 午後三時を過ぎた頃、浅田と金指まるみが事務所の扉を開けた。
 浅田はいつも通りのよれた灰色のスーツ。ずっと同じスーツを着ているように見えるが、同じ色形のものを何着も持っていて、クリーニングには頻繁に出しているらしい。「こんな仕事では、どうあがいても気分のいい場所に出掛けることはないので、デザインも色もこれ一つでいい」というのが浅田の言い分。「カルマがどうとか教える新興宗教では犯罪者も刑事も同じ穴のむじなと言うらしいじゃないか」と苦笑し、「刑務服と色を合わせることで、僕は最初から全ての者に謝っているのだよ。俺だって刑事になりたくてなったわけでもないけれど、犯罪者だって最初から犯罪者になりたくてなったわけじゃないからね」とか。
 金指まるみは浅田刑事の後ろに隠れるように立っていた。アディダスのロゴが入った黒のジャージの上下。昨日と同じリュックを背負って、手にはコンビニの袋を下げている。
「これ、よかったら食べてください」
 受け取って、中を見ると栗饅頭とみたらし団子が入っていた。「コンビニのですみません」
 ありがたく頂戴する。コンビニのレジ付近によく置いてある和菓子だ。小さな羊羹や大福餅が何となく目に入るものの、一之介は買ってみたことがなかった。こうして手元にやってくると、実は食べて見たかったような気もする。「お茶を淹れますよ」
「もうしわけないです」
 まるみは、初めて会った時以上に、無表情だった。
 浅田刑事と金指まるみの二人は向き合って座り、問題になっている日記がしたためられているノートと、そのコピーらしき書類の束をテーブルに置いて、さてやりますか、と読み込みを始めた。
 日記のノートは昨日とは違い、もうビニール袋に入っていて、中を見たい場合には手袋をはめなければいけないらしく、まるみは白い手袋をはめてそっと頁をめくっている。ノートに残された指紋が金指まるみ自身のものでもなければ、彼女の周辺にいる誰のものでもないことはわかっている。この指紋を持つ人間が本件の重要な鍵を握ることは間違いなく、そうなると、日記は現段階において、この事件に関する唯一の証拠物件だと言える。最初からこのようにビニール袋に入れて証拠扱いにすべきだと思うが、昨日の面談の後、やっと丁重に取り扱われるようになったのだろう。
 まるみは手袋をはめて実物を読み、浅田刑事はコピーの方を読んでいる。
 八田一之介は二人が作業を始めたのを見た後、黙ってデスクに戻った。今日は場所を貸すだけだ。意見を問われない限りは口を挟む必要もない。まだ一之介自身の通常業務も残っていた。加藤陽一郎に言った通り、辣腕探偵だからひっきりなしに大型案件が舞い込むのも嘘ではないが、それだけで生計が成り立つわけではない。小さな仕事もやらなくては。
 些細な通常業務とはなんでも法律相談。ちょうどその時はある老人が知らない間にオレオレ詐欺の集団に銀行口座を貸してしまった件で、その息子からどう対応したらよいかと相談されていた。銀行に事情を話して口座を閉じるだけでいいと思ったが、振り込まれたままになったお金が数百万あり、もはや誰のものかもわからない状態で放置されていると言う。バレそうになったので引き出さずに逃げたのだろう。ひとまず入出金のできないように処置をして凍結し、警察に出向いて事情説明するのがよいと思うが、当の老人は認知症が進んで犯人とのやりとりの記憶も曖昧だから説明しようもなく困っているのだった。お金を盗られた側でもないのだし、放っておけばいいのではないかとも思うが、息子としては「もしも爺さんが死んだら、相続して受け取らなくっちゃいけないのかと思うと生きているうちにはっきりさせておきたい」そうだ。事件性のありそうなものに関しては部分的な相続放棄ができるのかなど、面倒な調べ物をさせられている。一度でも解決して見せると、一之介自身は行政書士で弁護士じゃないから他の事務所へ行くようにと言っても、気心が知れた人じゃないとこんな話はしにくい、などと言って、次々と身内の相談を持ち込む顧客が多い。あまりに難解なものに関しては、一之介が話を聞いた後、一之介の兄が経営している弁護士事務所の方に処理を回すのだが、状況説明を文書にするところまでは一之介の担当だ。きちんと文書にさえしてあれば、弁護士事務所での解答は簡単なものらしい。実際、法律のことをよくわかっていない素人から事情を聞き出すのが大変なのであって、たとえ法律関係の仕事が人工知能で片付けられるようになったとしても、こんな相談業務だけはなくならないだろう。よって、一之介には食いはぐれることがない自信が大いにある。

