もし人間の本質がお金で決まっていたら

もし人間の本質が実存よりも先に決まっていたらどうなるだろうか。


もし人間の本質が予め決まっている時、非常に窮屈な人生となることを以下で示したい。


例えば人間の本質が、お金をより多く稼ぐことだとしよう。

では、それを人間の価値としたときに、価値の大きさは、いくら稼いだかが最も優先的に尺度として用いられることになる。こうして数字という比較可能なものに価値が測定された時、人間の価値は金額の大小で比較され、明確に客観的に優劣が決定されそれが可視化されることとなる。

「お金が大切だ」「お金を稼ぐために生きている」「人生における優先順位はお金が最も高い」といった価値観を持っている人間は、明示的にか暗示的にか上記のような優劣を意識していることになる。

ただしここで注意したいのは、それを価値観の1つとして存在を認めるべきものであり、資本主義か社会主義かといった世の中に多く存在する価値観の2極化に基づく一方の肯定と他方の排除を行ってはならない。


価値観というのは、周りの環境の影響を幾分受けることはあっても、自分が選ぶものでありその責任を追うのは自分自身である。その価値観を選んで行動した結果を受けて、その価値観を続けることも価値観を変えることもまた個人の自由である。


上記のようにお金の大小で人間の本質を捉えると、自己肯定感の強弱を決めることを価値観として選ぶこととなるだけであり、それを自分以外の他人に強制することはが間違いなのであり、その価値観自体が間違いであるということはない。

ただ、お金は本来の意味でのツールであることを別の方向に伸ばして解釈し、人間の価値を測定するものとして用いている価値観が、20年前と今日と20年後で同じように人々に通用するかどうかは不確実であり、その価値観を選び続けることによる結果を受けるのはその人自身である。多くの人間にとってはこれは残酷に聞こえるかもしれないが、価値観を選ぶこと・自由であることというのは本来はこのようなものであることに気がつく必要がある。


また本当の価値観の多様性とは、それ自体が目的となることは間違いである。各人が何を価値観として選ぶかは結果であり、その人にとってはその価値観は途切れることのない過程である。

世界は、価値観が多様であることそのものが重要なのではなく、つまり多様性は自己目的化するのは間違いであり、各人が各人の責任において価値観を選んだ結果が散在しているという認識してそれをお互いに認め合うことが本当の意味で寛容であるということだ。


価値観が散財している中でもかなりのマジョリティとしてある1つの価値観が支配的になることは歴史的によく発生する。

そのある意味で極端なものの見方によって争いや分裂が発生することもあるが、それは各人がその価値観を選んだ1つの結果として捉えるべきであって、その価値観1つが全否定されるというのはまた間違ったものの見方なのである。

人間の多くは、フワフワと生きていて本質の探求や真理の追求にはほとんど関心がないだろう。その中で、いやそうであるからこそ1つの価値観が(一時的に)支配的になることがある背景としては、ハンナ・アーレント著の『全体主義の起源』や、W. リップマン著の『世論』などに詳しく記述がある。


最後にまとめると、人間の本質が予め決まっていると、それを比較可能な形で記述できた際に、自分の価値観がその軸から離れられないものであることに気が付かされるが、ここで人間の本質が決まっていないとすると人間は自由の刑に処されることとなり、不安がつきまとう。

さてあなたは何を選ぶのだろうか。



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