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昭和男と実家じまい3

この投稿は、実際の実家じまいについて綴っています。

<以前の投稿>
昭和男と実家じまい1
昭和男と実家じまい2

◉手続き、掃除、食事

家の後片付けの話ばかり綴っているが、実は母の死亡と共に発生する役所などへの届出は、どうなっているのだろうと、気になる所だろう。
実は、これは予め必要な手続きを父に伝え、それを父は一人でやってのけた。
元々事務処理能力は高い、頭のいい父だったので、頑張ってくれたので助かった。
本来なら私も傍に着いて手続きをした方が良かったかもしれないが、手取り足取り全ては無理だと判断した。
仕事、家事、育児、往復4時間をかけて出向き父の対応、それらを続けていて、流石に体が悲鳴を上げていた。
夫の父(私の義理の父)が亡くなった時は、義理の母について一緒に手続きをしたが、流石に今回は体力的に無理だった。
母が定期的に購入していた物、入会していた物、ポイントカードやキャッシュカードの解約は私と夫が主だって手続きをした。
また、水道光熱費やカードの引き去り、携帯や家の電話代、Amazonや通販で購入した物の引き去り、スポーツジムなどの会費など、生活費の関連は大体一つのカードに集約されていたので、大分助かった。今までこういった管理は全て母がしていたが、今後は父にしてもらわなければならない、さてどうしたものか。

大体の目処がたってきたので、生活の管理の仕組み化に取りかかることにした。
「お父さん、これから届いた請求書とかは、この箱に入れて」
一番目について、分かりやすいリビングのローテーブルに100均のA4サイズの白いカゴを置く。
先ずは請求書達の置き場所を決めて、集約する意識を持ってもらわないと、あちこちに資料が散乱すると思った。
「わかった、この箱だな」
その箱の隣に、健康保険証や診察カードなど日々使う物も置いた。
「必要な物は、リビングテーブルにこうやって置いておくから、先ずはここを見てね」
後々は父の使い易い様に、場所を変えたらいいが、今まで父が自分で管理してなかった物を、探す手間を省くために、目のつく所に置くことにした。
父は、請求書の入ったカゴを手にして、
「何にいくらかかって生活しているか、まずは3ヶ月ほど記録して、現状を把握しようと思うんだ」
と言った。
今まで家の事は、全て人任せにしていた父の前向きな発言に、一つ肩の荷が降りた気がした。
実は、家計の管理も私がしないとダメかな……と、ちょっと心配していたのだ。

気になる家の掃除は、ダスキン家事代行サービス・メリーメイドを頼むことにした。
自分の家と実家、2軒も掃除して維持するのは、無理と思っていたので、多少費用がかかってもここは外部委託をする。
このダスキンを頼むのにも一悶着あり、外部の人が家に入るのを嫌がる父を何とか説得して、活用してもらうことに成功した。
ただ、一人で対応するのは難しいらしく、ダスキンのメリーメイドさんとの日程調整や来てもらう時は、必ず私は実家に出向いて、掃除の箇所を伝える役目をしていた。

そして最難関が、食事だ。
お弁当の宅配サービスや、家事代行サービスHPで見つけた実家近くに在住している方に来てもらうなど、何度となく提案したが、父は首を縦に振らなかった。
父が作れるのは茹で卵だけだ。
母は料理上手だった。
それ故に、レトルト食品は食べた事もないから、父の中では選択肢にすら上がらなかった。
電子レンジもあまり使いたがらない。
それならと、家から徒歩2~3分程に昔からある喫茶店を度々活用するのはどうだろうかと思った。この喫茶店はコーヒー焙煎をしていて、母が存命の時からコーヒー豆を買っていた。我が家のコーヒーの味といえば、ここの喫茶店のコーヒー豆と言える。
コーヒー豆ばかり利用しており、喫茶店には行った記憶が殆どないので、私達家族と共に一緒に行こうと誘った。
父は思いの他ここでのランチを食べた。
これなら、いける、そう思い伝える。
「温かい物を食べたい時に、ここの喫茶店を利用するのはどう?家と同じコーヒーが飲めるよ。ほら、モーニングだってしているし」
しかし返ってきた返事は
「いや、俺は一人でこういう所には入らん」
で終わってしまった。
ここもダメか。昭和男は中々手強かった。

食事の問題が解決するまではと、私は毎回家で食事の作り置きを大量に作り、実家へと運んでいた。まるでツバメの親がヒナに餌を与えるが如く、私は食事を運んでいた。
しかし、これをいつまでも続けるのは厳しい現実。
大量の作り置きを用意するにしても、その時間を捻り出し、家族の食事も作りつつ、仕事の合間をぬって、往復4時間かけて実家に持っていくサイクルだ。
それに、息子が中学受験をするため、毎朝4時起きをして勉強にも付き合っていた。
そうなると自ずと睡眠時間を削るしかない生活を続けていた。