「ここはちょっとおかしい」
 まるみが言うのが聞こえた。
「どこ?」
 浅田が覗き込んでいる。
「アニメのイベントに行った日の記述。この時、確かにグリーンのクリアファイルを買ったし、グリーンのキーホルダーを買いました。着ていたTシャツもグリーンです。だけど、ここに『望んでいた通り、グリーンのクリアファイルとキーホルダーを入手』と書いてありますけれど、特に望んでいたわけじゃありません」
「なんでもいいやと思って買ったの?」
「本当はピンクが欲しかったの。だけど、列の目の前の人のところで、ちょうど両方ともピンクが売り切れてしまって、それでグリーンにしただけ」
「他には何色があったの?」
「ブルーとオレンジです」
「その三つの中ではグリーンがよかった?」
「そうでもなくて、クリアファイルとキーホルダーの両方とも残っていたのが、グリーンだけだったから。色が揃っていた方がいいかなと思って。たまたまTシャツもグリーンだったから、そういうことかなーと思って仕方なく選んだのを覚えています」
 浅田はコピーのページを繰って、該当する場所を探し出し、赤ペンで傍線を引いてまるみの発言を書き込んでいるようだった。
「そのイベント、誰かと一緒に行った?」
「いいえ、一人です」
「だけど、そのファイルやキーホルダーを買っているところを、この日記の創作者は見ていたということだな」
 浅田は栗饅頭の包みを開けて食べ始めた。
「そうなりますね」
 まるみは天井を見つめた。
「気持ち悪いな」
「それは、そうですね」
 まるみははめていた手袋を外し、グラスに入った麦茶を飲み干した。
 浅田刑事と金指まるみの二人が一時間ほどかけて一字一句逃さないように日記を読んだ結果、色に関する記述のところで事実との不一致がいくつか見つかった。それ以外にも「お気に入りのラーメン屋」という記述があり、「特に塩ラーメンが好き」とされているけれど、まるみにしてみれば、その店でバイトをしていた青年が好みのタイプだったので通っていただけで、ラーメンそのものは好きでもなく、むしろ苦手で、塩ラーメンなら食べられるから選んでいただけだったらしい。そして、その青年がバイトを辞めてしまってからは全く行かなくなった。
「まるみさんがとった行動の記述には間違いがないけれど、内心の好みを表す記述が入っている場合には間違っていることが多いのだな」
 浅田は赤ペンでテーブルをこつこつと叩いている。
 八田一之介は「認知症老人の怪事件の文書」を作成し終えて兄の事務所に添付メールを送り、秘書に電話を入れて届いたかどうかの確認をしてもらった。後はよろしくと言って投げる。下請け料を頂戴しているが、儲かっているらしい兄の事務所からすれば経費みたいなものなのだろう。いずれにしてもこちらは助かる。
「八田さんはどう思いますか」
 少しくつろいでいるのを見計らって、浅田が尋ねてきた。
「どうって?」
「日記の内容は、なんらかの好みを示している箇所だけは、事実とは異なっているらしい」
「それは聞こえていましたよ」
 一之介もソファに移動し、浅田の隣に座った。栗饅頭をひとつ手に取る。「グリーンはそれほど好きでもないし、ラーメンはどちらかと言えば嫌いなのでしょう?」
 まるみは、そうです、と頷いた。
「昨日仰っていた『さやか』という女性のいる異世界に行っている間に、好みが変わってしまっていたのに、ご自身が気付いていないという可能性はありませんか。今、グリーンもラーメンも好きではないと思い込んでいるけれど、実際、それより前でしたら、やっぱりグリーンや塩ラーメンがお好きだった、とか」
 昨夜読んだ小説『無人島の二人称』であれば、被害者は神隠し事件後に何もかも人格変容していたのだ。現実に起きた神隠しだって、ほんの少し変わってしまったことくらいあり得るだろう。「念のために、ご両親や友人に聞いてみたらどうでしょうか。私は昔、何色が好きだったかとか、ラーメンは嫌いだったかとか」差し出がましいと思ったが、提案してみる。「まるみさんを疑っているわけじゃないですよ。しかし、異世界というものの魔力を考えてみると、何か、その前後で変わってしまったことがあってもおかしくはないし、それに、今日、違和感を持ったところから、何か次なる手掛かりが生まれるのかもしれません」
 浅田とまるみは、なるほど、と言って、互いに顔を見合わせて何度も首を縦に振っていた。
