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すずめちゃん

井の頭線の三鷹台と久我山の中間にある木造二階建てのアパートだった。一年半ほど住んでいた。向いは一軒家、裏は同じようなセメントの安アパートで、陽当たりは悪かったし、わたしの部屋は道路側の一階でよく「覗き」とか「空き巣」にも入られた。

二十才で、いまから思えば信じられないほど世間を知らなかった。知らないほど強いことはなく、怖いものは何もなかった。モンゴルのシャーマンは鷹をひな鳥から飼うのだそうだ。ひなは母鳥から狩りを教わり、襲ってはいけないオオカミや毒蛇には近づくなと訓練される。でも人間に育てられた鷹は怖いものを知らないので何にでも向かって行く最も勇敢な狩人になるのだそうだ。

わたしもそれに近かった。怖いものを知らずに育った。だから、真夏に寝ているとき、窓の外に男がうんこ座りをして部屋を除いている、その目と目が合っても、まだそれが危険だという認識がなかった。「覗き」の男はずいぶん長居をしていたらしく、窓の外には吸い殻がたくさん落ちていた。

このアパートは松美荘という風流な名前だった。わたしは一階の101号、隣の102号に住んでいたのは中央大学に通っている男子学生で、年は確かわたしより3つくらい上だった。彼の名前は石田弘之という。石田君は背が高くやや猫背で、痩せていた。いま思えばめっちゃ変わった人だった。

若い頃は人間を知らないので、フツーと変人の尺度が曖昧だから、わたしは石田君みたいなのが一般的な六大学に通う(頭の良い)大学生なのだろうと思っていた。

(偏差値が40くらいの)めっちゃ頭の悪い奴しか集まらない大学にちょこっと通って辞めてしまったわたしは、大学という場所が何をするところかも、単位ってなにかも、どうやったら卒業できるのかも、知らなかった。……というかそーいうことに興味がなかった。

ぷらっと通ってみるとたいして面白い授業もないし、教授はあまりやる気がないし、学生はタバコを吸って喫茶店でだらだらしているし……という時代。年代で言えば1980年の頃、未成年も平気でタバコをスパスパふかしており、別に誰からもとがめられなかった。

退学するという意志もないまま通わなくなり、お金がもったいないので退学した。だからってやりたいことがあったわけでもないし、しばらく久我山駅前にある「クロパン」という喫茶店でウエートレスのバイトをしていた。給料は6万円くらいで、とても生活できないので、夜もバイトを始めた。

吉祥寺にかつて伊勢丹があり、伊勢丹の向いに「ロイヤル」という高級なのか低級なのかわからない名前のパブがあり、そこの「カウンターレディ」なる職業がとても時給がよかったので飛び込んで採用された。

というわけで、昼も夜も働く勤労少女になったわたしは、まかない飯で食いつないでいたが、いつもお腹がすいていた。当時のわたしの人生目標は、冷蔵庫を買うこと。冷蔵庫が欲しい。冷蔵庫があれば食べ物を貯蔵できる。冷蔵庫をローンで買う。もうひとつ、布団が欲しかった。

松美荘に引っ越しをするとき、友人が軽トラックで荷物を運んでくれたのだが、途中、ものすごい土砂降りが来て布団が濡れてしまったのだ。軽トラの運転手の友人は「こりゃあ、布団が使えなくなる」と言い、彼の大学の先輩が近所に住んでいるからと、その先輩の家にわたしの布団を一時預かりしてもらった。また後で取りに来るから、という約束だった。

若い時の「また後で」は、「これで終了」と思って間違いない。結局、布団は名も知らぬ髭面の大学生(しかもちゃんちゃんこを着ていた)の部屋に預けられたままだ。歩いて取りに行ける距離でもなく、困ったなあと思ったが、わたしの部屋には当然ながら電話もないし、相手の部屋にも電話がない。大学生の部屋にまだ電話のない時代、電話は高級品だった。

わたしはひと夏を布団なしで過ごした。買うお金もなかったし、布団よりもとにかく冷蔵庫が優先だった。バイトから帰って冷蔵庫から缶ビールを取り出しぐびぐびっと飲むのが夢だった。冷蔵庫を買った時は、パーティを開いてお祝いをしたくらいだ。

冬になると寒いのでトーブを買ったのだが、石油ストーブを買ったことを後悔した。灯油がないと使えないことを失念していたのだ。あちゃーと思った。こたつにすればよかったの。電気であったまる。

