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ヴィム・ヴェンダース監督と3.11

「3.11で心を傷めている人に会うと、もやっとした気持ちになります。私は海外にいて、3.11を日本で体験していないし、親族にも被災者はいません。あまりにも自分が無傷なので、申し訳ないような、後ろめたいような、責められているような、妙な気分になるんです」

と、知人のMさんから言われて、もう、その時点であなたは3.11を体験しているじゃないか、と思った。それで十分だよ、と。

2011年、震災の年、とても印象深い出来事があった。

放射線量が高い飯舘村に住んでいる知人の家に、ヴィム・ヴェンダース監督を案内する機会を得たのだ。ヴェンダース監督は福島の原発事故にたいへん関心を持った様子で(たぶん、ヨーロッパ人としてチェルノブイリ事故を経験しているから)、東京国際映画祭の前に、福島市の映画館で新作映画を上映したいと申し出て、福島にやって来たのだ。

自分の眼で被災地を見たいという希望だった。いろいろな経緯があり、飯館村の知人宅が見学地として選ばれ、たまたま彼女を訪ねて福島入りしていた私も、日本の作家として同行することになった。

20代の頃にヴェンダース監督の「ベルリン天使の詩」を観ていた私は、「本当にヴェンダース監督に会えるのか?」と、この偶然にときめいた。友人もヴェンダース監督の大ファンで、「こんな悲しい出来事があった時に神様からのプレゼントじゃないか?」と、緊急避難地域となって家に帰ることもままならぬ現実の中に投げ込まれた、さらに非現実的な出来事に、ミーハーに喜んだ。

突然、原発事故が起こり家の周りが放射線で汚染されるという非現実的事態に遭遇している最中に、世界的に有名な監督が家に訪ねて来るという……、もうなにがなんだかわからない感じだった。

村役場の前で待ち合わせとなり、私たちは夕暮れが迫る役場の駐車場でヴェンダース監督一行を待っていた。放射線量は高かったが、放射性物質は見えない。あたりは美しい秋の夕暮れで、紅葉した木々が黄金に輝いている。

監督一行が到着。ヴェンダース監督は夫人と通訳といっしょだった。私たちは簡単な挨拶を済ませて、ここの線量を伝えた。そして「これから行く場所はここの十倍以上の線量があります」と言うと、監督は夫人と顔を見合わせて悲しそうな顔をした。

そして、知人の家に行った。秋の日暮れは早くどんどん陽が落ちてくる。森は何事もなく夕陽に照らされていた。カラスが鳴いていた。そして、ヴェンダース監督と一行は、ただ線量計の数値だけを頼りに「ここは……30マイクロシーベルトパーアワーあります」というような、会話を取り交わすしかなかった。

私は、監督はいま何を思い、何を観ているのかと想像した。わからなかった。彼の顔はずっと暗く深刻だった。森はなんらいつもと変わらず、ここが汚染されていることを感じ取れるのは、線量計の出す警告音だけで、それも鳴りっぱなしになるので止めてしまった。

十五分ほどの滞在で、私たちは全員で福島市の映画館に戻った。その夜は、日本で初公開となる監督の新作「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」が街の小さな映画館にかかった。その上映前の挨拶で、ヴェンダース監督は「福島の映画を撮りたい」と語った。言葉は、福島県民との約束のような強い響きをもっていた。

監督は、何を撮るのだろうと思った。彼の心のなかを探ってみたい。本心を聞いてみたいと思った。本当に放射線の恐怖を感じたのか? どこから、どのように? それをどう表現するのだろう。私には正直、まったくわからない。数値が高く危険だということは理解できる。でも、目が信じない。見えるものが全く変わらない、ただ、世界が質的に変容しているこの現実。

ヴェンダース監督は福島を撮るのかなあ、と心待ちにしていた。だから、2015年、ヴェンダース監督の新作映画のコメント依頼が来たときは、もちろん引き受けた。

送られてきたDVDを観て、やはりなあ、と思った。映画のタイトルは「誰のせいでもない」だった。内容は福島でも、原発事故でもなかった。

交通事故の加害者と被害者家族の人生が描かれていた。主人公は加害者で、子どもをひき殺してしまう。自分の犯した罪の重圧で家庭が崩壊。11年という時間をかけて、彼が加害者や家族との関係を回復していく映画だった。原題は「Every Thing Will Be Fine」だった。

「ベルリン天使の詩」のような映像美はないし、悪い映画ではないけれど、それほど感動したわけでもなかった。ただ、とてつもなく優しい映画だなと思った。これが、もし、なんらかの形で福島への思いを伝えているのだとしたら……、そんなことはどこにも書かれていないけれど、もしかしたら、被災して、住む家を追われて、新しい町で、新しい生活を始めている友人にとっては、傷口にあてられた包帯のような温もりを感じるのかもしれない。

Every Thing Will Be Fine

は、きっと大丈夫とか、みんなうまくいく……みたいな意味だと思うのだけれど、それが邦題では「誰のせいでもない」になっていた。ずいぶん意味が違う感じだなと思った。

私は、原題をタイトルにしたほうが良かったんじゃないかと思う。誰がいいとか、悪いとかそういうことを超越した視点の、映画だった。

ラストが、どうしても「ベルリン天使の詩」と重なる。希望……。

この映画に天使はいなかった。けれど、傷ついた人たちに寄りそう天使のまなざしを感じる。誰の傍らにも天使がいて、じっと呟きに耳を澄ませて人生を見ている。私の隣にも、亡くなった義父母の隣にも、遠くにいて被災を知らなかったMさんにも、被災した知人にも。

放射線という見えない存在と同じように、天使という見えない存在もいる。そして寄り添っている。

Every Thing Will Be Fine

2019年になってもまだ、そう言うのはためらわれる。自分を責めてしまうようなところがある。他者の悲しみに寄り添えきれない自分を責める場合もあるし、なにもしないでいる自分を責める場合もある。だから、3.11と向きあうのは『気をつけ、前へならえ』的な気合いがいる。

そういう私にとって、ヴェンダース監督のこの映画は、やっぱり「贈り物」だったんじゃないか、と今頃になって思う。監督は、約束を果たしたのかも、しれない。


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