「私、すぐに母に聞いてみます。もうパートから帰ってきている時間だから」
 まるみは頬を紅潮させ、いくらか興奮して見えた。慌てた様子でリュックからスマートフォンを取り出している。
「何も急がなくてもいいんだよ」
 浅田も一之介もそう言って、いったん落ち着かせようとしたけれど、
「いいんです、知りたいんです」
 振り切って、まるみは母親に電話を入れた。
 二、三回だけ呼び出し音が鳴った程度で母親は電話に出たようだった。まるみは状況を説明し、
「だって、私自身が知りたいのだから」
「そんなの自由でしょ」
 苛立ちを露わにした声を出している。察すると、まるみの母親は娘が浅田刑事と日記を調べていることについて、あまりいい気がしないようだった。
「わかった。状況は後で説明するとして、ちょっと聞きたいんだけど――」
 まるみの方が少し折れて、グリーンとラーメンが好きだったかどうかについて、どうにか母親に確認するところまで漕ぎつけたようだった。
「え、そうなの? そんな風に思われていたの?」
 まるみは声を尖らせた。「ちょっと待って」
スマートフォンを耳から離し、浅田と一之介の方を見た。
「母が、まるみは緑も、ラーメンも、大好きでしょ? だって。驚いちゃった」
「お母さまが、そう仰るの?」
 一之介が言うと、まるみは頷く。
「そんなの家族全員、ずっと前からそう思ってるはずって」
「お母さまの勘違いかもしれないよ。他の家族にも聞いてみた方がいい」
 浅田が言うと、
「ちょうど弟が帰ってきているらしいから、電話、替わってもらう」
 とまるみは言い、電話口に弟が出たようだった。
「ええっ、マジで」
 まるみは目を大きく見開いて、高い声を出した。「ショウ君までそんなこと言うの?」もはやがっくりと肩を落として、「わかった。うん。すぐに帰る」弱々しく言い、電話を切った。
「弟も、母と同じ意見でした。私は何よりもグリーンが好きで、だから私の部屋のカーテンもグリーンにしてあるし、シーツやタオルケット、パジャマもグリーンになっているらしい。そう言えば、そうだ。部屋は全部緑だ。モスグリーンだけど。これまでは目に優しいからそうなっているのかと思っていた」
「ラーメンはどうなの? 他の家族はまるみさんがラーメンを好きだと思い込んでいるのでしょうか」
 一之介はまるみの紅潮した顔を見つめた。
「ショウ君の話では、外食する時、私が参加する場合には暗黙の了解的にラーメン屋に行くことになっているんだって。家族と外食と言えばどうしてラーメン屋ばっかりなのかと思っていたけど」
 悔しそうに上下の唇を強く合わせている。
「家族はそんな風に思っているとして、じゃあ、家族以外の人は、そんな風には思っていない可能性もあるってこと?」
 もしそうだとしたら、日記を書いた人は、まるみが緑とラーメンを好きだと思い込んでいる家族のうちの誰か、ということになるだろう。
「そのはずです。友人にも聞いてみないとわからないけれど」
「じゃあ、今度、知り合いという知り合いに、私は緑とラーメンって好きだったかしらと聞いて回って、結果、どうだったか教えてください。続きはそれからやりましょう」
 一之介は時計を見た。午後五時前。この後、用事もないが、あまりにセッションが長くなると緻密な考察ができなくなる。「家族や友人、学校の先生など、連絡の取れそうな人全員と連絡を取って、聞いておいてください。それができたら、次に進みましょう。遠くにいるお祖父ちゃんやお祖母ちゃん、従妹などがいたら、その人たちにも確認してください」
 浅田刑事と金指まるみは丁寧にお辞儀をして帰って行った。

 一之介はデスク前に座り直し、金指まるみの何もかもが不本意だと言いたげな表情を思い出した。先日、異世界に行っていたと話した時だけは生き生きとしていたが、それ以外ではずっと、大きな目をもっと見開きながら、隙あらばこちらの思惑を跳ね返そうと防御している。
 それにしても、この世に緑とラーメンを毛嫌いする人間がいるだろうか。特に好きでなかったとしても、ちょっとした言動で、あの子は緑とラーメンを好んでいると思い込まれたまま、相応の大事件でもあって否定されなければ、そのまま惰性で時間が過ぎてしまうことくらいありそうだ。金指まるみにとっての緑とラーメンもそうだろう。こんな事件でもなければ、誰にとっても気にもならないような、それが好みかどうかのジャッジ。
 ――取るに足らない。のか?
