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ラジオは原点回帰しながら、可能性への挑戦をやめたのかもしれない。

ラジオは知らず知らずのうちに分岐点を越えていたのか。

 ラジオの改編期になり番組が入れ替わる。
 番組がなくなることには気づくが、もっと大きなものが失われたことには気づきにくい。
 大抵の場合、あーあの時だったのかと、あとから思う。

 AMラジオ局は午前帯から夕方まで帯のワイド番組を編成している。
 古い商店街の八百屋の店先で流れているのが似合う、いわゆるガチャガチャしたベタな番組である。
 ラジオのワイドは70年代半ばから編成されはじめた。
 知っている番組で確認してみると「大沢悠里のゆうゆうワイド」が86年、「「吉田照美のやる気MANMAN!」が87年開始だから、00年代までワイド番組は十分に元気があった。
 日中から夕方までワイド番組がニュース、情報、娯楽を不特定多数の大衆向けに発信し、夜に個別のプログラムを挟んで、特定層に語りかける深夜放送へと移っていく。
 今もこのフレームは変わらないが、内容の変質がとても気になる。

若者向け深夜放送ではなく、ワイド番組こそがラジオの音が作り出す世界を広げていた。

 深夜放送はパーソナリティ(昔はディスクジョッキーと言ったけど)とリスナーが、個と個でとつながる親密な世界だ。
 余計な演出よりもプライベートな語り掛け、おなじ面白さを共有する投稿葉書があれば、他によけいなものはいらない純度の高い世界だ。
 一方でワイド番組は、だれもが楽しめるようにと雑味たっぷりで、編成のなかでも予算の多い枠だから、中継現場での遊びやロケ、音を生かしたゲームやクイズなど様々な仕掛けに挑んでいた。
 語りを聞かせる深夜放送のトークはラジオの原点ともいえる一方で、実は古臭く思えるワイド番組の方が、変化と差別化に貪欲で、新しい音の可能性に挑戦してきたのだ。
 フラットなトークに対して、音の楽しみの立体化である。
 若いころはラジオのワイド番組なんて中高年のものだろうと聞かなかったけど、今は振り返ると、この両輪あってのラジオだと思うようになった。

ラジオから失われていく世間のノイズや音の世界の広がり。

 ここ10数年、予算縮小を受けてワイド番組から遊びの企画が減少し、トーク番組化が加速している。
 私見ではあるが「伊集院光とらじおと」で、深夜の時間帯から昼の番組を眺めていた伊集院がやろうとしたのは、本来のワイド番組ではなかったか。世間のノイズを持ち込み、さまざまなアイディアや企画で音の世界を広げ、番組を立体化しようとする挑戦だったように思う。
 昔とは違う環境で、しかも限られた予算でやるのは厳しかったろう。
 また局がその内容や目的に応じた予算をつけなかったのは、費用対効果の高いパーソナリティのトーク頼みの番組を望んでいたのかもしれない。
 「伊集院光とらじおと」の終了で考えたのは、これでラジオで音声コンテンツの可能性に挑戦する時代が終わったのかもしれないということである。
 あとから考えると大きな分岐点になりそうな気がする。

 これからパーソナリティに依存したフラットなトーク番組ばかりの編成になれば、べつにラジオ放送に優位性はない。
 配信の音声コンテンツがほとんどそれだからだ。
 番組の作りや、企画の面白さではなく、喋り手次第。

ラジオはいつまで音のエンタメの王様でいられるのか。

 ラジオの放送作家のギャラは安いと言われるが、新人だった80年代から中堅にさしかかる90年代まで、さほどそうは思わなかった。
 思っていたのは、テレビに比べやや安いぐらいだけど、すっごく書かなければいけない、である。
 たしかにテレビには単価がとても高額なケースや割の良い仕事があるので、相対的には高いのだが、ラジオにはテレビにない楽しさがあった。
 しかし今のラジオのギャラはとんでもなく安い。
 安いから若いスタッフも無理使いできない。
 番組のパターンも同じだからネタを考える方向性も絞られている。
 パーソナリティのトーク主体だから台本もラク。
 だからスキルの向上に繋がらない(まぁ他で磨けばよいのだけど)。
 そんな状況の今、挑戦する番組が減っていけば、いままでにない企画を成立させる経験を積むこともできない。
 そこになにが残るのだろうか。
 上書きを続けるのだろうか?

 予算という足枷がますます厳しくなっていくなかで、もはやラジオでは不可能なのかもしれないが、だからこそ「スネークマンショー」のようなパッケージ化された音声コンテンツの誕生を望んでいる。
 ただし作れる人材は限られてくるだろう。
 伊集院、空いた時間で創ってくれないかな。
 無料ラジオのリスナーも、これなら有料で構わないと思うのだけどな。

                    <了>

 
 

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