まあ、そういう感じで、なにもかもよくわからなかった。バカだったと言えばバカである。生活者としての経験していないんだからしょうがない。当時はネットなんかなかったし。人に聞くしか世の中のことを知る手だてがなかった。

そういう意味で、ちょこっとだけ人生の先輩だった隣の石田君は、わたしにいろんなことを教えてくれた。ひな鳥に母鳥が狩りを教えるように。バカだったわたしは石田君が天才に見えた。なんでもよく知ってるなあ、と感激した。たとえば、石田君は「この世界は不平等なんだ」ということを教えてくれた。

「とっても不平等だし、これからもっと不平等になるんだ」

そうなのか?と、わたしはびっくりした。でも、確かに不平等かもしれない。なぜなら、カウンターレディのわたしの時給は千円なのに、ボーイの時給は470円なのだ。これは本当に不平等だ。だからボーイの大学生たちは「いいなー、オメーは。客の相手してるだけで千円だもんな」とボヤいていた。つまり、わたしは自分が得をしていると思っていた。

しかし、よくよく話を聞いてみるとそうではないらしかった。この社会には(社会ってなんなのかわからなかったのだが)搾取するものと、搾取されるものがいて、わたしは、搾取されている側の人間らしいのだ。

ええっ!どうして? わからない。きっとわたしがバカだからだと思った。だって、わたしはそもそも金がない。だから税金も年金も納めていなかった。そのわたしからいったい誰が搾取しているのだろうか?

石田君は「君はまだ無知だから、わからないんだ」とわたしを哀れんでくれて、いつもご飯をご馳走してくれた。わたしの大好物の鯵の干物と大根のみそ汁と納豆を用意して、わたしがバイトから帰って来ると「おなかがすいていないか?」と、窓から声をかけてきた。もちろんすいていたので、石田君の部屋に行くと、石田くんの友達が二、三人たむろして四畳半におり、彼らと一緒に夜食を食べた。

石田君とその仲間の会話はさっぱりわからなかった。彼らは「オベリスク」という名前のグループを作っていて、勉強会を定期的に開いていた。基本的に真面目そうな人たちで、勤労少女に優しかった。

「君はどうして大学を辞めたの?」と聞かれたので「つまらないから」と答えると「どうつまらなかったの?」とさらに聞かれた。んー。どうしてかな。「あんまり好きな雰囲気じゃなかったからかな。バイト先のほうが面白いよ。わたしは働くのが好きなんだ」

そう言うと、石田君と仲間は「すばらしい!」と頷いて、目をきらきらさせていた。どうやら彼らは親の金で大学に行っていることを恥ずかしいと思っているようだった。別に親が金持ちならそれでいいじゃんと思ったが、わたしも親が金持ちだったら、とりあえず籍くらい置いて卒業していたかもしれないし。

でもあの大学は、親が内職したお金を使って行くような場所じゃなかったんだよな。それにわたしは大学ってところがよくわからなくて、どこの大学がよくてなにを目指して大学に行ったらいいのかもてんで見当もつかなかった。そういうことを考える時間が高校時代にあったっけ? と思った。みんなどうやって進路を決めたんだろう。進路指導ってあったけど、なにを指導されたっけ?

高校を卒業したとたん高校時代のことがすっぽり抜けていてびっくりした。記憶は断片的だし、なにより高校で何を習ったのかわからない。学んだことなんかあったかなあ……と。高校時代に読んだ本しか覚えていなかった。

石田君たちは、そうとうわたしをバカだと思っていたらしい。わたしは無知だけど記憶力は人並だ。ある時、彼らが会話をしていて、それがどうやらヘルマン・ヘッセの「デミアン」に関する話題だとわかった。ゾロアスター教の起源がいつだとか、話をしている。で「あの主人公の名前はなんだっけ?」と言うから「エミール・シンクレールだよ」と言ったら、石田君他2名が、ありえないことに遭遇した異邦人みたいな顔でわたしを見た。

「すずめちゃん、ヘッセ好きなの?」「うん」

その部屋ではわたしは「すずめちゃん」と呼ばれていた。よくすずめにエサをあげていたからだ。鳥のなかでも最も地味な部類は入る「すずめ」という名をわたしは気に入っていた。

読書は大事だなと思う。本を読んでいたおかげで、わたしは彼らにとって野良猫的な存在から、人間に格上げされたと思う。話せばわかるかもしれない奴だと思ってもらえたみたいだった。(続く)




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