 一之介はデスクに置いてあったボールペンを取り、その先でこめかみを軽く叩いた。
 これは謎の『さやか』が金指まるみの目前に現れることによってもたらされた事件だ。もしもまるみに虚言癖があるとしたら、『さやか』なんて妄想の産物にすぎないだろうが、浅田刑事と一之介は信じてみることにした。唯一の事実として、日記に残された指紋とまるみのものは一致しない。その日記に、まるみは緑とラーメンが好きという間違った情報が書き込まれている。まるみ自身の日記としてだ。まるみが書いた記憶のない日記、まるみ以外の人の指紋が付着した日記。
 ――取るに足らないが、完全におかしい。のだ。
 小説『無人島の二人称』を読んだ後に考えたように、やはりパラレルワールドなるものが存在し、実はもう一人の金指まるみが居るならば、そのもう一人の金指まるみがあの日記を書いていて、まるみが異世界に行った時に出来た時空の割れ目から、ふとこちら側に紛れ込んでしまったとでもいうのか。まるみがさやかと過ごしている間、もう一人の金指まるみは日記と共にこの世界のどこかに落っこちて、小説の中の被害者のように静かに息をひそめていたとか。
 それにしても、あれから加藤陽一郎からの連絡はない。小説『無人島の二人称』を読むようにと無理矢理デスクの上に置いて、逃げるようにここから出て行ってから、一週間も過ぎている。もともと頻繁にやって来る人間ではなかったが、大事な原稿を他人に預けたまま連絡もしてこないなんて、彼には似合わない。メールを入れても返事はない。
 一之介は加藤陽一郎の携帯に電話を入れてみた。相変わらず「この電話番号を呼び出しましたがお出になりません」が繰り返される。
 ――こういう人間だったけ?
 そもそも連絡の取りにくいタイプなのか、それとも今現在、こういう状況になってしまっているだけなのか、一之介にはわからなかった。加藤はフリーの編集者だから所属している組織もなく、連絡を取るには個人のメールかスマートフォンしかない。さやかと遭遇した金指まるみのように、たとえ一瞬でも神隠しに遭って、この世界から消えているのだろうか。
 そこで一之介は、あっ、と小さく声を出し、こめかみを叩いていたボールペンの動きをぴたりと止めた。加藤陽一郎が小説を届けに来た時に言った言葉が思い出されたのだ。
 ――いずれにしても神隠し事件の謎がわかれば、現実になる前に対策が打てるというものだ。なんだか、現実的に誰かが、神隠しに遭いそうな気がしてしょうがない。だから、とりあえず読んでくれないかとお願いしているのだよ。――
「この小説、へたくそだけど、事実なんだ」と言った時の、彼の表情もじわりと心に浮かんできた。
 雨が降り出したようだった。
 いつもは事務所の窓のカーテンは閉めたままだが、金指まるみが来るので不安にならないようにと珍しく開けて、そのままになっている。硝子に細い針のような雨の跡が増えていく。道行く人も傘を差したり、持っている鞄を頭に乗せたりして、足早に通り過ぎている。
 携帯が鳴った。
 番号を見るとマチ子からで、出ると、店に向かう途中で雨が降り始めたらから傘を貸してほしいと言う。
「近くまで来ているから、ちょっと寄ってもいいかしら」
「ちょうど仕事が終わったところだし、どうぞ」
 カーテンを半分だけ閉めながら言う。「やたら早いね。まだ五時半ですよ」
 マチ子の店は午後九時開店だ。彼女の店では主に二次会の客を相手にし、その代わり最後の客が帰るまで閉店にはならない。
「九時開店と言って、九時に行けばいいわけじゃないのよ。仕込みがあるでしょう」
「仕込み?」
 そんなにたいそうな料理があっただろうか。
「大した事ないくせにと思っているのでしょう?」
 察したのか憎らしそうに言う。「お通しとして出す小鉢の煮物を作ったり、キャベツを刻んだりするのよ。氷が不足していないかも確かめる」
