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私は「愛」でできている。

梅雨だ。雨だ。ひどい雨だ。冷たい雨だ。それなのに、突然やってくるこの感覚。アブラハム・マズローが「至高体験」と名付けたこの感覚。東急線に乗って横浜に向かっていた。その車内の乗客とその向こうの車窓を眺めていたんだ。

ほんとうにぼんやりしていたんだ。少し疲れていたし、お腹もいっぱいだったし。早く電車が目的地に着くといいなと思い、スマホのバッテリーが20パーセント以下になったのでメールをチェックするでもなく、吊り広告の文面や、自分の膝の上のバックや、雨で濡れた足もとを、目線は無意味に行ったり来たりしていた。

その時、あれが来た。
私は「愛」でできている。と思った。

人生で出会ったすべての人の思いやりとやさしさと愛が私の構成要素だと知った。私は「愛」でできている。あまりに唐突すぎて、考えに感情がついていかないくらいだった。

濃く抽出された記憶が揮発するアロマみたいに脳全体にしみとおっていった。どれほどたくさんの善意と慈しみでこのこの人生がつくられてきたかを、私に知らせようとしたどこかの誰かに、甘美な香りのハンカチで鼻を口をそっと覆われたみたいに、くらっときた。

一瞬のなかに全人生があった。
私は「愛」でできている。
うわー。なんていう豊かさなんだ……。

この感覚は、時々やってくる。長くは続かないけれど、意味不明のものすごく深い気づきと感謝が押さえ込めない勢いでせり上がってきて、突き抜けて、恍惚となるような……。

これが、初めてこれがやって来たのは、27歳の時だった。

朝の靖国通りを歩いていた。あまりに突然だったし、ありえない衝撃と喜びだったものだから、今でもはっきり覚えている。あの時は、こう聴こえた。
「私の家族はみんな私の幸せを願っている」

当時、アルコール依存症の父とひきこもりの兄が、いざこざを起こしては警察から呼び出しがあり、この疎ましい、迷惑な家族さえいなければ、私はもっと楽しく生きていけるのに、どうして私の家族は私を苦しめるような事ばかりするんだろう、と思っていた。

それなのに、靖国通りを会社に向かって歩いていたら「家族はみんな私の幸せを願っている」という確信がどっかーんと降りて来て、その気づきは世界を一瞬で変えてしまい、家族に対する怒りが消え去り、どんなに意識が異論を唱えようが、抵抗しようのない慈しみと感謝で満たされてしまったことは、その後の私の人生をとても大きく変えた。

感覚は消えても、家族に愛されているという確信は揺らがなかったから。

この感覚は、どこから来るのか。なぜ来るのか。コントロールすることができないので、私に起きていることなのに、よくわからない。

その後もふいに来る。前触れも何もなしに、来る。
あれは何だったんだろう? と不思議で、いろんな本を読んで「至高体験」というものに近いのかも、と思った。強烈な感謝……、感謝という黄金の粒子が皮膚から浸透してくるような感じだ。

こんなにたくさんのものを与えていただいて、もうどのようにみなさんにお返ししていいのかわかりません。という感じだ。全世界のご恩がすごすぎて、圧倒される感じだ。

うわー、またあれが来たなあ、とぼう然としていたら横浜に着いた。意識はおせっかいだから「おい、この感覚を忘れるなよ」みたいなことを偉そうに言っている。「相変わらずあんたは偉そうだよね」と、もう一人の私が笑っている。

身体はまだふわふわしている。
だから、なにってことはないんだけれど、これから三日間くらいは謙虚で優しい人になっていると思う。

誰の人生にもこれはやって来るんだそうだ。ただ、さらっと忘れる人と、それを繰り返し思い出そうとする人といるらしい。感覚は一瞬で、あとは意識だからね。書くことでもう一度、意識を向けている。

感覚は、もう消えちゃっている。だから、こうして書いておかなければ夢みたいにすぐ忘れちゃう。いまは、消えた感覚を手探りしているみたいな感じ。消えてしまう感覚をとどめるために、そのために、書いていたような気がする。そこが、原点だったような……。



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