◉ようやく、少し整う

ようやく、父の生活基盤も少し整ってきたな、と思えたのは夏が過ぎた10月初旬だった。
母が亡くなったのが前年の11月30日なので、10ヶ月強ほど掛かったことになる。

相変わらず食事の大量の作り置きを運ぶ生活を送っているが、その頻度を少なくすることにして体の負担を軽減させた。
父は温かい食事が食べたくなったら、バスに乗って母と一緒に食事をしたうどん屋、中華料理屋で食べる様になった。
一人で店に入るのを嫌がっていた父だったが、少し変わったなと思えた。

父に食事を運ぶ時は、いつもダスキンさんに来てもらう様にしている。
重点的に掃除してもらいたい箇所を伝え、掃除をしてもらっている間に、シーツやタオルケット、洗面タオル類やトイレやバスのマット類を洗い、布団乾燥機で布団を干す。
父は、自分の服は洗うが、こういった物は洗う対象に入っていない様で、私が来た時に洗っている。
今は10月で、まだまだ蒸し暑い日々が続いているため、ベッドの上はタオルケットのままにした。でも、夜に少し寒くなって風邪をひいたらいけないので、横に2~3cmぐらいの薄い肌掛けの羽毛布団を置いておく。
そして洗濯機を回している間に、私は台所で父の昼食と夕食を作る。
持参した作り置きは翌日以降に食べてもらうので、その日に食べる物はせめて温かい物をと思って作っていた。
「カレーが食べたいなぁ」
父が昼食のリクエストをしてきた。
「ごめん、今日は小学校のことで少し早く帰らないとダメだから、カレーを作る時間がないんだ。オムソバとかどう?」
「ああ、それでもいい」
私がご飯を作っている時、父は必ず側にいる。
日々の我が家の様子を伝えたり、息子の状況を伝えたり、喋りながらご飯を作る。
当初は、あまりにも父が側にいるからビックリしていたが、今では慣れたものだ。
多分、普段は一人でいるから、寂しくて誰かと喋りたいのだろう。
そう気づいた時は、家で父の寂しさを思い、泣いた事もある。
本当なら、今日はカレーを作ってあげたかったが、母がしていた様に長く煮てトロトロの美味しい辛口カレーを父は望んでいるのが分かっていたので、時間がない今は難しかった。
今度来る時に、カレーを作って持ってきてあげよう、そう心に決めた。
晩ご飯の作り置きを調理しながら、オムそばの用意をしている時、不意に父が手帳の様なメモ帳の様な物を取り出して言った。
「ちょっと伝えておくな。覚えておいてくれ。貸金庫の番号は320番、預金は但馬銀行に……」
「ちょっと、ちょっと、待って。今、そんな事いわれても覚えられないよ。ご飯作っているし」
急に貸金庫や銀行の情報を伝え出した父に、驚いた。
「俺も、この先どうなるか分からんし、伝えとかんとな」
「そんなこと言わないでよ。それに、今言われても困るよ。今日は時間もないし」
母が亡くなって1年も経っていないのに、急に父が不吉なこと、私にとっては聞きたくない言葉を発したので、私はその会話を終わりにしたかった。
「そうか、じゃあ別の日に時間をくれ」
しかし、こういった情報を口頭で伝えようとする父は、やっぱり自分の都合で物事を進めてしまう昭和男だと苦笑いをした。
できれば、こう言った情報は紙にまとめて書いた物を手渡してもらった方が助かる。
父は異様に記憶力がいい人だったので、伝えるだけで相手も覚えると思っている節がある。
その日も父は、私が作った大きなオムソバをペロッと食べきった。
その様子を見て、一人で食事をしている時は、あまり食べていないのかもしれないと感じた。
だって、私が来た時に作った物は、かなりの食欲で食べてくれる。もしかして、お腹が空いているのかな……、もう少し来る頻度を増やした方がいいのかなと、心配になった。
何だかこの頃痩せてきた父の顔を見ると、心が痛んだ。

「じゃあ、次回の掃除、ダスキンさんと日程調整して、日程が決まったら電話するね」
「ああ、分かった。ありがとう。気をつけて帰れよ」
父が玄関まで見送ってくれる。
以前は、ここに母の顔もあった。
「貴ちゃん、またね。今度来る時の予定、また教えてね」
そう、にこやかに言ってくれていた母の声が聞こえてきそうだ。
そうして、いつも思い知らされる。母はもういなくて、繰り返された見送りの場面は、二度と経験する事はないのだと。
「うん、またね。お父さん、ちゃんと食べてね」
「わかってる」
最近、父との別れ際の挨拶は「ちゃんと食べてね」で締め括られる。
本当に、ちゃんと食事をして欲しい、大丈夫だろうか。
次回来る時は、必ずカレーを持ってこよう。それも大盛だ。そう思った。
この日は2022年10月6日だった。

つづき> 昭和男と実家じまい4


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