「それにしても早くないか」
「まあ、そうだけど」
 マチ子の電話から車が通り過ぎる音がする。どこかで雨宿りしながら電話しているのだろう。傘くらいコンビニで買えばいいのに。ビニール傘は客に貸すこともあるはずだから、何本あっても邪魔にはならないはずだ。
「時間あるなら、うちで夕飯食ってから店に行けよ」
 きっとそのつもりなのだろう。
「いいけど、珍しいわね。八田さんからのお誘いなんて」
 期待していたくせに。
「雨音を聞いていたらなんだかひとりぼっちが空しくなってね」
 柄にもないことを言ってみた。
「材料、なんかあるの? 料理なんかしないでしょう」
「蕎麦屋に持ってきてもらうよ。雨が降っているったって、小雨だからいいでしょう。近いし、いつも贔屓にしているのだし。親子丼セットでどう?」
 そう言うと、マチ子は急に笑い出した。
「何がおかしいの?」
「八田さんの事務所で、蕎麦屋の出前の親子丼って、なんだか風情がありそう。じゃあ、行きます。注文しといてよ」
 十五分もしないうちにマチ子は現れて、やや強く降り始めた雨に頭や肩は濡れそぼっていた。鞄からタオルを出して掃うように拭いている。そこへ親子丼セットも届いた。急須に茶葉を入れ電気ポットで沸かした湯を注ぐ。
「今朝、朝飯を持って来たフミヤはマチ子の店で長く働いているそうだけど、これまでは一度も見なかったね」
「あの子は厨房をやってくれているの。店が終わっても厨房の掃除があるから最後まで帰れないことが多くて、朝食のお届けは他の子に頼んでる」
 マチ子はソファに座って、さっそく親子丼の蓋を開けている。「おいしそう」
 親子丼の出汁の香りが事務所内に漂い始める。
「蕎麦も伸びたらまずくなるから、早く食べて」
 湯のみに注いだお茶をテーブルの上に並べた。「朝飯の配達は気が向いた時だけでいいよ。なくてもコンビニで何かを買えばどうにかなるから」
「ダメよ。あなたのお母さんとの約束なんだから」
「いいよ、もう亡くなった人との約束なんて」
 嘘か本当かわからないのだが、一之介の母が病気で亡くなる時に、マチ子に百万円を渡して、朝飯配達を依頼したと言うのだ。確かに母は、一之介とマチ子が恋仲だと誤解したまま死んでいった。「それに、百万円分をとっくに越えているでしょう」
「嫌だって言うのならやめるけど」
 蕎麦の鉢を両手で持って、ずずずと汁を吸っている。
「嫌なわけないけど、悪いじゃない」
「いいの。残り物整理なんだから」
 一之介は合わせた掌の親指と人差し指の間に箸を挟んで、「頂きます」と軽く頭を下げ、親子丼を食べ始めた。濃い目の出汁がご飯に染みて旨い。
「マチ子が嫌じゃないのならいいけど、なんなら金払おうか」
「ケチな事言わないでよ。こっちも好きでやっているのよ」
「ならいいけど」
「今朝ここに来たフミヤの作るビーフシチューは美味しいわよ。あの子、昔、老舗の洋食屋で修行していたのよ。たまには店に来たらどう?」
 またその話か。
「夜は仕事がたくさんあってね」
 体裁よく断った。酔っ払いのたくさんいる店で酒を飲むのは好まない。家で黙って飲むのがいい。
「八田さん、昼も働いて、夜も働いてるの? 無能な人みたい」
「マチ子だって似たようなもんでしょ。夜から働いて、家帰ってブーケ作って、また夜、仕事に行くんでしょ?」
 マチ子はバーの仕事以外に、近所のフラワーショップから届けられた満開過ぎの花を、花器や花籠にアレンジして、商店街の店に届ける仕事もしている。花屋が一般の人に向けて売るのは蕾から二割程度開いたものだけで、少しでも日が経ったものはまとめて安売りにするか、近辺の店舗用に組み立てて捌いてしまうらしい。商売をする店は毎日違う花を飾りたいものだし、一般の家庭では活けた花が徐々に咲いていく様子を楽しみたいものだからだと言う。
