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解読 ボウヤ書店の使命 ㉑-5

 私の制作歴の三作目『スカシユリ』を改めて読み直し、この十年、私は成長したのか退化したのかわからなくなった。
 一作目の『駅名のない町』、二作目の『キャラメルの箱』と続き、この三作目『スカシユリ』で確かに文章が飛躍的に小説らしくなっている気はする。佐藤洋二郎先生のクラスに出てみたり、新潮講座に出てみたりしながら、小説の書き方を学んだからだろう。
 私は心理学部出身で文学部出身でもないし、それまでに典型的な小説のスタイルを学んだことはなく、ただ書いてみたいとの思いで、一作目『駅名のない町』の「線路が一本ある」の一行目を書いた。学校などで書いた論文や作文などで高評価を貰ったことがあるから文章を書くのは得意だと思い込んでいたものの、小説を書くとはそういったものとは異なる視点や繊細さが要求されるものと知り、きちんと学ばなければいけないと思ったのだった。
 そこから十年、ひたすら書き続け、「売れもしないで読む人のいない小説は日記に等しい」とか、「宮部みゆきは凡人とは違って初めから上手かった」とか、凡人である私がへこむような話を何度も講座で聞き続けるうちに、このところ、次第にむしろ小説を憎むようになっていたような気がする。何を読んでも「どうだ、うまいだろう」と言っているだけに思えていた。
 改めて、そのような意地悪めいた言葉を聞く前の私の作品を読んでみると、下手かもしれないが小説を愛していたのだとわかる。
 しばらく、佐藤洋二郎先生のクラスは休んだ後、数年前に復帰していくつか短編を提出したことがあったが、その時、佐藤洋二郎先生が、
「これはなんとなく、どうだ、うまいだろう、と言っている感じがする」
 と仰って、
 ――下手じゃなくてはだめなのか。
 と内心で反発もしたのだが、今、改めて初期作品を読んでみれば、私が講座で学ぶ間に、小説の何を読んでも「どうだ、うまいだろう」と言っているだけに思えるようになっていたことと並行して、自身も「どうだ、うまいだろう」と言いたそうな作品を目指してしまっていたことに気付いた。
 今、こうして俯瞰して見れたからよかったのだ。
 
 ところで、この『スカシユリ』の中に「黒い犬」が出てくるが、近頃私が頻繁に足を運んでいる森に行くと、時々、黒い犬と出会う。繋がれていて散歩中なのだが、その犬は私が歩いているとコートの先っぽをそっと噛みに来たり、コートを着る季節以外にでも通りかかると振り返ってまで私の顔を見続ける。
 ――知り合い?
 と、私も振り返ってまで見つめる。
 改めて『スカシユリ』を読むまでは、「どこかで会ったことのある感じがする黒い犬」としか思っていなかったが、ああ、なるほど、小説の中に居たのか、とここ数日納得してしまった。(個人的に、勝手にジョーカーという名を付けた。
 犬はタロットカードでは月のカードで月に向かって吠えているので、小説の中で黒い犬が吠えていた光る飛行物体はUFOではなく月だともいえる。ハトコの母親については何もわからないが、家族や近所のことで苛立っているハトコに対して光を放ったのはどこかにいる母親なのかもしれない。産んだ母親とは別の存在かもしれないが、太陽の反射と言われている月の威力がハトコを癒し、変容させたのだ。

 私はこの小説を書いている時、スカシユリにどうして匂いがないのかについてよくわかっていなかった。なんども主張してきたが、シュルレアリスムの技法で書いているので、私の小説は天から降って来た言葉を拾ったものなのだ。しかし今ならわかる。昨日(2023年5月19日)書いた通り、スカシユリはSNSで知った「ユリゲラーさん」のプラズマティックエナジーと意識交流のことだろうと思われ、それゆえに匂いがないのだ。遠隔による高次元の交流には匂いはない(低次元ならば遠隔でも匂いはある)。
 タロットの月のカードには下から上がってくるザリガニも描かれていて、無意識領域からの侵入を表すとも言われているらしいが、スカシユリはどこかザリガニの姿に似ている。(『スカシユリ』の解読了)
 

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