見出し画像

人気イマイチ指揮者の技と神髄FILE.1 アンドルー・デイヴィス Part.1


1.デイヴィスはデイヴィスでも

大方のクラシック・ファンにとって、
指揮者界で「デイヴィス」と言えば、
アンドルーと同じ英国の先輩コリン・デイヴィスであり、彼こそが「デイヴィス」の第一人者であった。

デイヴィスといえばまず「コリン」であり、「コリン」を差し置いて「アンドルー」が脳裏に浮かぶ人は、よほどひねくれているか、
アンドルーを激推ししている超コアなマニアかの二択であろう。

しかも日本では「アンドルー」と「アンドリュー」の翻訳表記が混在し(前者の発音が正しいとの事)、
さらにはスティーヴン・セガール主演『沈黙の戦艦』のアンドリュー・デイヴィス監督まで登場して、
あらゆる面から不利な立場を強いられた。

何しろ、先輩コリンは多くの新譜を出した。
贅沢にも同じ曲を数回録音したりしたくらいだ。

それに較べるとアンドルーは、レコードの数もずっと少ないし、
あまり売れそうにないマニアックな曲目もかなり入っている。
コリンが何度も録音した名曲の数々にも、
アンドルーが一度も録音していない曲がたくさんある。

それでも彼が幸運だったのは、
マイナー級のオケながらトロント交響楽団という自分の楽団を早くに持ち、
メジャー・レーベルのCBS(米コロムビア、後のソニー・クラシカル)にそれなりの数のレコーディングを残せた事だ。

さらに彼がトロントでポストを得て幸運だったのは、カナダの国営放送局CBCがレーベルを持っていて、彼らのレコードもラインナップされた事。

我が国のクラシック業界では、「C・デイヴィス」「A・デイヴィス」と表記を区別している。
区別しないと紛らわしい程度には、アンドルーの知名度も得たという事である。
コリンに一矢報いたわけだ。

とはいえ、彼をラッキーな指揮者として紹介するのは早計である。

フランクの交響曲のLP。これはCD化あり。

2.ガリ勉メガネからコンタクトレンズへ

私がA・デイヴィスのレコードを聴き始めた頃、写真で見る彼の風貌は、
鼻の高い端正な顔立ちにおかっぱ頭、
「牛乳瓶の底みたいな」というベタな形容がぴったりの分厚いメガネといった所であった。

インタビューでは、「コンタクトも試してみたんだけど、しっくりこなくてね」なんて言っていた。
それが80年代に入ると、コンタクト業界の技術革新を追い風に激厚メガネとの決別に成功。
ひげまで生やして、別人のように恰幅が良くなっていたのであった。

その風采に比例するがごとく、彼はイギリス国営放送のオケ、BBC交響楽団に迎えられ、
国民的音楽祭プロムスの音楽監督に就任。
これが大成功を収め、「希望と栄光の男」などと呼ばれるまでになった。

プロムスの山場はラスト・ナイトというコンサート。
聴衆は演奏中でもおかまいなしにカズーや指笛などを鳴らしまくり、笑い声が追い討ちをかけるという、お祭り騒ぎの愛国的イベントである。

そんな暴走気味のハードな聴衆を相手に、
指揮とMCを兼ねるアンドルーが、ジョークを交えた軽妙なトークで会場を沸かせているのを見ると、
「おお、アンドルーが場を回しておるではないか」と、我が子を見守るような誇らしい気持ちにもなる(ちなみに氏は私より30歳くらい年上である)。

ではなぜ人気イマイチなのか、もはや大スターではないかという人もあるだろうが、
これはあくまで英国に限った現象である。
彼のレコードが世界中で飛ぶように売れているわけではない。

米CBSから本格デビュー盤が出た当初は、
日本盤を販売していたCBSソニーも
若手の有望株として彼に期待していた節がある。
最初の頃はほぼ全ての新譜が日本でも発売されていたのだが、80年代辺りから、どうも怪しい状況になってゆく。
日本では売れ行きが悪く、ラインから外されたのだろう。

オイルショック以降、レコード業界もどんどん不景気になってゆくのだが、
それでもまだ、海外で発売されたレコードは日本盤もほぼ出る時代であった。
それを考えると、A・デイヴィスの「日本盤出ない率」は相当に高く、
彼は人気イマイチ指揮者の雄として気を吐いてゆく事になる。

80年代には、既発の日本盤も廃盤や製造中止になっており、
関西の地方都市在住の私など、
街の小さなレコード屋に売れ残っているLPをたまたま発見しては、
「ええっ、こんなん出てたんか!」と仰天する有様であった。

ジャケット写真やのに、顔が隠れとるやないかい!

3.目覚ましい才能で激しく頭角を現す

私はこの企画の序文で、
フィリップ・ハート著『新世代の8人の指揮者』を引用して意地悪に書いてしまったが、
実は著者の主張はむしろ逆である。
彼は自身が知らない場所で、A・デイヴィスがいかに他の指揮者やオケの楽員たちからその才能を賞賛されているかを伝えたかったのだ。 

A・デイヴィスは70年、BBC交響楽団の演奏会で、急病に倒れた指揮者の代役でヤナーチェク作曲の《グラゴル・ミサ》を振る。
楽譜を研究する時間が取れないほど急な話だったが、公演は大成功を収めた。 

これをきっかけに仕事が増え、彼はあちこちで評判を取る。
ダニエル・バレンボイムは彼をイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団のレギュラー客演指揮者に推薦し、その打診を受け入れたのがズービン・メータ。バレンボイムもメータも、すでに大人気の若手指揮者だった。 

A・デイヴィスは欧米各地で一流オケの演奏会に客演し、いずれもオーケストラ、聴衆、マスコミから高い賞賛を得ている。
前述の本にも記事がいくつか引用されているが、彼はまさに「生まれついての指揮者」だと形容されている。 

私の手元には、トロント響の78年来日公演パンフレットがある。中国ツアーの途中に、東京で2日間行われた特別公演だ。
当時の私は子供だったので行ってはおらず、
これはヤフオクで見つけたものである。

表紙を開くと、かつてこのオケの音楽監督を5年間務めた小澤征爾による、
「アンドリュー・デイヴィスは若手指揮者の中で世界のトップを行くひとりだと思います」というコメントが引用されている。
実際に世界のトップを行ったのは、小澤本人の方なのだが。 

さらにプロフィール紹介を見ると、
「趣味は凧上げとステンドグラス作り」とある。だから、それなのだ。そういう所なのだ。
大スターが原っぱで凧を上げ、
部屋の隅っこでステンドグラスを枠にはめているなんて聞いた事ないのよ。
カラヤンなんて、いかついスポーツカーを乗り回し、自家用ジェット機を操縦するんだから。 

(Part.2へと続く。リンクは下記へ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?