「ブーケは趣味みたいなものよ。さすがに従業員と酔っ払い連中とばっかり接していると滅入るから」
「僕も一緒。あちこちから持ち込まれた難題ばっかり解いていたら、脳がコンピュータになりそうだよ。なので夜は別の仕事」
「何?」
「秘密」
「スケベジジイ」
「何勘違いしてるの。高尚な仕事ですよ」
「怪しい」
 マチ子はそっぽを向いた。「それより、なんかおもしろい事件とかなかったの?」
「ありますよ。目白押し」
「例えば?」
「言うなよ」
「言う訳ないじゃん。言ったら聞けなくなるでしょう。言わないから教えてくれるんだから。そうでしょ?」
「まあ、そうだな」
 マチ子だけには時々、問題ない程度に話す。そうでもしないとやっていられない。
 加藤陽一郎からもたらされた小説のことは言わず、金指まるみの件を少しだけ話した。
「ある女性が、ある場所で神隠しに遭い、二週間ほど彼女自身も本人であることを忘れて、さやかと名乗る女性の家で過ごし、また、神隠しに遭った場所で発見され、発見された途端、女性は忘れていた自分自身であることを思い出した、という不思議なお噺。まあよくある奇譚めいたものと言えばそうかな」
「それ、さやか伝説じゃない?」
 マチ子が瞳をキラリとさせる。
 え? 知っているの? 「どういうこと?」
 マチ子が言うには、若い人たちの間で、「さやかに遭遇すると神隠しに遭う」という伝説が広まっているらしい。
「若い人って?」
「十代から二十代前半くらいって言ってたかな」
「そうだな。そう言えば、その女性の年齢もそうだ」
「昔あったでしょう? 口裂け女とか。怖い怖いって誰かが言い始めて、小学生たちが本当に怖がって登下校も集団でするしかなくなったほどのデマ」
「さやかはデマなの?」
「そうじゃないの。だって変でしょ。さやかに遭遇すると神隠しに遭う、だなんて」
 マチ子は食べ終えたらしく、テーブルの下に置いてあるティッシュを取り出して口の周りを拭いていた。
「マチ子は誰に聞いたの?」
「タクヤ。前に来たでしょう。配管工事の得意なメディアアーティスト。ユーチューバーとは違うそうだから気を付けて。ユーチューバーって言うとあの子怒りだすのよ。この前もマー君と喧嘩になりそうになって、大変だった」
「タクヤはどう言っていたの。さやか伝説はデマだって?」
「そりゃ、そうじゃないかな。そう言っていたと思うけど」
「思うけどじゃ困るんですよ。マチ子がデマっぽいなと思って聞いていたから、そう聞こえたんじゃないの」
 一之介も食べ終えて、ぬるくなったお茶を飲んだ。
「思うけどじゃ困るったって、私の店はああ見えていつでも大繁盛なのよ。いちいちタクヤの話だけを真面目に聞いてばっかりはいられないのよ。水割りくれーとか、乾きものはないのーとか、あっちこっちからずっと呼ばれるんだから。それにタクヤは客と話していたのよ。客の方が言い出したのか、タクヤの方が言い出したのか、どうだったかも覚えてない」
 マチ子は時計を見て、「あ、ヤバイ、行かなくちゃ。私が店の鍵を持っているのよ。いつもはフミヤが持っていて開けるんだけど、彼には、今朝ここに来てもらったから、私が店出るの最後になって鍵持ってるんだった。あの子、待たせちゃうとよくないわ」立ち上がって、半分閉めていた窓のカーテンを開け、外を見た。
「やだ、雨止んでる」
 彼女の言う通り、道行く人は傘を差していなかった。
「じゃあ、傘はもういいね」
「残念だわ。借りたら、返しに来る口実ができたのに」
「嘘つけ。何本も貸したけど、返してもらったことないよ」
「そうだっけ」
「それに、口実なんかなくてもいつでも来てくださいよ。今度、僕も店に行きますよ」
「あら、珍しいじゃない。さっきは夜も仕事だって言ってたのに」
「タクヤが来る日、教えてよ。それとなく、さやか伝説のこと聞いてみるから」
「ああ、そっち? いいわよ。要は仕事ってことでしょうけど、それで来てくれるなら嬉しいわ」
 マチ子はそう言うと、事務所の鏡の前で堂々と口紅を塗って、ご馳走様、と出て行った。

 一之介は夜遅く、寝室でお気に入りのバランタインを舐めるように飲みながら、戦艦のプラモデルを組み立てを始めた。マチ子に言った「夜半の仕事」だ。他人に言わせれば趣味なのかもしれない。だけど、これをやらないと探偵の仕事で直観が働かなくなる。言い訳のように聞こえたとしても、一之介にしてみれば列記とした仕事だった。
 子供の頃から戦車や戦艦が好きだったが、戦争関係の本を眺めているだけでも母に叱られた。叱られるというよりはヒステリックに罵倒されて、一度は組み立ての途中だったプラモデルを叩き壊された。どんな任侠もののバイオレンス映画を見に行こうが、大人用のエログロ雑誌を読んでいようがなんとも言わないくせに、戦車や拳銃のおもちゃだけは禁止だった。
 今になってみれば母の言いたかったことはわかる。戦争は人類にとって最悪の狂気だ。その現実を知らない連中が、懐古趣味的にであっても娯楽に持ち込んではいけない。戦争は肯定された暴力だ。やくざもエログロも公権力には遍く否定されてはいるが、どういうわけか戦争に関しては明確な否定がない。時と場合によっては仕方がないと言わんばかりだ。まるで口ごもった子供のように立ち位置を曖昧にされている。そしてひとたび始まったら、あらゆる善を差し置いて肯定されてしまうのだ。一之介だって、そんなものを求めてはいない。
 しかし、わかってはいても、母から禁止されればされるほど、戦車や戦艦ものを集めることに心惹かれてしまった。もはやプラモデルの形や色、性能の個別の魅力などどうでもよくなっていたのかもしれない。灰色と紅、深緑色と茶色の色彩を見ると、母のヒステリックな声を思い出す。友人たちと裏通りのプラモデル屋に行って、その一番奥に隠されている戦艦シリーズを覗き見るときの、薄暗い鉄分の匂い。母を裏切っているという罪悪感が本能的な快楽の膨張に結びついていることの不思議を体験した。
 それ以来、戦艦の持つ意味とは無関係にやめられなくなった。同じようにプラモ趣味を持っていた友人たちでも、ある程度の年齢がくると飽きて止めていったのに、一之介だけは未だに続いてしまっている。そこは、金指まるみと共通点があるのかもしれない。レアマの友人たちがいつかは卒業していくアニメファンを、まるみはずっとやめられないでいるのだから。
 一之介は仕事で自衛隊の敷地内に入ることがあって、演習場のそばに置いてある戦車を見たが、初めて見る本物に期待を寄せたわりには、何も感じなかった。これが国防なのだ、人々を守ることの象徴だと観念的に受け取る以外には沸き起こるものは何もなかった。だから、人間を殺傷してでも戦うものと、一之介の快楽にさえつながりかねない罪悪感は無関係であり、恐らくは何でも許してくれた母の唯一の弱点と言える「戦争もの」が、心の隠れ家へと続く唯一の逃げ道として成立してしまっただけなのだろう。
 今は戦艦金剛のプラモデルの塗装。別に急ぐわけではないから、広げた新聞紙の上にパーツを置いて、ゆっくりと仕上げていく。何か月もかけて、やっと一隻。仕上がったらしばらく眺めるだけで、もう数か月。
 まったく無意味な趣味だ。一から木材を削って作る創造性もない。塗装すると言っても、キットに書いてある色を買ってきて塗るだけ。それを書いてある通りに仕上げる。子供の頃に買ってもらった雑誌に付いていた付録を組み立てていることと、さほど変わりはない。誰にも喜ばれない。あげようかと言えば喜ぶ子供くらいはいるかもしれないけれど、本当に戦艦プラモデルを好きな人間であれば、他人が作ったものを好まないから断られるだろう。
 なんの意味もない。ただの反抗だ。しかも届かない、ひそやかな、八田一之介の体内でちりちりと青い火が静かに燃える程度の、反社会的行為。
 テレビ画面では桂枝雀の落語を流している。プラモ制作の時には枝雀のDVDをつけっぱなしにしておく。ちょうどやっている落語は「ねこ」。飼っている猫が突然言葉を話すのだ。そして魚を買ってきてくれと言う。桂枝雀が主人公になったり猫になったりする。さっと入れ替わる。最後に、主人公の近所の人が現れる。それで――。ああ、身の毛のよだつ結論。枝雀自身、主人公、猫、近所の人、と、四人をさっと演じ分けている。見れば見るほど、寒気がする。いつ終わったのかわからない調子で終わって、何かはにかんだように消える桂枝雀。明らかに魔物に憑りつかれている。天才。身の毛のよだつ天才。
 細いパーツに接着剤を薄く付けて、ピンセットでそっと本体に乗せる。息を殺して乾くまで待つ。微妙な工程だ。
 ――金指まるみも枝雀のように、天才的に入れ替わっているのだろうか。まさか、指紋まで付け替えて。
 そっとピンセットを離す。
 ――よし、うまく乗った。
 バランタインはグラスの中の氷が解けて月明かりの色になっていた。

(第一章 2 「日記」に書き込まれた間違い 了)》

※ここまでの解説
 あらすじ。
 一之介は徹夜をして長編小説『無人島の二人称』を読み終えた。金指まるみの事件との関係について考察する。
 朝になると、一之介の友人マチコが経営する《タウンチャイルド》の従業員タクヤが朝食を届けに来た。マチ子の取り決めで朝食の配達は継続されている。
 その日、浅田刑事とまるみが事務所に来て、まるみの日記を丁寧に読み込む作業を始めた。まるみが書いたはずのないまるみの日記。どこかに違和感がないか。それはあった。まるみが緑とラーメンを好んでいると日記に書いているが、それは実際と異なった。やはり誰か他の人が書いたのだ。しかし、まるみの家族に問い合わせると、まるみは昔から緑とラーメンを好んだのだと言い、まるみは混乱する。
 夕方、《タウンチャイルド》を経営するマチ子が一之介の事務所を訪れ、一之介はまるみの事件について少しだけ話す。マチ子だけは親友として話してもいいことにしている。マチ子は「それ、さやか伝説じゃない?」と言った。さやかと遭遇すると神隠しに遭うとの都市伝説があるらしい。マチ子はメディアアートストでもある従業員のタクヤから聞いたと言う。
 一之介は夜、趣味である戦艦プラモの製作をしながら、まるみの事件について思いを馳せるのだった。

 さて。
 長編小説『ポワゾン☆アフロディテ№X』は長編小説『無人島の二人称』の解読をするものとして存在している。そして、長編小説『ポワゾン☆アフロディテ№X』で起きるまるみの事件は、長編小説『無人島の二人称』の状況と反転したパラレルワールドを思わせる。
 長編小説『無人島の二人称』よりも軽快なタッチで描いている。これは探偵小説の体裁を取っていて、八田一之介という探偵を登場させた。彼のバックグラウンドは小説『路地裏の花屋』の中西マウルと類似した設定となっている。
 金指まるみの好みについて家族が知らない、事実と食い違っている。こういった家族の思惑と本人の本心の食い違いについては、長編小説『無人島の二人称』では、立花敏樹と母親のモルモット占いに対する記憶の相違で描いた。どういうわけか、かなり近い存在として家族は存在するはずなのに、本人が思っていることと全く異なった理解をしてしまっていることはむしろ多いのではないか。

ということで、

小説はつづく。

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